第7話:言葉が、通じない
異変は、朝の市場から始まった。
僕とヨミが、焼きたてのパンを買おうとしていた時だ。香ばしい匂いと、客のざわめきと、荷車の車輪の音。いつもの朝の、いつもの騒がしさ。その真ん中で、店の主人が、僕に何かを言った。
口は動いている。声も、確かに出ている。皺の寄った喉が、ちゃんと震えている。でも――意味が、頭に入ってこない。
音の連なりが、ただの音でしかなかった。
「……え?」
僕は、聞き返した。今度は、僕の声のほうが、おかしかった。喉から出た言葉が、宙でほどけて、ばらばらの音になって落ちていく。自分の口から出たものなのに、僕にすら、その意味がつかめない。
主人は、目を白黒させて、僕を見ていた。突き出したパンを、どうしていいか分からない手が、宙で止まっている。
通じない。
言葉が、通じなくなっていた。
市場じゅうで、同じことが起きていた。人々が、口を開き、そして凍りつく。母親が子に呼びかけて、子が首をかしげる。商人が値を叫んで、客が意味を取れずに立ち尽くす。声はあふれているのに、どこにも、意味が届いていない。
喉から音を絞り出しては、届かないと知って青ざめる顔、顔、顔。市場は、声の洪水のまま、しんと静まりかえっていた。誰もが、隣の人間が急に見知らぬ生き物になったような、そんな目をしていた。
僕は、ヨミの袖を、無意識に握っていた。彼女の声だけは、まだ、僕に届く。それが、唯一の手すりみたいに思えた。
「言語庫……!」ヨミが、鋭く言った。彼女の声は、まだ聞き取れた。「破られました。言葉と意味を司る、二つ目の庫」
「ヴァイスか」
「たぶん、手の者が。……セン、これはまずいです」ヨミの頁の目が、めまぐるしく走った。行から行へ、何かを読み取ろうとするみたいに。「言葉が壊れると、約束が壊れる。名前が壊れる。人が、人を、わからなくなる。放っておけば――この街は、誰も誰とも通じ合えない場所になります」
その言葉の途中で、看板の文字が、溶けはじめた。
パン屋の看板に書かれた文字が、墨のように滲んで、意味を失って、ただの黒い染みになって垂れていく。ぽたり、ぽたり、と音もなく。街じゅうの文字が、同じように、意味を手放していく。値札も、道標も、店の名も。世界から、「読める」ものが、消えていく。
僕は、ぞっとした。血の気が、足元から引いていく。
だって、僕の力は――「読む」ことだ。言葉が、意味を失えば。僕は、ただの、非力な司書だ。
僕は、震える手で、胸の本を開いた。ガラン師匠の、原初書の副本。さっきまで読めていた、あの文字たち。頁をめくる指が、こわばって、うまく動かない。
――読める。
安堵で、膝が緩んだ。原初書の文字だけは、溶けていなかった。世界じゅうの言葉が崩れていく中で、そこだけが、頑として揺るがない。相変わらず、知らないのに知っている言葉で、頁の上に、生きて這っていた。
「原初書の言葉は、すべての言葉の、根っこなんです」ヨミが、僕の手元を覗き込んだ。淡い頁の光が、文字の上に落ちる。「表面の言葉が溶けても、根は残る。……でも、セン」
その声が、ふっと沈んだ。
「根っこを読むのは、枝葉を読むより、ずっと重い。代償も、大きい」
わかっている。読めば、何かを払う。記憶か、体力か。それが読み手の宿命だ。でも、それしか、道はない。
僕は、街を見渡した。通じ合えなくて、少しずつ苛立ちはじめた人々。伸ばした手が振り払われ、宥めようとした声が、逆に相手を身構えさせる。誤解が、あちこちで、小さな諍いに変わりかけている。
言葉が壊れるというのは、こんなにも、静かで、恐ろしいことなのか。悲鳴も、爆発もない。ただ、人と人のあいだの糸が、音もなく、ほどけていくだけ。街が空へ落ちた時のような派手さは、どこにもない。なのに、こっちのほうが、ずっと救いがない気がした。
言葉がなければ、人は、赦し合うことも、詫びることもできない。ただ、わからないまま、遠ざかっていく。
「ヨミ、原初書の、どこを読めば」
僕は、ヨミに聞いた。いつものように。彼女が指を一本立てて「三行目です」と、いつもの調子で導いてくれるのを、待った。
でも。
ヨミは、答えなかった。
彼女は、自分の手を、じっと見つめていた。透けた指先が、さっきより、薄くなっている。窓越しの光が、その手を、通り抜けていた。
「ヨミ?」
「……変、なんです」ヨミの声が、かすかに揺れた。いつもの神託の芯が、そこにはなかった。「言葉が壊れると、わたし――『ヨミ』っていう、呼び名も、薄くなる。だって、それも、あなたがくれた言葉だから」
背筋が、冷たくなった。
名前を持たないこの子は、言葉が壊れる世界で、いちばん、消えやすい。真名を失ったヨミを、この世に繋ぎとめているのは、たった一つ、僕らが呼ぶ「ヨミ」という、借りものの言葉だけ。それが今、溶けかけている。
「大丈夫」僕は、とっさに、ヨミの手を握った。透けた、頁みたいな手を。指のあいだから、こぼれ落ちそうな体温を、必死につなぎとめるみたいに。「君は、ヨミだ。僕が、何度でも呼ぶ。ヨミ、ヨミ、ヨミ。――ほら、薄くならない」
一音ごとに、力を込めた。壊れかけた言葉の海の中で、その名前だけは、絶対に手放さないと決めて。
ヨミが、目を見開いた。透けた頬に、じわりと、色が戻る。輪郭が、また、はっきりしてくる。
「……ずるいです、それ」ヨミが、泣きそうな顔で、笑った。「言葉が壊れてるのに。あなたの『ヨミ』だけ、ちゃんと、届く」
届く言葉が、まだ、ある。
なら、戦える。
その時だった。街の中央の広場で、誰かが、演説を始めた。
通じないはずの言葉が、その声だけは、なぜか、人々の耳にすんなりと入っていく。おかしな話だった。世界じゅうの言葉が壊れているのに、その声だけが、意味を持って、人の心へ滑り込んでいく。
まるで、崩れた言葉の海に、たった一本だけ、渡された橋のように。
そして、その声を聞いた人々が、少しずつ、隣の誰かを、敵の目で見はじめた。さっきまで途方に暮れていた顔が、じわじわと、憎しみの形に変わっていく。
「あれです」ヨミの声が、低くなった。神託の声に、切り替わった。「言語庫の、実行犯。壊れた言葉の中で、たった一つ『通じる声』を握って、人を操ってる」
広場の演壇に、女が立っていた。
唇を、赤く塗った、細身の女。両手を広げて、まるで指揮者のように、混乱する群衆の感情を、思いのままに、つり上げていた。
女の口が動くたび、人々のざわめきが、一つの方向へ、揃っていく。恐怖が、怒りへ。怒りが、敵意へ。まるで、ばらばらだった音が、彼女の指先で、一つの調べに編み直されていくみたいに。
通じない世界で、たった一人、通じる声を持つ者。それがどれほど恐ろしい力か、僕は、今、目の前で見せつけられていた。言葉を独り占めした者は、真実さえ、思うがままに書き換えられる。
僕は、その光景を、じっと読んだ。――たった一つ、通じる声。それが、この災厄の、鍵だ。
お読みいただきありがとうございます。
第二章、開幕です。今度の災厄は「言葉が通じない」世界。読む力を持つセンにとって、最悪の相性かもしれません。そして言葉が壊れると、名前のないヨミが、いちばん消えやすい――。
次回、第8話「たった一つ、通じる声」。壊れた言葉の中で、なぜあの女の声だけが人に届くのか。演壇に立つ女の正体と、その声の秘密に、センが迫ります。
ブックマークで、続きを追ってもらえたら嬉しいです。




