王国の使者が来た。「国に帰れ」と言われたので「嫌です」と言った
使者が来たのは、朝の収穫が終わって昼飯を食べ終えた頃だった。
馬の蹄の音が四つ。御者が一人と、護衛の騎士が二人。
そしてその真ん中に、金糸の刺繍が入った深紅のマントを纏った、初老の男が一人。
木が先に教えてくれたので、俺は畑の端で待っていた。
馬車が止まり、男が降り立った。
顎ひげを丁寧に整えた、いかにも位の高そうな顔をしている。
鼻が高く、目が細く、俺を見下ろす角度が絶妙に計算されていた。
「お前がアルトとやらか」
開口一番、それだった。
「そうです」
「マルクス侯爵だ。王国貴族の筆頭格と思ってもらって構わん」
思ってもらって構わん、という言い方が引っかかったが、黙っておいた。
「単刀直入に言う。お前の力は噂で聞いた。グリフィンを手懐け、呪いを解き、精霊界と繋がりを持つとな。そのような力は国家のものだ。王都に戻り、騎士団に加われ。国王陛下のお声がかりと思えば、お前にとっても悪くない話のはずだ」
俺は聞き終えてから、少し考えた。
「嫌です」
マルクス侯爵の眉が、ぴくりと動いた。
「……なんと言った」
「農家なので、王都には行けません。大根の収穫が今月中にあって、来月には麦の種まきがあって、その前に水路の補修もしないといけないので」
「農家だと?」
「農家です」
侯爵が、俺をじっと見た。
値踏みするような目だ。俺が脅せばひるむと思っている目でもある。
「わかっておるのか。王命に等しい話をしておるのだぞ。拒否すれば、それなりの結果が待つと——」
「少し、よろしいですか」
横から、冷たい声が割り込んだ。
シルフィアだった。
小屋の扉を開けて出てきたシルフィアは、いつもと少し様子が違った。
背筋が伸びて、顎が上がっている。琥珀色の目が、侯爵を静かに、しかし真っ直ぐに見ていた。
王女の顔だ、と俺は思った。
普段の、俺に向かって「なんで平気な顔してるの!」と騒ぐシルフィアではなく——精霊王の血を引く、本物の王族の顔だった。
「私はシルフィア・エル・ヴェルドリン。精霊王ヴェルドの娘です」
侯爵の顔色が、一瞬だけ変わった。
すぐに取り繕ったが、その一瞬を俺は見逃さなかった。
「精霊界の王女が、なぜこのような辺境に」
「アルトの客人として滞在しています」
シルフィアが一歩、前に出た。
「侯爵、はっきり申し上げます。このアルトという人物は、精霊界の根源樹との対話を成し遂げた、精霊界にとって極めて重要な存在です。彼に無礼を働けば、精霊界へ敵意ありと見なします。王国は精霊界と戦争がしたいのですか」
静寂が落ちた。
護衛の騎士二人が、顔を見合わせている。
御者が、手綱を持ったまま固まっている。
侯爵は口を開いたまま、シルフィアを見ていた。
「……それは」
「それとも」とシルフィアが続けた。声は穏やかだが、底に鉄が入っている。「精霊界の警告など、王国は意に介さないとおっしゃいますか。それならそれで、父に伝えます。精霊界が人間界の魔力供給をどの程度担っているか、侯爵はご存知ですよね」
マルクス侯爵の顎ひげが、かすかに震えた。
そこへ、もう一つ別の声が加わった。
「俺たちも、アルトの味方です」
茂みの方から、エリクが歩いてきた。
シーナ、カイン、バルドが後ろに続いている。
四人とも、装備を整えて武器を帯びていた。
仕事で近くに来ていたのか、それとも——俺への手紙を書いた後、何かを察して来てくれたのかは、わからない。
エリクが侯爵の前に立った。
「王国公認の勇者パーティー、エリク・サンダーブレイドです。アルトには個人的な恩があります。彼を無理やり連れていこうというなら、俺たちが黙っていない」
侯爵が、エリクを見た。シルフィアを見た。俺を見た。
俺は、その間もずっと草むしりを続けていた。
さすがに止まるべきかとは思ったのだが、ここのヒユという雑草は放っておくと繁殖が早くて厄介なのだ。話し合いはシルフィアとエリクがやってくれているし、俺が加わっても場が複雑になるだけだろう。
「……」
侯爵が、一歩引いた。
ゆっくりと、しかし確実に、後退した。
深紅のマントを翻して、馬車に向かいながら、低い声で言った。
「……覚えておけ」
俺は顔を上げた。
「覚えておきます」
にっこり、と笑って返した。
侯爵の背中が、ぴくりと揺れた。
それだけ言い残して、馬車は来た道を戻っていった。
蹄の音が遠くなって、完全に聞こえなくなった頃、シルフィアが大きくため息をついた。
「……行った」
「お疲れ様でした。かっこよかったです」
「当然でしょ」とシルフィアが言ったが、耳が赤い。「あんな小物、怖くもなんともない」
「助かりました」
「礼はいい。あなたが草むしりしながら話を人に任せてたのには、さすがに少し呆れたけど」
「ヒユが繁殖すると厄介なので」
「……あなたって、本当に農家ね」
エリクが近づいてきて、俺の肩を叩いた。
「アルト、手紙に返事を出す前にここまで来て正解だったよ」
「来てくれてありがとうございます」
「礼はいい。それより——」エリクが声を落とした。「マルクス侯爵、何か隠してるぞ。あの目は、ただ権力を振りかざしたいだけの人間の目じゃなかった。何かを焦っていた」
俺は草むしりした手を止めた。
焦っていた。
その言葉が、頭の中でゆっくりと転がった。
根源樹の「東の地脈から、人間の魔力の匂いがする」という声と、重なった。
「エリク」
「何だ」
「しばらく、近くに泊まってもらえますか。何かが、動き始めてる気がするので」
エリクが俺の顔を見た。
真剣な目だと思ったのか、黙って頷いた。
「わかった。村長に頼む」
「ありがとうございます」
夕方の光が、村を橙色に染めていた。
風が少し、冷たかった。
木が静かに囁いた。
『アルト。東の地脈が、また少し動いたぞ』
「……わかりました」
俺は立ち上がって、東の空を見た。
雲の形が、いつもと違った。
重たく、黒ずんで、何かを含んでいるような雲だった。
ヒユの束を持ったまま、俺はしばらくそこに立っていた。




