秋になった。畑が実った。そして…
秋が来た。
森の葉が赤と橙に染まり、畑の作物が頭を垂れて、朝晩の空気が冷たく澄んでいく。
俺がこの森に来てから、最初の秋だった。
土が言っていた通り、今年の収穫は豊かだった。
大根、芋、麦、豆、南瓜、人参——すべてが例年の倍以上、育った。
土は「精霊の加護と、あんたの手入れのおかげじゃ」と言っていたが、俺はただ土と水と植物の言う通りにしていただけで、大したことはしていない。
エルデ村では収穫祭をやることになった。
最初は村長と数人で小さくやるつもりだったらしいが、ガデルが「どうせなら盛大にやろう」と言い出し、ドーフが「食器は俺が作る」と言い、リリアが「告知の文書を周辺の村にも送りましょう」と動き出した。
気づいたら、近隣から百人近い人が集まることになっていた。
*
収穫祭の前日、俺は朝から仕込みをしていた。
大鍋を三つ並べて、スープと煮込みと蒸し料理をそれぞれ担当する。
シルフィアが隣で野菜を黙々と切っている。ここ最近、シルフィアの包丁さばきは目を見張るほど上手くなっていた。精霊界にいたころは料理などしたことがなかったと言っていたが、毎日やれば当然上達する。
「シルフィア、その人参、もう少し薄く切ってもらえますか」
「このくらいじゃだめ?」
「煮込みに入れるので、もう少し薄い方が味が染みます」
「……こう?」
「ちょうどいいです」
シルフィアが「ふん」と言って、切り方を変えた。
ちょっとだけ得意そうな顔をしていたが、見て見ぬふりをした。
ルナが小屋に飛び込んできて「アルトおにいさん、飾り付けどこに貼ればいい!?」と叫んだ。
コルが「走るな、ルナ」と言いながら後ろからついてきた。ペペはコルの背中にしがみついていて、その重さでコルがよろめいていた。
「広場の入口と、村長の家の前に貼ってください」とルナに答えると、ルナは「わかった!」と言ってまた走って出ていった。
「走るなって言ったのに」とコルが諦めた顔で後を追った。
シルフィアがそれを見て、くすっと笑った。
「あの子たち、本当に元気ね」
「ルナは最初、茂みの陰から覗いてたんですよ」
「嘘、あんなに積極的なのに?」
「今でも茂みから覗くことはありますけど、以前より直接的になりました」
「成長ね」
「そうですね」
シルフィアが人参を切りながら、少し遠い目をした。
「……私が精霊界にいたころは、こういうの、なかったわ」
「こういうの?」
「普通に、誰かの隣で料理して、子どもが走り回って、焚き火の匂いがして——そういう、何でもない時間」
「精霊界では?」
「儀式があって、会食があって、作法があって。誰かと並んで鍋をかき混ぜることはなかった」とシルフィアが言った。包丁の手を止めないまま、静かに続けた。「窮屈だとは思ってたけど、こういうものだと思ってた。ここに来るまでは」
俺はスープをかき混ぜながら、シルフィアの横顔を見た。
「ここに来てよかったですか」
シルフィアが、少し間を置いた。
「……うん」
短い返事だったが、迷いがなかった。
*
収穫祭は、昼過ぎから始まった。
広場に長机が並び、料理が並び、樽の酒が開いた。
近隣の村から来た人たちが、エルデ村の豊かさに目を丸くしていた。
「この村、去年まで辺境の小さな集落じゃなかったでしたっけ」
「そうですよ。あそこに住んでる農家さんが来てから変わったんです」
「あの人が……って、普通の格好してますね」
「普通ですよ。でも土と話せるらしくて」
「土と?」
そんな会話があちこちで聞こえてきた。
俺は配膳を手伝いながら、その声を半分聞き流していた。
料理が減ったら補充して、椀が空になった人に注いで、子どもが転んだら起こしてやって——そういうことを繰り返しているうちに、気づいたら日が傾いていた。
ヨシュが来ていた。
ギルドの制服ではなく、私服だった。少し緊張した顔で、料理を皿に取りながら俺の横に来た。
「アルトさん、お久しぶりです」
「ヨシュさん、来てたんですか」
「ええ……その、報告書を書いたことで余計なことになってしまって、お詫びに来ようと思ったんですが、なんか気づいたら収穫祭になってて」
「気にしてないですよ。おかげで村が賑やかになりましたし」
「本当ですか」とヨシュが安堵した顔をした。「よかった。あと、その——Sランクの認定申請書、もう一度持ってきたんですが」
「いりません」
「農家、でしたね」
「農家です」
ヨシュがため息をついて、書類をしまった。それでも表情は穏やかで、悪い気はしていないらしかった。
日が沈む頃、広場に焚き火が焚かれた。
誰かが楽器を取り出して、適当な曲を弾き始めた。
それに合わせて、何人かが踊り出した。ルナが知らないお兄さんに「一緒に踊ろう!」と突撃していた。
俺は広場の端の丸太に腰を下ろして、その光景を眺めていた。
しばらくして、シルフィアが隣に座った。
二人で並んで、焚き火と踊る人々を見ていた。
楽器の音が、夜の空気に広がっていく。
シルフィアが、静かに口を開いた。
「アルト」
「はい」
「……聞いてもいい?」
「どうぞ」
シルフィアが、膝の上で手を組んだ。
少し間を置いてから、真っ直ぐ前を向いたまま言った。
「私、精霊界に帰る気になれないんだけど——ここにいていい?」
焚き火が、ぱちりと音を立てた。
楽器の音が続いている。
俺は少し考えてから、答えた。
「最初からそのつもりで部屋を作ってますけど」
シルフィアが、ぴたっと止まった。
「……いつから」
「一週間経っても出ていく気配がゼロだったので。あのあたりから」
「あのあたりって——それ、来て最初の一週間じゃない!」
「そうですね」
「早い!!」とシルフィアが声を上げた。「決断が早すぎる。もっとこう、悩んだりしなかったの!?」
「悩む理由がなかったので」
「ない!? 精霊王の娘が転がり込んできたのに!?」
「助かってましたから。薬湯と、料理と、子どもたちの面倒と——あと、隣にいてくれること全般で」
シルフィアが、今度こそ完全に固まった。
頬が赤くなっていくのが、焚き火の光の中でもよくわかった。耳は言うまでもない。首まで赤い。
「……そういうことを」
「はい」
「そういうことを、さらっと言うのをやめなさいって、何度も言ってるじゃない」
「すみません。本当のことなので」
「っ——」
シルフィアが膝を抱えて、顔を埋めた。
しばらくそのまま動かなかった。
楽器の音が続いている。焚き火が揺れている。
それから、ごく小さな声が聞こえた。
「……私も、あなたのことが」
「はい」
「……好き、かもしれない」
「かもしれない、ですか」
「確定よ、確定! かもしれないじゃなくて好き! 言い直すからもう一回聞いて!」
「聞いてます」
「好き!」
言い終えた瞬間、シルフィアがまた顔を膝に埋めた。
俺は、そうですか、と言おうとして——やめた。
そうですか、は、さすがにこの場にそぐわない気がした。
「俺も」と、代わりに言った。「シルフィアのことが好きです」
シルフィアが、顔を膝に埋めたまま、くぐもった声で「知ってる」と言った。
「知ってたんですか」
「昨日から知ってた」
「昨日……」
「木が教えてくれた。余計なことを」
あの大木め、と思ったが、まあいい。
俺は空を見上げた。星が多い。風が冷たい。いい夜だ。
シルフィアが、ゆっくりと顔を上げた。
まだ赤いが、今度は俺の方を向いた。ちゃんと目を合わせてきた。
「……これからも、ここにいる」
「はい」
「ずっと、いる」
「どうぞ」
「歓迎してよ、もっと」
「大歓迎です」
シルフィアが、ようやく笑った。
これまで見たどの笑顔とも違う、少し照れくさそうで、でも満足そうな笑顔だった。
広場では踊りが続いている。ルナが誰かと手を繋いで回っている。ペペが転んで泣いていた。コルが「だから走るなと言ったのに」と呆れていた。
ガデルが大きな声で笑い、ドーフが酒を注ぎ、リリアが「記録しますね」と何かを書いていた。
村の声が、夜の中に溶けていく。
*
宴会が終わって、人が散り、広場が静かになったのは夜も更けてからだった。
焚き火の残り火が、じんわりと燃えている。
俺とシルフィアは、まだそこに座っていた。
土が、地の底からゆったりと囁いた。
『豊作じゃったな、アルト』
「ありがとうございます。土のおかげです」
『来年はもっと育ててやるぞ。精霊の加護も増えそうじゃし、楽しみにしておれ』
「頼みます」
シルフィアが「何を話してるの」と聞いてきた。
「来年の畑の話です。もっと育てるって」
「じゃあ私も」とシルフィアが言った。「来年は、私も混ぜてよ」
「どうぞ。シルフィアの担当、決めておきますか」
「なんでもいい。でも——」
シルフィアが少し考えてから、言った。
「薬草の区画は私が管理する。あなた、薬草の見分けが怪しいから」
「それは確かに」
「あと、水路の補修も一緒にやる。一人でやると無理をするから」
「ありがとうございます」
「礼はいい」
シルフィアが、残り火を眺めた。
「……来年の春、楽しみね」
「そうですね」
「春になったら、何を植える?」
「土に聞いてみます。たぶん豆が向いてるって言うと思いますが」
「豆か。豆のスープ、作り方、教えて」
「教えます」
そういう会話を、静かに続けた。
来年の春の話。
再来年の夏の話。
いつかエルデ村がもっと大きくなったときの話。
どれも、ここにいることが前提の話だった。
そのことが、当たり前のように二人の間に横たわっていた。
残り火が、ゆっくりと小さくなっていく。
森が、深く息をしている。
木が、穏やかに揺れた。
『悪くない縁になったじゃろ。あのとき落としてよかった』
(落としたのは事故だろう)
そう思ったが、まあ——結果としては、そうかもしれない。
俺とシルフィアは、残り火が消えるまで、そこに並んで座っていた。
来年の春は、きっといい季節になる。
土がそう言っていたから、間違いない。




