第二部 第66話 基幹層の揺らぎ
風の流れは速い。
ロスヴァルを発ったエリーナは、高度を保ったまま一直線に南へ向かっていた。
眼下に広がる森。
遠くに見えるファランシアの外壁。
空はエリーナを歓迎するように穏やかだ。
だが。
「……流れが、違う」
風は正常。
だが、どこか粘りを帯びている。
大気に混じる魔素の揺らぎ。
小さい。
だが、無視できない。
◆
ファランシア外縁。
エリーナは滑るように降下する。
門衛が驚き、すぐに敬礼する。
「王女殿下の使者です」
短く告げる。
都市に異常は、見えない平穏だ。
市井にも混乱の様子はない。
魔導灯も正常に動作している。
だが。
“静かすぎる”。
エリーナは、そう感じた。
◆
旧医療区画。
リム=サクラは、端末を見つめていた。
波形。
基幹層の深部ログ。
安定表示。
だがその底に、わずかなノイズ。
「来ましたね」
扉が開く前に言う。
エリーナが一瞬目を見開く。
「……分かっていたのですか」
「来る頃だと感じていました」
淡々とリムは、エリーナに話す。
エリーナは、セリナからの伝言を告げる。
「ロスヴァルで異常が発生しました。
こちらは、かわりないですか?」
少しの空白が生まれる。
「ええ」
リムは頷く。
「こちらでも、微弱な揺らぎを確認しています」
端末を回転させる。
波形の底に、微かな歪み。
「侵入ではありません。七聖の干渉でもない」
「では……?」
「まだ断定できません」
それが、最も重い言葉だった。
◆
保存槽の前。
アオトは眠っている。
穏やかな呼吸。
だが。
脳波は、以前よりわずかに高い。
《同期率:漸増》
数字は小さい。
だが、確実に。
「彼は?」
エリーナの声は小さい。
「目覚める兆候はありません」
一拍。
「ですが――」
リムは画面を拡大する。
都市基幹層と、保存槽の接続点。
そこに、微かな揺らぎ。
「都市が揺れれば、彼も揺れる」
◆
アオトの夢。
音はない。
光の網。
都市神経網。
その中に、空白がある。
黒ではない。
穴でもない。
“設計外”。
触れようとする。
だが、届かない。
《鍵:未解放》
◆
「揺らぎは拡大していますか?」
「いいえ」
リムは首を振る。
「だが、止まってもいない」
それが厄介だ。
侵食でもない。
暴走でもない。
“調整されている”ようにも見える。
「意図があると?」
「分かりません」
だが。
自然発生の振る舞いではない。
◆
都市外壁。
魔導灯が一瞬だけ、微かに揺れる。
誰も気づかない。
だが、基幹層のログには残る。
◆
「王女に伝えてください」
リムが言う。
「都市は保たれています。
だが、揺らぎは存在します」
エリーナは頷く。
「王女は戻りません」
「正しい判断です」
即答だった。
「盤上を離れるべきではない」
観測者の言葉。
◆
エリーナがロスヴァルへと戻る。
風は先ほどより重い。
ほんのわずかに。
旧医療区画。
リムは一人になる。
端末に表示された微弱波形。
それは、一定の周期を持ち始めている。
まだ小さい。
だが。
「……応答している?」
呟きは、誰にも届かない。
◆
ロスヴァルへ向かう風の中。
エリーナは思う。
都市は無事。
だが、アオトは無事ではないかもしれない。
◆
保存槽の中。
アオトの指が、わずかに震える。
夢の中。
光の網が、ほんの一瞬だけ――
脈打った。




