第二部 第60話 黒の魔女、地に立つ
朝霧が、ロスヴァルの平原を覆っていた。
静かすぎる。
風が、止んでいる。
「……おかしい」
城壁の上で、エリーナが呟く。
魔力が揃っている。
乱れがない。
自然の流れではない。
「規則的な魔力波……敵影です」
地鳴りが、遅れて届く。
やがて霧の向こうに、黒い影が浮かび上がった。
整列。
旗は黒。
中央に七聖の紋章。
「……七聖聖導軍」
カイの声が低く落ちる。
数は千前後。
だが問題は数ではない。
歩調が揃いすぎている。
魔力の流れが、ひとつに統一されている。
それだけで空気が重くなる。
その中央を、ひとりの黒装束の女が歩く。
黒衣。
外套が風もないのに揺れる。
ジュリア・マクミルラン。
黒の魔女。
◆
南門前。
セリナは前に出る。
逃げない。
兵の視線が背中に刺さる。
だが揺れない。
ジュリアは十歩手前で止まった。
「……よくここまで来たわね」
声は穏やか。
だが温度がない。
「お越しいただき、光栄です」
セリナも一歩も退かない。
ジュリアの視線が、城壁、兵、旗を順に測る。
「小さな火種が、よくここまで広がったものね」
「火は、燻るから燃えるのです」
ジュリアの目が、わずかに細まる。
◆
緊張が走る。
ジュリアが一歩前へ出た。
瞬間、圧が地面を押す。
兵の膝が震える。
呼吸が浅くなる。
魔力ではない。
存在そのものの重み。
セリナは光を展開する。
薄く、だが確かに。
紫紺の瞳は逸れない。
「盤を壊す覚悟はあるの?」
「盤は、すでに壊れている」
魔力が衝突寸前で止まる。
空間が軋む。
あと一瞬で、戦闘が始まる。
◆
そのとき。
ジュリアの耳元に、微細な通信音。
ノイズはない。
静かな声。
「退け」
一言。
命令だけがある。
感情はない。
ジュリアの瞳が、ほんの一瞬だけ止まる。
理解。
そして従う。
「……承知しました」
圧が消える。
空気が戻る。
兵が膝をつく。
◆
ジュリアは振り返らない。
「今日はここまでにしましょう」
「退くのですか」
セリナの問い。
「秩序を保つのも、戦いよ」
黒衣が翻る。
聖導軍が一糸乱れず撤退を始める。
その動きに迷いはない。
誰が命じたか、誰も聞かない。
だが全員が理解している。
七聖は、統一された意志で動いている。
◆
去り際。
ジュリアの視線が、砦の石壁をかすめる。
黒い痕跡。
わずかな揺らぎ。
「……記録にない」
小さな呟き。
だが追わない。
命令が優先。
◆
七聖聖導軍が霧の中に消える。
重圧が去る。
セリナは息を吐く。
膝がわずかに震えている。
だが立っている。
「……始まりね」
カイが低く言う。
「今日は様子見だ。次は違う」
バルドが拳を握る。
エリーナは空を見続けている。
セリナは王都の方向を見据える。
「ええ」
黒の魔女は退いた。
だが、それは敗北ではない。
盤は、まだ崩れていない。
そして――
見えないところで、
黒い兆しは、静かに成長していた。




