第二部 第56話 崖沿いの影、夜襲の火
夜の帷は、鉄と血の匂いさえ呑み込む。
ロスヴァル北側崖沿い。
月は雲に隠れ、風は低い。
崖下の岩棚に、影がいくつも張り付いていた。
先頭にいるのは、エリーナ。
水色の髪を束ね、浮遊リングの光を最小限まで落としている。
風の流れを読むように、瞳を細めた。
(魔力濃度、一定。結界は三層。……外周は粗い)
ロスヴァル監視砦。
王都への喉元。
城壁は高くない。だが魔導灯と結界が油断を許さない。
エリーナは、小さく息を吸う。
「……行けます」
囁きが後方へ伝わる。
崖沿いの死角。
魔力感知は上空優先。地面近くは薄い。
風が、味方を隠す。
◆
同時刻。
南門前。
バルドは、盾を地面に突き立てた。
「合図が来るまで、待て」
背後に控える百余名。
正面突破隊。
緊張が、静かに張りつめる。
「……来るぞ」
空に、小さな閃光。
エリーナの風刃が、監視灯の魔導管を断った。
一瞬の闇。
「今だ! 開けぇえええ!」
バルドが吼える。
盾が前へ出る。
重装兵が目立つように前進を開始する。
砦の上で、見張りが慌てた叫びを上げる。
「敵襲! 南門――」
その声は途中で途切れた。
崖上から奇襲をかけた機動部隊が、魔導砲と城壁を制圧したのだ。
カイは、動かない。
南門から少し離れた丘。
本隊を三隊に分け、冷静に戦場を視ている。
「第一隊、門突破後に散開。
第二隊、内部制圧。
第三隊は捕縛優先。無駄に殺すな」
冷徹ではない。
計算だ。
ロスヴァルは前哨戦。
ここで民心を失えば、王都は遠のく。
◆
砦内部。
石段を駆け上がる足音。
門を打ち付ける火花。
バルドの斧が、閂を叩き割る。
しかし、内側から押し返される。
だが、背後から流れ込む兵の圧。
門が軋む。
次の瞬間。
エリーナが詠唱を終え、上空から風圧を叩き込んだ。
空気の塊が門を押し込む。
――破砕。
木片が飛び散る。
「突入!」
◆
短い戦いだった。
守備兵は通常聖導軍。
七聖直属ではない。
動きは鈍く、連携も乱れている。
奇襲は成功した。
十数分後。
砦中央塔の上に、レグノルの旗が掲げられる。
夜風に翻る、古びた紋章。
兵の間に、静かな歓声が広がった。
南門前。
セリナは、静かに砦を見上げる。
「……終わったの?」
カイが歩み寄る。
「被害軽微。捕虜二十七。死者三。
我々は七名負傷、重傷なし」
数字は現実だ。
セリナは目を閉じ、息を吐く。
「……よくやりました」
それは兵への言葉であり、
自分への言葉でもあった。
◆
その頃。
雲海の上。
観測艦。
「ロスヴァル外縁拠点、陥落」
赤点が一つ、消える。
ノクスは、わずかに視線を傾けた。
「……想定内」
だが、演算空間の分岐線が増えている。
微細な揺らぎ。
「誤差は、累積する」
七聖は、まだ動かない。
だが、この報告は必ず誰かの机に届く。
◆
夜明け前。
ロスヴァル砦。
兵たちは静かに傷の手当てをしている。
派手な勝利ではない。
だが、確かな一勝。
バルドは、血のついた斧を水で洗った。
「……始まりだな」
エリーナが頷く。
「空域監視は私が続けます。
王都方面に動きがあれば、すぐ」
カイは地図を広げる。
「次は補給線の確保。
勢いで突っ込むな」
セリナは城壁の上に立つ。
遠くに見える王都の方向。
まだ遠い。
だが。
一歩は、踏み出した。
ファランシアの地下で、微弱な光が脈打つ。
眠る少年の夢の中で、都市が応答する。
彼は、まだ目覚めない。
だが。
ロスヴァルは落ちた。
王都は、まだ遠い。




