第30話 選択(アオト視点)
最初に変わったのは、音だった。
心臓の鼓動。
血液の流れる音。
呼吸のリズム。
それらに、もうひとつの「周期」が重なっていた。
ゆっくりと。
巨大で。
圧倒的な質量を持った――
都市の鼓動。
◆
僕は、地面に立っていた。
触れていない。
それでも、分かる。
石畳の下。
地下水の流れ。
崩れかけた梁の応力。
人々の体温。
すべてが、僕の内側に存在していた。
(……違う)
内側じゃない。
境界が、ない。
◆
「アオト」
セリナの声。
振り向く。
彼女は、いつもの場所に立っていた。
同じ顔。
同じ声。
けれど――
彼女の背後にある壁の亀裂の方が、先に認識された。
深さ、四・二センチ。
進行速度、遅延中。
崩壊確率、三%未満。
「……アオト?」
彼女の声に、遅れて反応する。
「あ……ああ」
今の一瞬。
僕は、人ではなく、構造を優先した。
◆
《深層鍵接続……待機》
義手の奥で、声が響く。
マザーブレインではない。
もっと深い。
もっと古い。
都市そのものの層。
《管理者権限……照合》
拒否はできた。
分かる。
接続を閉じることも。
境界を維持することも。
人間のままでいることも。
◆
だが――
その瞬間。
街の外縁で、
ひとつの命が、消えかけた。
老人。
心拍数、低下。
体温、下降。
水分不足。
あと二十七時間で、死亡。
それが「分かってしまった」。
◆
(……やめろ)
こんなのは、違う。
僕は、医者じゃない。
神でもない。
ただの――
◆
同時に、
地下の深層構造が警告を発する。
基盤支持率、低下。
外縁圧力、増加。
このままでは、
都市全体の崩壊確率が、臨界点を越える。
◆
《選択を提示》
声が言う。
言葉ではない。
構造として。
可能性として。
◆
受け入れれば、
都市は維持される。
すべてを守れる。
命も。
記憶も。
この場所も。
◆
拒めば、
都市は死ぬ。
人も死ぬ。
ここで終わる。
◆
どちらも、
正しい。
どちらも、
間違っている。
◆
「……アオト」
セリナが、僕の手を握った。
温かい。
不完全で。
不安定で。
人間の温度。
「あなたは、あなたでいて」
その言葉が、
僕を引き留める。
◆
だが同時に、
街が、
僕を見ていた。
目ではない。
意思でもない。
ただ、
構造として、
反応を待っていた。
観察していた。
◆
都市は、強制しない。
奪わない。
命じない。
ただ、
委ねていた。
◆
僕に。
◆
心臓が鳴る。
僕の心臓。
都市の心臓。
同じ周期。
同じリズム。
◆
(……僕は)
思い出す。
目覚めた日のこと。
冷たさ。
孤独。
何もなかった場所。
そこに、
彼女がいた。
セリナがいた。
人がいた。
◆
これは、
都市のためじゃない。
秩序のためでもない。
正しさのためでもない。
◆
僕が、
ここにいたいからだ。
◆
義手が、変形した。
光が内部構造を走る。
見たことのない回路が形成される。
鍵穴。
そして――
接続。
◆
《管理者権限……正式認証》
その瞬間。
何かが、
静かに、
失われた。
◆
ひとつの記憶。
何の記憶だったのか、
もう思い出せない。
大切だったはずなのに。
名前も、
顔も、
残っていない。
◆
代わりに、
都市が、
完全に、
そこにあった。
◆
僕は、立っている。
同じ場所に。
同じ空の下に。
◆
セリナが、僕を見ている。
「……アオト?」
僕は、答える。
少し遅れて。
「……大丈夫」
その言葉が、
本当かどうか、
自分でも分からなかった。
◆
だが、
ひとつだけ、
確かなことがあった。
◆
ファランシアは、
もう、
廃都ではない。
◆
都市は、
僕を選び、
そして、
僕もまた、
都市を選んだ。




