第31話 認証後の世界(セリナ視点)
朝の空気が、少しだけ軽かった。
ファランシアの空は相変わらず灰色で、陽は雲の向こうに薄く滲んでいる。けれど、昨日まで胸の奥を押していた圧迫感が、ほんのわずかに緩んでいた。
焚き火の煙が真っすぐ上がる。 瓦礫の隙間を抜ける風が、前よりも冷たくない。
(……生きてる)
それだけで、胸が痛むほどだった。
簡易司令所の外。 私は配給の列の前を歩き、顔を見て回る。
目が合うと、皆が少しだけ安心したように頭を下げた。 「王女様」と呼ぶ声は、以前より小さくなった気がする。 それでも、その小ささが、いまはありがたかった。
この街はまだ、壊れかけている。 でも、壊れたまま「続いて」いる。
◆
アオトは、瓦礫の上に立っていた。
地面に触れていない。 義手も、光を抑え込んだまま動かない。
視線は街の外縁――見えない檻の方向へ向いている。
隣に立った私は、息を吸ってから声をかけた。
「アオト」
彼はすぐに振り返らなかった。
一拍。 二拍。
それは、ほんの短い間だ。 けれど、心臓がきゅっと縮むには十分だった。
「……セリナ」
振り向いた彼の顔は、いつもと同じ少年の顔だった。 目の色も、声の温度も。
でも。
視線の焦点が、私ではなく、その向こうにある瓦礫の亀裂へ一瞬だけ滑った。
まるで―― 私の存在より先に、「街の異常」を確認するみたいに。
(違う。……同じなのに、違う)
「立って大丈夫?」
「うん。大丈夫」
即答……ではなかった。 言葉が出るまでの時間が、昨日よりほんの少しだけ長い。
私は笑顔を作った。 アオトを怖がりたくない。 この子を、怪物みたいに扱いたくない。
だから、自然に言う。
「今日はね、配給の段取りを変えようと思うの。外縁の見張り、交代できる?」
「……うん」
また、一拍。
彼は頷いて、言い足すように言った。
「交代時間は、二十七分ごとが最適だと思う。……疲労曲線が」
途中で言葉が止まる。
アオト自身が、自分の口から出たものに驚いたように、少しだけ眉を動かした。
「……ごめん。いま、数字が先に出た」
私は息を呑んだ。 でも、笑った。
「謝ることじゃないわ。助かる」
そう言ってから、胸の奥で小さく叫ぶ。
(お願い。戻ってきて)
戻ってきて、っていう言い方が嫌だった。 彼はここにいるのに。 私の目の前にいるのに。
それでも。
今日のアオトは、ほんの少しだけ「遠い」。
◆
バルドが瓦礫を運んでいる。 汗まみれの額で笑いながら、子どもに丸太を抱えさせようとして怒られている。
「おい、持てるって言っただろ!」 「無理に決まってるでしょ、馬鹿!」
子どもの声が弾む。 笑い声が、短くても確かにある。
カイは外周警戒の配置を変えていた。 短い指示。速い判断。 でも、ふとこちらを見る回数が増えている。
アオトの方を。
エリーナが低空を旋回し、屋根すれすれのところで合図を送ってくる。 その動きはいつも通り軽い。 けれど、翼の角度が硬い。 無意識に、外縁の「線」を避けている。
檻は完成したまま。 だけど、今朝は少しだけ――街が呼吸できている。
その中心にいるのが、アオトだ。
◆
昼。 私はアオトを呼び止めた。
「アオト」
彼は、すぐに返事をしなかった。
一拍。
そして、視線がこちらに戻る。
「……なに?」
その「なに?」が、いつもより柔らかい。 少しだけ、少年の声だ。
私はその瞬間に確信した。
(名前だ)
私が「アオト」と呼ぶとき。 彼は、街の奥から浮上してくる。
それは魔法じゃない。 信仰でもない。 ただ――呼びかけ。
私は一歩近づき、できるだけ小さな声で言った。
「無理しないで」
アオトは、困ったように笑う。 その笑い方は、確かにアオトだった。
「……うん。努力する」
同じ言葉なのに、今日は少しだけ重い。 努力しないと、戻れない場所があるみたいだった。
私は胸の奥の恐怖を、ゆっくり押し込める。
怖がるな。 疑うな。 ここで私が揺れたら、彼はもっと遠くへ行ってしまう。
私は静かに言う。
「ねえ。アオト。ひとつだけお願い」
「うん」
「もし……あなたが、あなたじゃなくなりそうになったら」
一瞬、言葉が喉に引っかかる。 それでも言い切る。
「私の声を聞いて。……戻ってきて」
彼は目を伏せた。
そして、ゆっくり頷いた。
「……わかった。セリナの声は、わかる」
その一言で、息ができた。
◆
夕方。 焚き火が灯る。 人の輪ができる。 薄いスープの匂いに、誰かの歌が重なる。
アオトは焚き火から少し離れた場所で座っていた。 地面には触れていない。 ただ、炎を見ている。
私は隣に座る。
「今日は、静かね」
「うん。……静かだ」
その声が、少しだけ寂しそうで。 私は胸が温かくなった。
寂しいと思えるなら、まだ大丈夫だ。
私は焚き火の光を見つめながら、そっと言う。
「ねえ、アオト」
「なに?」
また、彼の視線が一瞬だけ遠くへ滑る。 街の隙間、瓦礫の傾き、風の流れ――。
でも、戻ってくる。
私は、笑って言った。
「……明日もちゃんと呼ぶから」
彼は少し困ったように笑って、短く答える。
「……うん。お願いします」
その言葉が、祈りみたいに聞こえた。
空の向こうで、見えない包囲がきしむ。 鐘のような共鳴が、遠くで一度だけ鳴った気がした。
でも、今はまだ――
焚き火のそばに、少年がいる。 そして私は、その名前を知っている。
それだけで、世界はまだ折れていない。




