第四部 第195話 白の胎動
リンシアが侵食の巫女と向き合っていた頃。
テンレア中央区では、アルディアスたちの戦いが続いていた。
白い巨体は、相対する五人を前に再び右腕を持ち上げる。
それだけで、崩れかけた周辺の建物から細かな石片がぱらぱらと落ちた。
いつもなら人々が行き交っていた大通りは、すでに白い巨体との戦いによって無残な姿へ変わっている。
石畳は砕け、建物の壁面には幾筋もの亀裂が走っていた。
それでも。
白い巨体は、まだ倒れていない。
むしろ戦闘は、時間とともに激しさを増していた。
「来るぞ!」
アルディアスの切迫した声が響き渡る。
次の瞬間、白い腕がアンリエットへ向けて振り下ろされた。
「させません!」
アンリエットが手を掲げる。
幾重もの魔法陣が空中へ展開した。
透明な障壁が折り重なり、巨大な腕を受け止める。
一枚目が砕けた。
二枚目。
三枚目。
障壁を割るたびに、白い腕の速度が落ちていく。
「今です!」
アンリエットの声と同時に、アルディアスが地面を蹴った。
腰の魔道具が強く発光する。
圧縮された魔力が剣身へ流れ込み、刃を覆った。
「そこだ!」
剣が白い巨体の肘へ叩き込まれる。
轟音。
白い外殻が大きく割れた。
破片が周囲へ飛び散り、巨体の右腕が不自然な角度へ曲がる。
「通った!」
エミリオが叫ぶ。
だが、アルディアスの表情は緩まなかった。
「いや」
白い巨体の肩が動いた。
割れた肘へ向けて、肩を覆っていた白い物質が流れ始める。
粘液ではない。
外殻そのものが形を失いながら移動している。
肩の装甲が薄くなる。
その代わりに、砕けた肘へ白い層が重なっていく。
「またか」
アルディアスが舌打ちした。
再生しているわけではない。
無から失った部分を作り直しているのでもない。
残っている部分を削り。
必要な場所へ移し。
戦闘を続けられる形へ組み替えている。
ジュリアが魔道具を構えた。
細長い輪状の器具が彼女の周囲を回転する。
「右肩の密度が落ちています」
「分かってる」
「なら、次はそちらを」
「待ってください」
割って入ったのはノクスだった。
アルディアスが振り返る。
「何だ」
「同じ流れを、もう三度見ています」
ノクスの視線は白い巨体から離れない。
「腕を壊す」
「不足した外殻を別の場所から移す」
「薄くなった場所を狙う」
「そして次には、その移動が早くなる」
ジュリアが目を細めた。
「学習していると?」
「断定はしません」
ノクスは静かに答えた。
「ですが、同じ攻撃は次には通らないかもしれません」
「なら、どうする?」
アルディアスが尋ねる。
ノクスは一歩前へ出た。
「ですから、試します」
「何を?」
「同じ場所を狙わない」
ノクスの魔道具が起動する。
彼の周囲へ細い光の線がいくつも伸びた。
未来を決めるためのものではない。
起こり得る幾つもの動きを、短い範囲で拾い上げるための魔道具。
白い巨体が踏み込む。
ノクスの視界に、複数の可能性が重なった。
左腕。
踏み込み。
胸部からの白光。
身体を沈める。
後退。
それらが幾重にも重なる。
「……」
ノクスの眉が僅かに動いた。
「ノクス?」
アンリエットが呼ぶ。
返事はない。
一瞬だけ。
見えていた分岐が狭まった。
いくつもの可能性が消えたわけではない。
ただ、何かによって見える範囲そのものを押し縮められたような感覚だった。
「ノクス!」
アルディアスの声。
白い巨体の腕が迫る。
ノクスは横へ跳んだ。
直後。
地面が大きく抉れた。
「大丈夫です」
着地したノクスが答える。
「今のは何だ?」
「分かりません」
「またそれか」
「分からないものを、分かったとは言えません」
アルディアスが鼻を鳴らした。
「そこだけは昔から変わらんな」
「褒め言葉として受け取っておきます」
白い巨体が再び動く。
だが今度は、五人へ向かってこなかった。
上半身が大きく捻られる。
その視線の先。
中央区のさらに奥。
「……またか」
ジュリアが低く呟いた。
白い巨体が狙っているのは、七聖ではない。
その先にある建物。
記録院。
テンレア各地から集められた行政記録。
命令記録。
歴史資料。
そして、転生者特権法の見直しを進めるうえで必要となる記録も保管されている。
「やはり私たちより、あちらを優先していますね」
アンリエットが言った。
「気に入らんな」
アルディアスが白い巨体の前へ回り込む。
「目の前に五人もいるんだぞ」
「相手にとっては、俺たちより記録のほうが脅威なのかもしれないな」
エミリオが答えた。
「人ではなく?」
「記録は、後から確認できます」
ジュリアが静かに言う。
「誰が何を命じたのか」
「誰が何に異議を唱えたのか」
「何が失敗し、何を変えたのか」
「一度決めたことを、後から見直すための材料にもなる」
アンリエットが記録院を見る。
「白きものにとっては、残したくないものばかりですね」
「話はあとだ!」
アルディアスが叫んだ。
白い巨体の胸部が開き始める。
内部から白い光が集まった。
「エミリオ!」
「もうやってる!」
エミリオの魔道具が地面へ突き立てられる。
複数の術式が地表を走った。
白い巨体と記録院の間へ、魔力の柱が次々に立ち上がる。
直後。
白光が放たれた。
一つ目の柱が消し飛ぶ。
二つ目。
三つ目。
魔力の壁が次々に削られていく。
「アンリエット!」
「合わせます!」
さらに障壁が展開される。
白光が正面からぶつかった。
激しい衝撃。
空気そのものが震え、記録院の窓が次々に割れる。
だが、建物そのものには届かない。
「まだです!」
アンリエットの声が震える。
魔法陣の一つに亀裂が走った。
「ジュリア!」
「分かっています」
ジュリアの輪が高速回転する。
白い巨体の胸部へ、複数の魔法が異なる角度から撃ち込まれた。
右胸。
左脇。
首元。
腹部。
同じ場所は狙わない。
白い外殻が次々に弾ける。
巨体が僅かに傾いた。
胸部から放たれていた白光が逸れ、空へ抜ける。
雲の一部が白く照らされた。
「止めた!」
エミリオが叫ぶ。
「まだだ」
アルディアスはすでに走っていた。
一気に距離を詰める。
しかし。
白い巨体が動く。
壊れた腹部からではない。
背中側の外殻が前へ流れた。
アルディアスの剣が届く直前。
胸部へ厚い白い層が形成される。
「っ!」
剣が食い込む。
だが、先ほどほど深くない。
「やっぱり変えてきたか!」
アルディアスが剣を引き、そのまま後方へ跳ぶ。
白い巨体の腕が横薙ぎに振るわれた。
アルディアスが身を沈めてかわす。
その瞬間だった。
「待ってください」
ノクスが言った。
「何だ!」
「今」
白い巨体そのものは動いている。
だが、肩から胸部へ流れていた白い外殻だけが、ほんの一瞬動きを止めた。
一秒にも満たない。
戦っている者でなければ見落とすほどの小さな乱れ。
次の瞬間には、何事もなかったかのように再び流れ始めている。
「外殻が止まった?」
ジュリアが尋ねた。
「はい」
「原因は?」
「分かりません」
「またか」
アルディアスが吐き捨てる。
その時。
通信魔道具が発光した。
『聞こえますか』
遠く離れた場所から届いた声。
ミハイマールだった。
ジュリアが通信を開く。
「こちらは聞こえています」
『今の挙動、記録しました』
「何か分かった?」
『少し待ってください』
声の向こうで、複数の記録を照合している気配がする。
五人は白い巨体から距離を取り直した。
相手も、すぐには追ってこない。
再び記録院へ身体を向けようとしている。
「急いでくれ」
アルディアスが言う。
『急いでいます』
「お前の急ぐは長い」
『あなたの急ぐが短すぎるのです』
エミリオが小さく笑った。
「いつも通りだな」
『聞こえていますよ』
「わざと言った」
白い巨体が一歩進む。
再び戦闘が始まろうとした、その時だった。
ミハイマールの声色が変わる。
『……おかしい』
「何が?」
ジュリアが尋ねる。
『先ほどの外殻の乱れです』
「確認した」
『それだけではありません』
一拍。
ノクスが顔を上げる。
「どういう意味ですか」
『テンレア以外の監視記録を同時に見ています』
「どこの?」
『レグノル方面です』
アルディアスの表情が僅かに変わる。
「アオトか」
『彼自身の情報ではありません』
ミハイマールが答えた。
『こちらで拾えているのは、周辺監視塔と中継点の反応だけです』
白い巨体がまた一歩進む。
それでも五人は、通信へ意識を向け続ける。
『先ほど、レグノル方面で複数の監視記録に短い欠落が発生しています』
「欠落?」
『はい』
「何秒」
ノクスがすぐに尋ねた。
『記録ごとに僅かな差があります』
ミハイマールが答える。
『ですが、発生時刻は近い』
「この外殻の乱れと?」
ジュリアが聞いた。
短い沈黙。
『一致しています』
誰もすぐには言葉を返さなかった。
アルディアスが白い巨体を見る。
「偶然じゃないのか」
『その可能性もあります』
「なら」
『ですが』
ミハイマールが遮った。
『もう一つあります』
「何だ」
『少し前にも、この巨体の外殻移動に短い乱れがありました』
ノクスの目が細くなる。
『その直前、レグノル西方の監視反応が大きく変化しています』
「何が起きた?」
『詳しいことは分かりません』
ミハイマールの声が僅かに低くなる。
『ただ、一つの反応が急速に移動し、その後、別の地点で停止しています』
アルディアスが眉を寄せた。
「一つ?」
『はい』
「他にもあるのか」
『複数です』
ジュリアとアンリエットが顔を見合わせた。
ノクスは白い巨体ではなく、通信魔道具を見ていた。
「白きものだけを見ていては、分からないのかもしれません」
ノクスがそう口にする。
ミハイマールが短く答えた。
『私も同じことを考えています』
アルディアスが腕を組む。
「つまり、この巨体とレグノルにいる何かが、どこかでつながってるってことか」
『まだ断定はできません』
「今日はそればかりだな」
『断定できないものを断定するよりはましです』
「ノクスと同じこと言いやがる」
「正しいことです」
ノクスが即座に返した。
アルディアスが小さく舌打ちする。
白い巨体が再び動いた。
今度は右腕ではない。
腰から白い物質が流れ、脚部へ集まり始める。
薄くなっていた胸部も、そのままにはしていない。
必要な場所へ。
必要な量だけ。
絶えず自分を組み替えている。
「来ます」
アンリエットが障壁を展開した。
五人が再び散開する。
だが、今度は先ほどまでと少しだけ意識が違っていた。
目の前の巨体だけを見るのではない。
遠く離れたレグノル。
そこで起きている何か。
そして、レグノルの反応と目の前の白い巨体が、同じ何かを介してつながっている可能性。
白い巨体が踏み込む。
アルディアスが、その踏み込みを正面から受けた。
ジュリアが左へ。
エミリオが右へ。
アンリエットが後方を支える。
ノクスは少しだけ距離を置き、巨体の動きを観測する。
「次は同じ場所を狙うな!」
アルディアスが叫ぶ。
「分かっています」
ジュリアが魔道具を構えた。
「あなたが一番、同じことを繰り返していますが」
「うるさい!」
アルディアスの剣が白い巨体の脚へ叩き込まれる。
今度は壊すためではない。
体勢を崩すための一撃。
巨体の重心が僅かに傾いた。
その瞬間。
エミリオの術式が反対側の地面を隆起させる。
白い脚が持ち上がった。
「ジュリア!」
「はい」
複数の光が、薄くなった背部へ走る。
命中。
白い外殻が大きく弾けた。
巨体が前へ崩れる。
だが、完全には倒れない。
片腕を地面へ突き、身体を支えた。
「しぶといな」
アルディアスが息を吐く。
「ですが」
アンリエットが巨体を見つめる。
「先ほどより、背部の外殻が減っています」
「当たり前だろ。移してるんだからな」
「そうではありません」
アンリエットは首を振った。
「全体量です」
ジュリアも気づいた。
「減っている?」
「はい」
白い巨体は再構成を繰り返している。
壊れた部分へ、別の部分から外殻を移す。
だが、破壊されたすべてが戻っているわけではない。
飛散した白い欠片の中には、そのまま動かなくなったものもある。
「無限じゃない」
エミリオが呟いた。
アルディアスが笑う。
「それなら話は早い」
「そうでもありません」
ノクスが言った。
「何だよ」
「削り切るまで、こちらが持つかという問題があります」
アルディアスの笑みが消えた。
それは全員が分かっていた。
五人も無傷ではない。
今使っている魔道具は、これほど長時間にわたって高出力を維持することを前提としていない。
アンリエットの障壁にも負荷が蓄積している。
エミリオの術式も。
ジュリアの魔道具も。
アルディアス自身の身体も。
そして、ノクスの観測も。
このまま同じ戦いを続ければ、いずれ限界は来る。
「壊せないわけではない」
ジュリアが言った。
「ですが、このまま削り続けるには時間がかかりすぎます」
「なら、今の装備でどこまで削れるか見極める」
アルディアスが答えた。
エミリオが横目で見る。
「珍しいな」
「何がだ」
「もっと火力を上げると言うと思った」
「言ってほしいのか?」
「言ってない」
ジュリアが小さく息を吐いた。
「昔のものを持ち出すには、まだ早いです」
「分かってる」
アルディアスは白い巨体から目を離さない。
「だから今のうちに、こいつの限界を測る」
誰も、それが何を意味するのか尋ねなかった。
全員が知っている。
遠い昔。
それぞれが魔王と呼ばれた存在を討った時代に使っていた装備。
今ではほとんど使うことのない、魔道具よりも高出力の魔導武具。
力だけを求めるなら、今の魔道具を大きく上回る。
その代わり、使用者自身へ返ってくる負担も小さくはない。
アンリエットが静かに言った。
「まだ、それを使う段階かどうかは見極める必要があります」
「ああ」
アルディアスは意外にも素直に頷いた。
「だから、魔導武具はまだ出さない」
白い巨体が立ち上がる。
削られた外殻。
薄くなった肩。
欠けた背部。
それでも、その姿から戦う意思は失われていない。
いや。
意思と呼んでよいのかさえ分からない。
白い巨体は再び記録院を見る。
七聖ではない。
記録を。
残された選択の痕跡を。
アルディアスがその前へ立った。
「お前が何を消したいのかは知らん」
剣を構える。
「だが」
ジュリアが横へ並ぶ。
アンリエットが障壁を展開する。
エミリオが魔道具を地面へ向ける。
ノクスは白い巨体と、遠く離れた戦場の両方を意識する。
「こちらにも、残さなければならないものがある」
白い巨体が、再び踏み込んだ。
同じ頃。
遠く離れたレグノルでは。
六つの反応の一つが、再び僅かに位置を変え、王城跡へ接近しつつあった。




