第四部 第130話 死者の名を呼ぶ者たち
旧王城跡から王都に戻る道は、妙に長く感じられた。
瓦礫の間を抜けるだけなら、来た時と同じはずだった。
けれど、足に残る疲労の重さが違う。
地下保管区画で聞いた父の声が、まだ耳の奥に残っている。
迷ってもよい。
選びなさい。
その言葉は、私にとっての救いだった。
でも同時に、心が痛かった。
父の声が残っていたこと。
その声が白い気配に利用されかけたこと。
どちらも、胸の奥を静かに締めつけてくる。
私は歩きながら、何度も呼吸を整えた。
泣くわけにはいかない。
怒りに任せるわけにもいかない。
今は、王都に戻らなければならない。
次に何を奪われるのか。
何が標的にされるのか。
それを見落とさないために。
「セリナ」
隣を歩くアオトが、低く声をかけた。
「はい」
「無理してないか」
「しています」
思ったより素直に答えてしまった。
アオトが一瞬だけ目を丸くする。
私は少しだけ苦笑した。
「でも、倒れるほどではありません」
「それは信用していいのか」
「半分くらいなら」
「半分か」
アオトは困ったように息を吐いた。
その顔を見て、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。
カイが前方を警戒しながら言う。
「半分なら、残り半分は周りが見る」
「セリナ様が一人で背負う必要はない」
「……ありがとうございます」
ヴォルコフも後方を見ながら頷いた。
「旧王城跡はすぐに封鎖します」
「地下保管区画には、許可した者以外を入れません」
「記録の回収は慎重に行わせます」
「お願いします」
私は答えた。
「父上の声だけではありません」
「あそこには、レグノルが王国として積み重ねてきた歴史があります」
「燃え残った紙片一枚でも、誰かの生きた証かもしれません」
ヴォルコフの表情が引き締まる。
「必ず守ります」
その言葉に、私は頷いた。
中央広場へ戻ると、人々のざわめきが先ほどより大きくなっていた。
偽の掲示が剥がされ、白い鐘の影響は弱まっている。
それでも、混乱が完全に消えたわけではない。
広場の端では、兵士たちが住民に説明をしていた。
施療班が倒れた者の様子を見ている。
荷車のそばでは、泣きながら家族の名前を呼ぶ女性がいた。
子どもが、母親の服の裾を握りしめている。
怒る者もいる。
疑う者もいる。
何が起きたのか理解できず、ただ立ち尽くす者もいる。
それでいいのだと思った。
整いすぎた沈黙より、ずっといい。
白い気配に揃えられた声より、ずっと人間らしい。
エリーナが小さく呟く。
「声が戻っていますね」
「はい」
私は頷いた。
「怖がる声も、怒る声も、戻っています」
「いいことなのですか」
「たぶん」
私は広場を見つめた。
「怖いと感じることも、怒ることも、自分の心が残っている証です」
「白い気配は、それを消そうとしていました」
アオトが端末を見ながら言う。
「完全には切れてない」
「広場の反応は落ちてるけど、別の場所へ逃げてる」
「逃げている?」
カイが眉を寄せる。
「ああ」
アオトは歩みを止めた。
端末の画面に、細い白い線がいくつも表示されている。
それらは旧王城跡から中央広場へ伸びていた。
だが、その一部は途中で枝分かれし、別方向へ薄く流れている。
「旧王城跡の保管区画は中継点だった」
「そこを切ったことで、白い気配は別の経路に切り替えた」
「送信文の通り、次段階へ移行したんだと思う」
私は息を呑んだ。
「次の場所は分かりますか」
「まだはっきりしない」
アオトは端末を操作する。
「でも、方向は出てる」
「北東と南側」
「それから、外周の巡礼路に微弱反応」
「巡礼路……」
私はその言葉を繰り返した。
レグノルの城下には、古い巡礼路がある。
王家の祖廟へ向かう道。
戦死者の慰霊碑へ向かう道。
かつて、王家の祭礼や追悼の儀式に使われた道だ。
今は復興のために一部が閉鎖されている。
けれど、民の記憶から消えたわけではない。
カイが低く言う。
「王家の声の次は、弔いか」
「可能性はある」
アオトは頷いた。
「人が集まりやすい」
「感情も強い」
「信頼だけじゃなく、喪失感も使える」
エリーナの顔色が変わった。
「そんな……」
「死んだ人への想いまで使うんですか」
誰もすぐには答えなかった。
答えたくなかった。
けれど、白い気配がやるかどうかで言えば、答えは一つだった。
やる。
きっと、やる。
白い気配は、人が大切にしているものへ重なる。
休息。
施療。
信仰。
王家の名。
父の声。
ならば、弔いも利用する。
私は拳を握った。
「仮王宮へ戻りましょう」
「そこで情報を整理します」
「広場で判断するには、人が多すぎます」
カイが頷く。
「護衛を固める」
「エリーナ」
「はい」
「空から周囲を見ろ」
「ただし、一人で追うな」
「分かっています」
エリーナは頷いた。
それでも、表情には不安が残っている。
私はその不安が見えてしまった。
「エリーナ」
「はい、セリナ様」
「怖いですか」
エリーナは一瞬だけ言葉に詰まった。
それから、小さく頷いた。
「怖いです」
「白い気配は、何をしてくるか分からないので」
「それでいいです」
私は言った。
「怖いと感じてください」
「怖いまま、周りを見てください」
「怖くないふりをすると、見落とします」
エリーナは目を瞬かせた。
それから、少しだけ表情を緩めた。
「はい」
「怖いまま、見ます」
「お願いします」
エリーナは風をまとい、広場の上へ上がっていった。
仮王宮へ向かう道の途中、住民たちの視線がこちらへ向いた。
以前なら、私はその視線に応えようとした。
王女として。
不安を消すために。
希望を示すために。
でも、今は違う。
私は全員の不安を消すことはできない。
できると言ってはいけない。
だから、安心させるためだけに笑顔を振りまくことはしなかった。
立ち止まりすぎずに歩いた。
ただ、目が合った者には小さく頷いた。
助けを求める声があれば、護衛に繋いだ。
倒れている者がいれば、施療班を呼ぶように指示した。
それだけでも、進みは遅くなる。
けれど、必要な遅さだった。
白い気配は、人を早く一つにまとめようとする。
なら、私たちは急ぎながらも、一人ずつを見落としてはいけない。
仮王宮に入ると、空気が一変した。
外のざわめきが壁に遮られ、代わりに伝令の声と紙の擦れる音が響いている。
臨時の指揮室には、地図が広げられていた。
レグノル城下。
外周地区。
施療所。
休息所。
巡礼路。
戦死者の慰霊碑。
旧王城跡。
それらに赤と青の印が打たれている。
リム=サクラが仮王宮の一室ですでに待っていた。
淡いピンク色の髪を揺らしながら、彼女は端末の前で顔を上げる。
「戻ったのね」
「ええ」
私は頷いた。
「旧王城跡地下保管区画の干渉は切りました」
「でも、本体ではありませんでした」
「でしょうね」
リムは淡々と言った。
その声に驚きはない。
だからこそ、少しだけ怖くなる。
「予想していたのですか」
「可能性としては」
リムは画面を示した。
「白い気配は、単一の核だけで動いていない」
「複数の媒介を使って、感情と記憶を束ねている」
「地下保管区画は、その一つ」
アオトが隣に立つ。
「送信文はこれだ」
端末に復元された文字が映し出される。
『王家の声、抵抗を確認』
『次段階へ移行』
リムはその文をじっと見た。
表情はあまり変わらない。
けれど、目だけが少し細くなる。
「観測されているわね」
「やっぱりそうか」
アオトが言う。
「俺たちが解除したことも、セリナが抵抗したことも、向こうに伝わった」
「ええ」
リムは頷いた。
「つまり、白い気配は反応を見ている」
「ただ広げているだけではない」
「抵抗の仕方を学習している」
仮王宮内の空気が重くなった。
カイが腕を組む。
「では、次はより厄介になる」
「そう考えるべきね」
リムは地図に視線を落とした。
「次に狙われやすいのは、信頼の源泉か、喪失の集積点」
「王家の声で揺さぶれなかったなら、民自身の記憶を使う可能性が高い」
「民自身の記憶……」
私は呟いた。
「弔いの場、ですか」
リムは無言で地図の北東を指した。
そこには、戦死者慰霊碑と書かれていた。
レグノル奪還戦。
七聖との戦い。
黒魔王の災厄。
それ以前の戦争。
多くの名前が、そこに刻まれている。
まだ刻まれていない名前もある。
遺体が見つからない者。
家族が確認できない者。
戦いの混乱で記録が失われた者。
その全てが、未整理のまま机の上に積み重なっていた。
ヴォルコフが低く呻く。
「慰霊碑には、今も人が集まります」
「家族を亡くした者が、朝夕に祈りを捧げている」
「そこを狙われたら、混乱では済まない」
「施療所にも反応があります」
別の文官が言った。
「南側の臨時施療所で、患者の一部が同じ夢を見たと報告しています」
「同じ夢?」
アオトが聞き返す。
文官は手元の記録を読む。
「白い部屋」
「声のない家族」
「痛みのない眠り」
「もう苦しまなくていい、という言葉」
指揮室に沈黙が落ちた。
私は一瞬、地下で聞いた父の声を思い出した。
もう休んでいい。
あの言葉と似ている。
似すぎている。
エリーナが巡回任務から戻り、仮王宮に戻ってきた。
少し息が上がっている。
「北東の巡礼路に、人が増えています」
「広場から流れた人たちの一部が、慰霊碑の方へ向かっています」
カイが地図を見た。
「誰かが誘導しているのか」
「分かりません」
エリーナは首を振る。
「でも、皆さん、自分で向かっているように見えます」
「泣いている人が多いです」
「白い光は見えませんでした」
アオトが歯を噛む。
「見えない形に変えたか」
リムが言う。
「あるいは、最初から光ではない」
「記憶と夢と祈りを使っている」
私は地図を見つめた。
慰霊碑。
施療所。
巡礼路。
どれも、人の弱さが集まる場所だ。
弱さと言っても、悪い意味ではない。
誰かを失った痛み。
苦しみから逃れたい願い。
もう一度会いたいという祈り。
人として当然の感情だ。
白い気配は、そこへ重なる。
「すぐに止めなければ」
私は言った。
ヴォルコフが、私を一瞥する。
「セリナ様、現場に向かわれるのか?」
「はい」
「まだ休んでいない」
カイが短く言葉を告げる。
「分かっています」
「分かっているなら」
「でも、ここで行かなければ、もっと多くの人が巻き込まれます」
カイの表情が険しくなる。
「それは分かっている」
「だが、セリナ様が倒れたら、それも白い気配に使われる」
言葉が胸に刺さった。
それは正しい。
私が倒れれば、王女が倒れたという事実そのものが民を揺らす。
白い気配は、きっとそれも利用する。
アオトが静かに言った。
「今回は、全部セリナが前に出る必要はない」
私はアオトを見る。
「どういう意味ですか」
「旧王城跡では、セリナの記憶が鍵だった」
「でも、慰霊碑は違う」
「民自身の記憶が対象なら、セリナ一人で受け止めると危ない」
リムが頷く。
「同意」
「今回は分散対応がいい」
「セリナは慰霊碑に向かう」
「アオトは解析と切断支援」
「カイとヴォルコフは王都の人の流れの監視と対応」
「エリーナは上空監視」
「私は施療所側を見る」
「リムさんが施療所へ?」
エリーナが聞く。
「ええ」
リムは端末を閉じた。
「夢と眠りに関係するなら、私の方が向いている」
「それに、患者がいる場所で強制的な干渉を切ると、身体に負担が出る」
「医療側の判断が必要」
私は頷いた。
「お願いします」
リムは私を見た。
「セリナ」
「はい」
「慰霊碑では、聞きすぎないで」
「聞きすぎない?」
「死者の声に似たものが出ても、全部受け取ろうとしないで」
リムの声は淡々としていた。
でも、その奥に少しだけ硬さがある。
「あなたは優しいから、全部の悲しみに応えようとする」
「でも、それをやると白い気配に捕まる」
私はすぐには答えられなかった。
図星だった。
慰霊碑へ行けば、きっと多くの声がある。
泣いている人。
怒っている人。
名前を呼ぶ人。
戻ってきてほしいと願う人。
私は、それを聞かずにいられるだろうか。
「……努力します」
「努力では弱い」
リムが言った。
「約束して」
「全部は背負わないと」
私は唇を結んだ。
アオトが隣でこちらを見ている。
カイも。
エリーナも。
ヴォルコフも。
皆が待っていた。
私が、自分で線を引くのを。
「分かりました」
私はゆっくりと言った。
「約束します」
「全部は背負いません」
「背負うべきものと、共に持つべきものを分けます」
リムは小さく頷いた。
「それでいい」
アオトが端末を掲げる。
「マザーブレイン、慰霊碑と施療所の反応を分けて追跡」
『了解』
『北東巡礼路、戦死者慰霊碑周辺に低濃度白色干渉』
『南側臨時施療所に夢幻型干渉の可能性』
『同時進行を推奨』
「やっぱり二方向か」
アオトが言った。
「俺はセリナと慰霊碑へ行く」
リムが短く言う。
「施療所は私が行く」
「エリーナ、途中まで上空から両方を見る」
「はい」
カイが地図に手を置く。
「俺は慰霊碑側の人の流れをできるだけ止める」
「ヴォルコフ殿、兵を出せるか」
「すぐに」
ヴォルコフが頷く。
「ただし、強制排除は避けます」
「祈りに来た民を兵で追い払えば、逆に不満が爆発する」
「その通りです」
私は言った。
「止めるのではなく、守ってください」
「近づけないためではなく、呑まれないために」
「承知しました」
仮王宮の関係者たちが動き出す。
伝令が走る。
地図に新たな印が打たれる。
兵の配置が決まっていく。
その動きの中で、私は一度だけ目を閉じた。
父の声を思い出す。
迷ってもよい。
選びなさい。
迷っている。
今も。
何を優先すべきか。
誰を救えるのか。
自分がどこまで前に出るべきか。
分からないことばかりだ。
でも、選ぶ。
迷ったまま、選ぶ。
それが、父の声が残してくれたものだから。
外へ出ると、空は少し曇っていた。
夕方にはまだ早い。
けれど、陽の色が鈍い。
北東へ向かう巡礼路には、すでに人の流れができていた。
手を合わせる老人。
花を抱えた少女。
包帯を巻いた兵士。
誰かの遺品らしき布を握りしめる女性。
皆、何かに引かれるように歩いている。
白い光は見えない。
鐘の音もない。
それでも、空気が少しだけ薄い。
呼吸をすると、胸の奥に冷たいものが触れる。
アオトが端末を見る。
「反応は弱い」
「でも、広がり方が嫌な感じだ」
「どう嫌なのですか」
「一人を強く操るんじゃなくて、全体に少しずつ傾けてる」
「自分の意志で慰霊碑へ行きたいと思わせてる感じだ」
私は人々の背中を見た。
たしかに、強制されているようには見えない。
だからこそ厄介だった。
祈りたい。
会いたい。
許されたい。
忘れたくない。
その気持ちは本物だ。
本物だから、白い気配に利用される。
巡礼路の入口で、カイとヴォルコフの兵が人の流れを整えていた。
止めるのではなく、人と人の間隔を空ける。
具合の悪い者を横へ誘導する。
それだけでも、混乱はかなり抑えられていた。
カイが私たちに気づく。
「今のところ暴動はない」
「ただ、皆の様子がおかしい」
「泣きながら笑っている者がいる」
「亡くした者に会えると口にする者もいる」
私の胸が冷えた。
「会える……」
「そう言っているのですか」
「ああ」
カイは唇を歪めた。
「白い気配が見せているのかもしれん」
アオトが端末を操作する。
「幻覚か、夢の残響か」
「あるいは、慰霊碑に刻まれた名前を媒介にしている」
「名前を?」
「名前は強い」
アオトは短く言った。
「人を識別する記号で、記憶の入口だ」
「王印や声と同じで、信じるための手がかりになる」
私は慰霊碑の方を見た。
石の階段の上。
黒灰色の碑が、遠くに見える。
そこには、レグノルのために命を落とした者たちの名が刻まれている。
すべてではない。
まだ刻まれていない名も多い。
でも、民にとっては大切な場所だった。
白い霧が、碑の足元に薄く漂っている。
本当に薄い。
見間違いだと言われれば、そうかもしれないほどの白。
けれど、私は分かった。
あれは、白い気配だ。
「行きます」
私は言った。
アオトが隣に並ぶ。
「ゆっくりな」
「はい」
階段を上る。
一段ごとに、人の声が増えていく。
すすり泣き。
祈り。
名前を呼ぶ声。
謝る声。
帰ってきて、と呟く声。
そのどれもが、本物だった。
私は約束を思い出した。
全部は背負わない。
全部は聞かない。
でも、無視もしない。
難しい。
あまりにも難しい。
慰霊碑の前に、一人の少年が立っていた。
年は十歳ほどだろうか。
手には古びた木の札を握っている。
その札には、誰かの名前が書かれていた。
少年は碑を見上げながら、ぽつりと言った。
「父さんが、呼んでる」
母親らしき女性が、震える声で言う。
「やめなさい」
「お父さんはもう」
「でも、聞こえるんだ」
少年は笑った。
泣きながら、笑った。
「もう寂しくないって」
「こっちに来れば、また一緒にいられるって」
私の足が止まった。
白い気配が、碑の文字の間を這うように流れている。
アオトが端末を構えた。
『慰霊碑表層に干渉反応』
『刻印名簿を媒介化』
『周辺対象の喪失感に接続』
「やっぱり名前か」
アオトが低く言う。
「切れる?」
「切るだけなら」
「でも、碑を傷つける」
私は碑を見た。
ここに刻まれた名前は、ただの文字ではない。
誰かが生きた証だ。
誰かがその存在を思い出す場所だ。
白い気配の影響を壊して止めるのは簡単かもしれない。
でも、それでは白い気配と同じになる。
大切なものを、機能として扱ってしまう。
「壊さずに止めます」
私は言った。
「できるのか」
アオトが問う。
「分かりません」
「でも、選びます」
その時、慰霊碑の奥から声がした。
一人の声ではない。
いくつもの声が重なっていた。
『こちらへ』
『痛みは終わる』
『悲しみも終わる』
『名を呼べば、戻れる』
人々がざわめく。
何人かが階段を上ろうとする。
カイがすぐに動いた。
「押すな!」
「下がれとは言わん!」
「だが、急ぐな!」
ヴォルコフの兵たちが人波を支える。
エリーナが上空から風を流し、白い霧を散らそうとする。
けれど、霧は完全には消えない。
碑の文字の奥から滲み出てくる。
私は一歩前に出た。
「レグノルの民よ」
声を上げる。
人々の視線がこちらへ向く。
怖い。
この視線は重い。
悲しみを抱えた人の視線は、期待よりもずっと重い。
それでも、私は逃げなかった。
「亡き者を想う心は、奪われるものではありません」
「悲しみも、祈りも、誰かに差し出すものではありません」
白い声が重なる。
『王女よ』
『お前も会いたいだろう』
胸の奥が揺れた。
父の声ではない。
母の声でもない。
けれど、私の奥にある弱さを撫でてくる。
会いたい。
それは嘘ではない。
父に会いたい。
母に会いたい。
失った人たちに、もう一度だけ会いたい。
でも。
「会いたいです」
私は言った。
アオトが息を呑む気配がした。
民も静まり返る。
白い霧が、嬉しそうに揺れた気がした。
私は続けた。
「会いたいに決まっています」
「声を聞きたい」
「手を取りたい」
「もう一度、叱ってほしい」
「もう一度、笑ってほしい」
言葉にすると、喉が痛んだ。
けれど、止めなかった。
「でも、それは誰かに操られる理由にはなりません」
「死者の名を使って、生きている者を縛ることは許しません」
白い霧が強くなる。
慰霊碑の文字が淡く光る。
『悲しめ』
『求めよ』
『戻れ』
アオトが叫ぶ。
「セリナ、碑の反応が上がってる!」
「分かっています」
私は慰霊碑に向き直った。
刻まれた名前が滲んで見える。
その向こうに、いくつもの声がある。
本物かもしれない。
偽物かもしれない。
白い気配が作った影かもしれない。
けれど、今は一つだけ分かる。
これは、死者のための声ではない。
生きている者を引きずるための声だ。
「アオト」
「白い筋を浮かせられますか」
「やる」
アオトの端末から青白い光が伸びる。
碑の表面に絡みついた白い筋が、細く浮かび上がった。
まるで、名前の間に入り込んだ糸のようだった。
「名前は傷つけるなよ」
カイが言う。
「分かってる!」
アオトが歯を食いしばる。
「でも、細かい」
「旧王城跡の記録媒体よりずっと広い」
リムの声が通信で入った。
『施療所側でも夢幻干渉を確認』
『こちらは眠っている患者に接続している』
『慰霊碑側と同期している可能性あり』
「同時か」
アオトが言う。
『慰霊碑で喪失感を増幅し、施療所で休息願望に接続している』
『生者を眠りへ誘導する構造かもしれない』
私は背筋が冷たくなった。
死者に会いたい者。
苦痛から逃れたい者。
その二つを結びつける。
白い気配が与えるのは、救いの形をした誘導だ。
「止めます」
私は言った。
「ここで」
アオトが頷く。
「じゃあ、セリナは民衆に呼びかけてくれ」
「俺は碑の干渉を切る」
「リムが施療所側を止める」
「タイミングを合わせる」
通信の向こうでリムが答える。
『三十秒後に切断を開始』
『ただし、患者への反動を抑えるため出力は低め』
「了解」
アオトが端末を握り直す。
私は民の方を向いた。
「皆さん」
声が震えかけた。
でも、立て直す。
「名を呼んでください」
カイがこちらを見る。
「セリナ様?」
「白い声ではなく、あなた自身の声で」
私は続けた。
「会いたい人の名を、奪われるためではなく、覚えているために呼んでください」
「戻ってこいではなく」
「忘れないと」
「共に生きると」
人々は戸惑っていた。
当然だ。
こんなことを急に言われても、すぐには分からない。
でも、少年が最初に口を開いた。
「父さん」
その声は小さかった。
震えていた。
「忘れない」
母親が少年の肩を抱いた。
涙を流しながら言う。
「あなたを、忘れません」
別の老人が、碑の前で膝をついた。
「ミラ」
「わしは、まだ生きる」
兵士が、拳を胸に当てた。
「隊長」
「俺たちは、まだ行きます」
一つ。
また一つ。
声が増えていく。
泣き声のまま。
震えたまま。
怒りを含んだまま。
それでも、白い声とは違う。
誰かに揃えられた声ではない。
ばらばらで、不格好で、人間の声だ。
アオトが叫ぶ。
「今だ、マザーブレイン!」
『白色干渉糸を分離』
『碑面刻印保護』
『切断開始』
リムの声も重なる。
『施療所側、夢幻干渉を遮断』
『患者反応、許容範囲』
『続行』
慰霊碑が震えた。
白い霧が膨らむ。
声が一斉に歪む。
『戻れ』
『眠れ』
『一つに』
私は一歩も下がらなかった。
「戻りません」
「眠りません」
「一つにもなりません」
私は碑に向かって言った。
「私たちは、別々の悲しみを持ったまま生きます」
「同じにされなくても、共に立てます」
青白い光が白い糸を断ち切る。
碑に刻まれた名前が、一瞬だけ淡く輝いた。
それは白ではなかった。
冷たい光でもなかった。
ただ、夕方前の弱い陽を受けた石の反射だった。
それだけの光だった。
けれど、私はそれで十分だと思った。
白い霧が裂ける。
巡礼路に漂っていた冷たさが薄れていく。
人々が次々と息を吐いた。
その場に座り込む者もいた。
泣き崩れる者もいた。
でも、階段を上ろうとしていた足は止まっている。
少年が母親の腕の中で泣いていた。
「父さん、いない」
「うん」
母親が泣きながら頷く。
「いないね」
「でも、覚えてる」
「うん」
「覚えてるよ」
その声を聞いて、私は胸の奥が痛くなった。
でも、それは白い気配に撫でられる痛みではなかった。
生きている痛みだった。
アオトが端末を下ろす。
「慰霊碑側、主要反応低下」
通信越しにリムが続ける。
『施療所側も沈静化』
『眠っていた患者の一部が覚醒』
『強い混乱はなし』
エリーナが空から降りてくる。
「巡礼路の白い霧、かなり薄くなりました」
「でも、完全には消えていません」
アオトは端末の画面を見たまま、表情を険しくした。
「ああ」
「また送信が走った」
私は振り向いた。
「送信?」
『微弱信号を検出』
マザーブレインの声が響く。
『慰霊碑および施療所から、同一宛先への短距離中継信号』
『文面の一部を復元』
端末に文字が浮かぶ。
私はそれを見た。
『喪失接続、抵抗を確認』
『個別感情、分離傾向強』
『次段階、共同体単位へ移行』
誰もすぐには話さなかった。
個別感情。
共同体単位。
その言葉の意味を考えるだけで、嫌な予感がした。
アオトが低く言う。
「次は個人じゃない」
「街そのものか」
カイが歯を噛む。
「どこを狙う」
リムの声が通信で返ってくる。
『候補は三つ』
『配給所』
『避難民名簿管理所』
『臨時評議場』
ヴォルコフが顔を上げる。
「臨時評議場……」
「今夜、各区代表を集める予定があります」
「復興配分と避難民の移動について話し合う場です」
私は息を呑んだ。
共同体単位。
それは、個人の悲しみではない。
街がどう生きるか。
誰を優先するか。
何を分け合うか。
その選択そのものを、白い気配が狙っている。
「戻りましょう」
私は言った。
今度の声は、迷っていた。
それでも、逃げる声ではなかった。
「次は、街の選択が狙われます」
アオトが頷く。
「ああ」
「今夜が山だ」
慰霊碑の前では、人々がまだ泣いている。
でも、その声は白く揃っていない。
ばらばらのまま、そこにある。
私はその声を背に受けながら、階段を下りた。
父の声。
民の声。
死者の名。
生きている者の痛み。
白い気配は、それを一つに均そうとしている。
なら、私は守らなければならない。
ばらばらであることを。
迷うことを。
選ぶことを。
そして、選び直すことを。
旧王城跡の風よりも冷たいものが、街の奥から流れてきた。
次の段階は、もう始まっている。




