ナイフを拾った夜
ミハルが怯えた。
それだけで、十分だったらしい。
二人を襲ったゴブリンたちは、
光の刃によって惨殺された。
氷色に輝く刃は、
なおも躯を責め立てる。
切り刻まれた体は、もはや原型をとどめていない。
真冬の雪原は、濁った赤の海へと変わり、
辺りには、異様な臭気が立ち込めていた。
「楽しいね? お姉ちゃん」
ククルは、笑った。
粘つく返り血を気にも留めずに、
枯れたもみの木の下で。
それが彼の初めての言葉だった。
「……もう、止めてあげよう?」
ミハルは屈んで、そっとククルの頬を撫でた。
碧い瞳は怪訝そうに、瞼を瞬かせる。
「その魔導、人に使ったらダメよ?」
ククルが何かを言いかけた、その瞬間。
彼女は忌み子を、強く抱きしめた。
空高く、陽射しは降り続ける。
頭上で、一羽のフクロウが舞っていた。
その夜のことだ。
ミハルは学院長に、呼び出しを受けた。
最上階に、ただ一つある部屋だ。
恐る恐る、彼女はノックする。
すると、扉は独りでに開いた。
薄暗い部屋の奥から、くぐもった声が聞こえる。
「懐いているようじゃないか、ククルは?」
白髪交じりの院長が、安楽椅子にもたれかかっていた。
煙管をぷかぷかと吹かせながら、
しきりに片眼鏡の位置を直している。
「……そう見えますか? 院長先生」
ミハルは目を伏せたまま、静かに声を落とす。
暖炉の炎が、一瞬大きく燃えがった。
「見えるとも。あの人形が、人助けとはね」
院長は煙管を灰皿に置くと、
ミハルを指さして冷笑した。
「――あの子は、ゴブリンたちから
私を助けてくれた。何が可笑しいんですか!」
震えながらも、彼女は院長に低く言い返した。
彼は、気怠そうに欠伸をする。
「結界でね? やっとだよ。
実際にご披露してくれたのはね……」
ミハルは、言葉を継げなかった。
胸の奥で、何かが引っかかる。
――結界?
ミハルの喉が、ひくりと鳴った。
白い残影。
視界を埋め尽くした、光の刃。
――そして、
何も言わずに前に出た、小さな背中。
「ご披露? そのお言葉は分かりかねます!」
視線を据えたミハルに、
院長の口元が、わずかに歪む。
「監視役には、お前が適任だ。ミハル!
簡単な記録で構わん」
彼女は、目の前の男が
何を言っているのか、分からなかった。
ばちばちと、暖炉の爆ぜる音がする。
「嫌です!
そんな物を、一体何に使うつもりですか!」
院長は、不思議そうに眼をパチクリさせた。
そっと、煙管の火を消す。
「それを考えるのは、お前の仕事じゃない」
彼の青白い顔が、近づいた。
唇は歪み、眼は笑っていなかった。
「……断れば、どうするおつもりですか?」
院長は片眼鏡を外し、
革張りの眼鏡筒に収めた。
「卵を産まない雌鶏は、
〆るだけだなぁ? ミハル」
スッと取り出されたナイフが、
暖炉の火を映し込む。
それだけで、言葉はもう要らなかった。
「……私だけじゃないんだ。
ククルもですね!」
「暴れられたら敵わん。
不要となったら、お前が寝首をかくんだ」
硬質な音を立てて、
一本のナイフが床を転がった。
柄に、黒い文字で呪いが彫り込まれている。
院長は、人差し指で虚空をなぞる。
ミハルは、床に落ちたナイフを拾い上げた。
指先が、ひどく冷たかった。
「吉報を待つ。
まぁ、嘘はつかないでくれよ? ミハル」
ミハルは、くるりと背を向ける。
重い樫の扉が、
鉄の蝶番を鳴らして閉じた。




