38話「ミドガルズオルムとの対峙。その存在は醜くも哀れで……」
リスベルンの王太子一行と別れた私達は、ミドガルズオルムの住処を目指してなおも北上を続けている。
北上すればするほど次第に霧が濃くなっていく。
こんな濃い霧の中でもクヴェルたんは迷わずに飛べるようだ。
私の周りの空気を、ネックレスとブレスレットに付いた魔石が浄化してくれているのが分かる。
だから毒の霧が濃い地帯でも普通に息が吸える。
出立前にクヴェルたんからお守りをもらっておいてよかった。でなければ足手まといになるところだった。
◇◇◇◇◇
出立してから四時間後。
「見えたよ。
あれがミドガルズオルムだ」
クヴェルたんが竜の爪でミドガルズオルムがいる方向を教えてくれた。
私は彼の示した方向に目を凝らす。
濃い霧の向こうに巨大な黒い塊が見えた。中心に小さな光が二つあった。
あの塊がミドガルズオルムで、中心に見える二つの光はミドガルズオルムの目かしら?
「ミドガルズオルムは巨大な漆黒の蛇だ。
今は湿原の中心でとぐろを巻いている」
魔物の姿を想像しただけで、背筋がゾクゾクしてきたわ。
そんな恐ろしい魔物がすぐ近くにいるのね。
ミドガルズオルムの瞳が光っているということは、奴は私達の存在に気づいているってことよね?
ミドガルズオルムにいきなり攻撃されたらどうしよう!?
腕がぷるぷると震えているのが、クヴェルたんに伝わったらしい。
「大丈夫。
彼から敵意は感じないよ」
クヴェルたんの声は落ち着いていた。
「そもそも彼がこの国に本気で害をなすつもりなら、湿原に居を構え、とぐろを巻いて、じっとしてるはずがないんだ」
そう言われてみればそうね。
「ミドガルズオルムが国を滅ぼす気なら大陸中を横断し、大陸中に毒を撒き散らしているはずだ。
彼にはそれだけの体力と能力がある」
ミドガルズオルムがこの大陸に上陸したのが約二週間前。それから彼はずっと湿原に待機していて、目立った行動をしていない。
彼には、何か湿原にいなくてはいけない理由があるのかしら?
「怪我をしてるみたいだし、彼はここから動けないのかもね」
「怪我?」
クヴェルたんはそんなことまでわかるの?
「僕の推測だけど、ミドガルズオルムはどこか別の大陸にいたんじゃないかな?
その大陸にいた何者かに攻撃され、住処を追われ、この大陸に逃げてきたんじゃないかな?
彼を追い出したのが人間なのか、魔物なのか、それともそれ以外の上位の生命体なのかはわからないけどね」
「そんな……。
それじゃあ、ミドガルズオルムは……」
「彼が湿原から動かないのは、その時に負った傷を癒やしてるからだろうね」
元々住んでいた大陸を追われて、この大陸に逃げてきて、湿原で傷を癒やしていただけなのね。
でも、ミドガルズオルムの傷が癒えるまで休まれたらこの大陸はどうなってしまうの?
彼が約二週間湿原に滞在しただけで、遠く離れた王都の水や空気まで汚染されてるわ。
それに、このままミドガルズオルムの傷が癒えずに亡くなったら……大陸中が彼の毒に犯され、草木一本生えない死の大地と化してしまう。
「なんにしてもまずは彼に事情を聞いてみよう。
話せばわかる奴かもしれない」
「クヴェルたん、ミドガルズオルムと話せるの!?」
「多分、古代の竜語が通じると思う。
会話が通じるようなら、浄化に応じてくれるかもしれない」
いきなり魔石を投下して周囲に結界を張って、ミドガルズオルムに水を刻んだ魔石を食べさせて、力尽くで浄化するより、話し合いから入った方が平和的よね。
話が通じる人……蛇? 魔物だといいんだけど。
クヴェルはゆっくりと降下すると、ミドガルズオルムの顔と思われる場所の前で止まった。
クヴェルは古代竜語と思われる人間の私には聞き取れない言葉で、ミドガルズオルムと会話を始めた。
古代竜語がわからない私は黙って状況を見守ることしかできない。
「なるほど、そういうことだったのか」
「クヴェルたん、何かわかったの?」
数十分後、クヴェルたんはミドガルズオルムとの会話を終え、顔を上げた。
「僕の推測通り、ミドガルズオルムは他所の大陸に住んでいたようだ。
湿原でのどかに暮らしていたところを、
別の種族に攻撃され、
大陸から追い出されたみたいだね」
「そうだったのね」
ミドガルズオルムは住処を追われたのね。気の毒だわ。私も祖国を追われた身なので、彼の気持ちがよくわかる。
でも、別の大陸の人にとってはミドガルズオルムは大地や水を汚染する悪い魔物だったのよね。
存在するだけで、周りに被害を出してしまうなんて不憫な体質だわ。
「それで『君の体を浄化していいか』尋ねたら、『いいよ』って言ってくれたんだ」
「話し合いが上手くいったのね!
あ……でも、浄化に成功したらミドガルズオルムは……」
消えてしまうのかしら……?
会ったばかりの魔物なのにそれは不憫に感じる。
私がミドガルズオルムと同じように国を追われた身だからかしら?
「アデリナ、心配しなくても大丈夫だよ。
ミドガルズオルムは消えてなくなったりしないから」
クヴェルたんには私の考えていることが筒抜けのようね。
「それじゃあ、さっそく作業に取りかかろう。
まずはミドガルズオルムを囲むように水と魔除けを刻んだ魔石を配置しよう。
アデリナも手伝って」
「うん」
クヴェルたんがアイテムボックスから取り出した魔石を受け取った。
彼はミドガルズオルムの周りをゆっくりと飛ぶ。私は上空から魔石を一定の間隔で落としていく。
クヴェルがミドガルズオルムの周りを一周したとき、私はほぼ魔石の配置を終えていた。
クヴェルが呪文を唱えると、ミドガルズオルムを覆うように光の幕ができた。
「これで結界は張り終わった。
次はミドガルズオルムの浄化だ」
クヴェルたんがアイテムボックスから水のルーンを刻んだ魔石を取り出す。
「ミドガルズオルムは口を大きく開けて。
アデリナは彼の口に魔石を放り込んで」
「わかったわ」
ミドガルズオルムは唸り声を上げ、口を大きく開けた。
彼が口を開けると、二本の鋭い牙が見え、黒い息が漏れてきて、背すじがブルリとした。
本当に話し合いが通じる相手で良かったわ。こんなのと戦うなんてごめんだもの。
「ミドガルズオルムは口を上に向けて」
クヴェルの言葉に従い、ミドガルズオルムが口を開けたまま上に向けた。
横向きより、上向きの方が、魔石を入れやすいわ。
「いっくよーー!」
私はミドガルズオルムに合図をし、二本の牙に当てないように注意しながら、彼の口めがけて魔石を放り込んだ。
放り込むというよりも、彼の口をめがけて魔石を流し込んだと言った方が正しい。
ジャラジャラと音を立て、魔石がミドガルズオルムの口に吸い込まれるように落ちていく。
最後の魔石をミドガルズオルムの口に放り込んだとき、クヴェルたんが呪文を唱えた。
ミドガルズオルムの体が光に包まれていく。彼の口や目から光線のように光が溢れる。
あまりの眩しさに私は、瞳を閉じた。
周囲にミドガルズオルムのうめき声が響く。
クヴェルたんは心配ないと言っていたけど、ミドガルズオルムは苦しそうだ。だけど今はクヴェルたんを信じるしかない!
ごおおおぉぉぉ…………という、うめき声とも風の音とも取れる轟音が響き、恐る恐る目を開けると、ミドガルズオルムの姿が消えていた。
湿地にとぐろを巻いていたミドガルズオルムの巨体はどこにもない。
「クヴェルたん……ミドガルズオルムは消滅……しちゃったの……?」
国や自然への影響を考えれば、ミドガルズオルムの消滅は仕方のないことだったのかもしれない。
クヴェルが凄い力を持っていたとしても、できることには限りがある。
仕方ないと自分に言い聞かせる。……心の中にもやもやとした感情が残る。
「心配ないよ。
下を見て」
クヴェルに言われて湿原に目を向ける。目を凝らすが何も見えない。
「この高度からじゃ人間の目には見えないかな」
クヴェルたんがゆっくりと高度を下げていく。
彼は湿原すれすれのところで止まった。
「あそこを見て」
クヴェルたんが爪で指し示した方向に目を向ける。
「あっ、あれって……!」
湿原の植物の上に小さな白い生き物の姿が見えた。
ワインボトルの半分ほどの大きさの白蛇が、つぶらな瞳でこちらを見つめている。
「もしかしてあの白蛇がミドガルズオルムなの?」
この土地は先ほどまでミドガルズオルムの汚染が一番強かった場所。普通の蛇が生き残っているとは思えない。だけど念の為に聞いてみた。
「そうだよ。
どうやら浄化が上手く行ったらしい。
これからは普通の蛇として生きて行けるんじゃないかな」
「そっか、良かった」
ミドガルズオルムは特に悪さをしていたわけではない。ただ存在しているだけで周囲を汚染してしまう悲しい体質の生き物だったのだ。
ミドガルズオルムはペコリと頭を下げると、川に入り泳いでどこかに行ってしまった。
「クヴェルたん、白蛇になったミドガルズオルムはちゃんと生きていけるかな?」
珍しい蛇だと人間に目をつけられ、狩られたらかわいそうだ。
「さっき張った結界の構造をちょっといじって、人間が立ち入り出来ないようにしようか?
そうすれば、彼の生活が脅かされる心配はない」
「うん、そうしよう」
浄化される前のミドガルズオルムの体は巨大だった。だから彼の体を覆うように張った結界も大きい。
ワインボトルの半分ほどの白蛇が暮らすには十分な広さだと思う。
やっと安住の地を手に入れたのだ。彼には穏やかに暮らしてほしい。
リスベルンの国王に何か聞かれたら、「あの地域はミドガルズオルムの汚染が酷くて立ち入り禁止にしました」とか、適当に言っておこう。
クヴェルが結界を張り直し、結界の中に人間が立ち入り出来なくなったのを確認し、私達は帰路についた。