57両目
碧が生まれて、風、薫る。
時の刻みが止められた場景の“記憶”は歩く度に消えていく。
弄くられた“時間”を本来の“刻み”に戻す過程だった。ルーク=バースはひとつの“幸”の記憶が消去されるのが惜しくて、歩みを止めた。
足元がぐらりと、揺れる。
意識と反して、引き摺られていく。地面の痕跡が証明していると、ルーク=バースは呼吸をととのえて、一歩二歩と前に進んだ。
声、姿ですら、思い出としての“記憶”に残らない。
ーー案ずるな。俺は、俺が生きる“世界”に帰るだけだ。だが、路が開いている間は立ち止まるな。おまえを、俺が生きる“世界”に引き込むわけにはいかない……。
囁く男の名は、オカムーラ。
またの名を、岡村晴一。
所謂、オカムーラが生きる“世界”での名である。
ーーおまえら、達者で暮らせよ。
一組の“幸”への餞だった。
あと、一歩踏みしめれば“時間”の修正が完了する。
ルーク=バースは褄先を震わせ、地面を踏みしめたーー。
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“時間”が修正されての“現実”が癪だ。
“刻み”を正しくする為には、僅かな“過去”に戻らなければならない。
ルーク=バースの襟首を、時の刻みが戻ったアルマが掴んでいた。
タクトが、いない。カナコも、ビートも、ハビトまでも、いない。
《奴ら》の窖に向かう矢先、タクト=ハインとアルマは小競り合いをしていた。一部始終を見たルーク=バースは先を急がせる為に、タクトを振り切るようにとアルマを促した。
タクトは、とっくに大人だ。いつまでも先回りをするような扱い方をするアルマにも否があると、ルーク=バースは思ってのことだった。
売り言葉に買い言葉。タクトのことだ、アルマとそんなやり取りの最中で啖呵を切っただけだと箍を括った。
タクトを侮ったのは、我だった。
タクトは、本気だった。我々と袂をわけてまでも単独行動を実行すると、意志を頑としていた。
堂々巡りだ、起きた“現実”には変わらない。
腰に装着している、ホルダーに収めている小型通信機の着信音で、ルーク=バースは我に返った。
『こちら、石蕗隊。ルーク=バース殿、私も一般人捜索に加えて欲しい』
通信機越しでの、通話の相手は石蕗隊の隊長だった。
「キキョウ、おまえーー」
渋渋と応答をすると、相手の口の突きかたが一変した。
『アニキ。私を抜擢しときながら、蚊帳の外とはなんだ。私は一度【国】に来ているが、今度は違う目的だ。タクトに危機が迫っているとならば、尚更だ』
早口で捲し立てる相手に「はい、お任せします」と、ルーク=バースは諦めたさまで返答をした。
「アネキ。オレは、どうやら耳が壊れたみたいだ」
ルーク=バースの、小型通信機越しでの遣り取りの余波は、バンドにも及んでいた。
「気のせいだ、バンド。おまえがどう、足掻こうとも石蕗隊の隊長はキキョウだ。彼女とは、我々の“同志”として、今一度逢えた。あの頃の〈プロジェクト〉メンバーが成長した姿。私は、胸の奥を熱くした」
「アネキ、順応性が素早すぎる……。」
ざわざわと、樹木の枝が吹く風で擦れる音に耳を澄ませるバンドは、落胆したさまとなっていたーー。
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また、この階段を昇る。
鮮明に残る記憶を道標に、タクト=ハインは朱色に塗られる木製の階段を昇っていた。
ーータクト、あなた【ヒノサククニ】に行きなさい……。
永遠の別れ際で母が残した言葉を、タクト=ハインは幾度も思い返していた。
ぎしりと、踏みしめる段差が脆くて鈍い音を軋ませる。ぼろりと、足場をとられて咄嗟に掴む手摺が崩れる。
タクト=ハインは昇りきる、最後の一段に靴底を押し付けた。
ずん、と、身体が裂かれるような振動。ばりばりと、木片が割れて轟く音。
タクト=ハインが昇った階段が崩れて、一片残らず落下した。
来た道は、消えた。しかし、タクト=ハインは心を静かにした。
かつて、母がいた〈場所〉にまた、やって来た。
“あの頃”では隠されていた“事実”をこの目に焼き付ける。
タクト=ハインは、重く閉ざされている扉に掌を翳す。
〈場所〉の建屋の外観は、太古の【国】の宮殿。扉が開かれ、タクト=ハインは一歩と、踏み込む。
足元がやっと見える、天井からの深緑の灯。耳障りな、機械仕掛けの音。
そして、華の薫りとはほど遠い、燻さが鼻につく臭い。
“事実”は追憶を消去した。
かつて〈場所〉に母がいたことを、なかったかのように。
上に下に、右左にと目で逐いながら、漆黒の中で深緑が灯されている空間にひとりいるタクト=ハインは、虎視眈眈と“事実”を待ち構える。
かつん、こつん。ちりん、しゃらん。
大理石の床が踏みしめられ、貴金属が擦れる音が混じっての響きだった。
“事実”が来た。
タクト=ハインは近づく音に、耳を澄ませた。
ごお、ほう。と、濁りの息遣いをする“事実”が、タクト=ハインの前に立ち止まる。
ーー“蒼”よ。此所は、おまえが探していた〈場所〉ではない……。
ばさりと、布がはためく。がしゃりと、重い音が聞こえた。タクト=ハインは咄嗟に身構える。
“事実”は武器を使って威嚇をしている。グリップを片手で掴む、引き金を指先で乗せて、鈍く光った銃口を剥けているのが見えていた。
“照準”は、しっかりと合っている。何処へ移動をしようが弾は命中される。
“戦いの力”はないが“力”を感知するは出来る。
全身に当てられている“照準の力”は、発動させた本人でなければ解けない。
“事実”は“照準の力”の使い手ではない。
よって発動元は別にあると、タクト=ハインは感づいていた。
空間の斑な、深緑の瞬きが“照準”だった。追憶の〈場所〉に踏み込むと同時に当てられていた。
ーータクト、自分をあざむいているのも限界だろう。私と一緒に来るのが、解放の方法だ。
絆しでの、説得か。
“事実”に人の情があった。しかし、タクト=ハインは胸の奥を熱くさせるはしなかった。
「臆測をするのは勝手だが、僕はとっくに自分の道を歩いている。僕は自分の為に【国】に来たのではない。あなたのような“事実”から“今”を護る為に、僕は〈場所〉に来た」
タクト=ハインは全身を“蒼”で輝かせる。
脚に“加速の力”を、拳は“事実”に。
ーータクト。私は、おまえの父だ……。
どすり、と、腹部に弾が埋められる。タクト=ハインは“事実”が羽織るマントの端を掴み、床に落下した。
ーータクト、あなた【ヒノサククニ】に行きなさい……。
母の最期の言葉が、意識が朦朧とするタクト=ハインの心に囁いたーー。




