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5話

 夜の竹薮の空気は冷え込み、草木の臭いが充満していたはずの緑の空間には、しめった鬱っぽい臭いと暗闇が広がっている。走ることで酸素を求める肺に、無常に叩きつける黒い雨が入り込もうとして幾度か咳き込んだ。

 身体が熱を求めて震えようとする。意志ではどうにも出来ないほどの寒さに歯を食いしばる。この中を星野は今までさまよっていたのだと思うと、負けてはいられない気がわいてくる。

 短冊は夏祭りに持っていくような巾着袋に入っているのだという。黄色で花柄模様がついているらしい。あまり特徴的ではないと言えたが、今この場にそんなものは必要ない。何よりも懸念されるのはその防水性だ。中まで雨が浸透して、短冊が濡れてしまっては仕様がない。何で願い事を書いたか知らないが、紙は水には勝てないのだ。

 急ぎ足になったその足首に、丈の高い雑草が絡みつく。ヒーローの邪魔をする雑魚兵士の軍団のようだ。うっかり足をすべらせても立ち上がれる自信はあったが、そんなものに負けてはいられない。一つ一つを蹴り飛ばすようにして、地面を踏みしめていく。

 回れる場所はほとんど回っているし、闇雲に歩いては帰って来れなくなる。左を向いても右を向いても変わらない景色は、さながら運動場でランナーを蝕む変わらない視界。ゴールも見えなければ、スタート地点さえ分からなくなる。頼りになるのは自分の感覚だけ。しかしそれでもどうしてか、天川は必ず帰ってこれるという根拠のない自信があった。

 天川には目指す場所があった。いくら何度も転んでいた星野とはいえ、黄色い巾着袋を落とせば天川も気付く。では、天川がそういう部分に意識を向ける暇さえなかった場面はいつだっただろうか。

 崖だ。彼は危うく命の危機にさらされた崖に向かって走っていた。しかし、無論崖といっても、その広さは目を背けたくなるものがある。竹取の翁の話のように、光る竹でもあったらならば別だったが、そんなことを期待しても何も始まらない。とにかく彼は、その場所を目指して竹薮を縫うように進んだ。

 しまった、と思ったときには既に遅いことが多い。

 崖にたどり着いた天川だったが、その暗闇の深さを改めて思い知らされることになった。崖上から覗いた崖下は、漆黒の海。過って落ちたものを喰らい尽くしてしまうほどの黒。果たしてそこがどのくらい深い闇なのかも目論見がつかない。

 しかし天川は、

「――降りるか」

 足を踏み出した。

 崖というには思ったより斜面は緩く、バランスを取れれば自然と降りられた。土煙が舞い、特有の渋い臭いが鼻に付く。崖に手を当てると、天川はその崖沿いに歩き始めた。

 


 この時間、竹薮にいたのは彼ら二人だけではなかった。薄い群青色の作業着を着た男がいた。歳は四十代半ばといったところだろうか、皺の増えた顔にはところどころ貫禄がついている。手には夜食用にと買った菓子パンが入ったコンビニ袋と、暗闇を行くための必需品の懐中電灯、そして傘があった。

 彼は帰宅途中だった。つまり、彼は空見山の中腹部分に住んでいる。中腹に住宅地はもちろんないが、彼の自宅は確かにそこにあった。今日はそこで飲み明かそうと思い、酒のつまみなるものをついでに買っていた。

 道中、彼はおかしなものを見つけていた。小さいサイズの巾着袋だ。黄色かったのだろうか、今は泥と雨で汚れてしまっていて、とても綺麗には見えない。中身を見てみると、湿ってふやけた一枚の紙が入っていた。見てはまずいものなのだろうかと思ったが、この様子では誰も探しになどこないだろうと思い、紙を取り出して見た。

「……ああそうか、今日は七夕だったな」

 腕時計を見ると、まだ零時を回っていない。今この持ち主を見つけ出せば、その人の願いは叶うのだろうかと思い、それが無理なことに気付いて嘆息をついた。

 彼が山の中腹で行っていた事業は、幕を閉じることになっている。築五十年の施設を壊して、新しくマンションを建設すると、建設業者に立ち退きを求められたのだ。彼は最初抵抗していたが、事業の利益のことを突かれると痛かった。売り上げは年々低下していき、今年はついに、大赤字も脱帽するほどの収入だった。近所の駄菓子屋のほうがまだ儲けが良いのではないだろうかと疑えるほどだった。

 確かに、同業者と比べて施設も古く、業務員も雇っていないために私企業と何ら変わらない。あんな古ぼけたところにくるくらいなら、二百円の電車賃を払ってもっと清潔で良い所に行くだろう。そう思うと、彼の気は沈むばかりだった。

 七夕だったことは幸いだ。今日なら、彼の思いいれのある建物も存分に力を揮える。

 そう思って、意気込んでいた、そのときだった。



 誰かとぶつかった。それが人だと分かったのは、竹薮には笹か竹しかないからだ。天川も相手も、小さな悲鳴を上げてしりもちをついた。

「す、すいません……」

 まさか人がいるとは思わなかった。それは相手も同じようで、「申し訳ない」とやけに腹に響く声で謝って来た。

 ぶつかったせいで落としてしまったのだろう。コンビニの袋から、菓子やらつまみやらが地面に散らばってしまっていた。やばいと思い、手を伸ばし、

「あ、これ……」

 その視線の先に、巾着袋を見つけた。手にとって調べてみると、酷く汚れているが黄色い。天川は相手に詰め寄ってたずねた。

「これ、あ、あなたのものですか?」

「いや、それは途中で拾ったんだ。君のものかい?」

「はい! あ、いや、知人のです」

「そうか。良かった、帰って捨ててしまうところだったよ」

 立ち上がった男は作業着を着ていた。開発工事を担当している業者だろうかと天川は思ったが、それにしては些か古着のようなものを思わせる汚れが所々に見当たった。何にせよ、拾ってくれた彼に頭を下げて感謝した。

「ありがとうございます。さっきからずっと探してて……」

「いやいいよ。私も偶然だったしね」

 言って男は散らばった袋の中身を拾い集め始めた。それを見て、慌てて天川も手伝った。

 良く見ると、男は随分と精悍な顔立ちをしている。作業着は最近始まった開発工事のものとは思えないほど解れているが、清潔に剃られた髭を見る限りでは、この周辺に住むホームレス、というわけではなさそうだ。

 ふと、この人なら世界で最も宇宙に近い場所のありかを知っているんじゃないかと思い立つ。風邪をこじらせた星野を長い間外の空気にさらしたくはない。しかし強情な彼女を納得させるにはそこしかない。だが、問題のその場所を、天川は知らなかったのだ。

「すいません。もしかして、工事とかで中腹に常駐してるんですか?」

 遠まわしに男にそう訊いた。

「いや違う。私は中腹に住んでいてね、おんぼろのアパートだが」

「あそこにそんな場所ありましたっけ?」

「住人はほとんどいないし、人も来ないからそう思うのも無理はない」

 男は自嘲して言う。天川はポケットに入っていたものを取り出して、そんな男に見せた。すると男は天川が何か言う前に、目を丸くしてそれを見つめた。

「ここの場所が知りたいんですけど、分かりませんか?」

「……」

 男はまじまじとそれと天川を見比べた後、こう訊いた。

「この時間、そこは閉館してるが、何か用か?」

「開館してくれるように頼みます。意地でも今日、ここに行かなきゃならないんです」

「それはどうして?」

「七夕だから……ですかね。今日しか出来ないことがあって、その、知人がそれを望んでいるので」

「その知人のために、君はその巾着袋を探しに来て、わざわざ頭まで下げるのか」

「しかもこの雨のせいで風邪をこじらせて、ちょっと急がないといけないんです」

 口をあんぐりと開けて、男はしばらく呆けた。そして天川の行為に感動したのか、天川を傘の下に入れて、コンビニ袋を手渡した。

「案内しよう。私が『星逢プラネタリウム』の管理人の暈沙木かささぎだ」

 久しぶりの客に、暈沙木の顔は今までの人生の中で、一番を争えるほど緩んでいた。

 

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