「素晴ラシキ」世界鉄道へ
心地よい夏の風が、純白のカーテンを揺らす。小綺麗な病棟で、ジュディは静かに目を開けた。傍で誰かが驚きの声を上げるのが聞こえた。ジュディは顔を横に向ける。
「目を覚ましたのかい? 俺が誰か分かる?」
「ジョヴァンニ……」
ジュディは頷いて答えた。ジョヴァンニは目を潤ませて、ジュディの顔にキスをした。
「……ここは?」
「鉄道病院だよ。セーヌ川が見えるだろう?」
「私……どれくらい眠っていたの?」
「二週間」ジョヴァンニは言った。「救急車で運ばれて、一週間くらいは死線を彷徨った。でも、打ちどころが良かったから、一命を取り留めることができたんだ」
馬鹿な奴だよ全く、と涙声でジュディを罵る。ジュディは遠慮がちに尋ねる。
「……サルヴァドーロは?」
「トトかい? トトなら、なかなか大変な事件に巻き込まれたらしいけれど、最終的には事件を解決して、無事に帰ってきたよ」
「そう」ジュディは光の溢れる天井を見て、ふうと溜息をついた。「……良かった」
「全く、意識を取り戻して最初に頭に浮かぶ相手がトトかよ」
ジョヴァンニは目元を手で拭いながら、からかうように言った。
「ジョヴァンニ」
「何だい?」
「驚くかもしれないけれど、少し、私の話を聞いてくれる?」
「もちろんだとも」
ジュディに促されて、ジョヴァンニは彼女の身体を起こした。ジュディはセーヌ川に浮かぶ船を眺めながら、静かに言った。
「私、サルヴァドーロをスチーブンソン派に売ったの。三千ユーロで」
「……」
「最初、キャリアプランのことで上司に相談したら、出入構管理局のプロジェクトチームへの参加を提案されたの。出入構管理局はスチーブンソン派の勢いが強いから、気乗りはしなかったんだけれどね。でも、サルヴァドーロから耳に痛い言葉をもらって、自分も『かがみぐさ』のために何かしようと思って、提案を受け入れたの」
その後、ジュディは出入構管理局の本当の目的を知った。自分にその部局を紹介した上司も、スチーブンソン派の息がかかった人物であることが分かった。チームを出ようと思ったが、何度も脅され、出ることが許されなかった。サルヴァドーロが「かがみぐさ」であるという事実も、鉄道警察から借りた台帳を見て知った。出口が見えず、箝口令が敷かれたため誰にも相談できなかったとき、彼女の前に現れたのが、他でもない、サルヴァドーロだった。
「サルヴァドーロが、自分を相手側に差し出すよう芝居を打ってくれって言ってきたの。事件の核心に近づくために一番手っ取り早い方法は、自分自身が相手の手に落ちることだって」
「……それで、本当に、ジュディは実行したのか?」
ジュディは、ためらうように、ゆっくりと頷いた。
「怖かった。サルヴァドーロがもし失敗したら、私は裏切り者の負い目を一生胸に刻みつけることになる。でも、私、サルヴァドーロを信じたかった。だから、引き受けた。でも、いざ実行してみると、後悔と自責の念で頭が一杯になって、気づいたら、ホームから足を離していた」
ジョヴァンニは暫く、ジュディの言葉にどう返答すべきか悩み、言葉を失っていた。しかしジュディは、川沿いに吹く風をブロンド髪になびかせて、とても穏やか表情を浮かべていた。
「トトさ、お前のこと、自分のことみたいに心配して、何度もここに座って寝ずの番をしていたんだぞ? あいつには言うなって言われたけれど、これくらいしても良いだろう、ジュディに無茶をさせたあいつの罰としてはかわいいくらいさ」
「サルヴァドーロが?」思わずジュディが振り向く。
「俺さ、トトに本当のこと言われた後、色々考えたんだ。自分がマイノリティに属するとしても、自分が嫌だと思う奴のことを嫌だと言う権利はあると思っていた。でも、集団の一員としてじゃなく、自分自身を見て欲しいっていう、トトの考えには共感した。俺が望んでいるのも、結局それだから。あいつが『かがみぐさ』であろうと何だろうと、あいつは俺の友達だから、あいつの隠していた別の面も、受け入れることができると思う。今度、トトに話してみるよ」
ジュディはジョヴァンニの顔を見て、優しく微笑んだ。ジョヴァンニも笑い返し、ジュディの頭にそっと手を置いた。
「早く良くなれよ。また今度、皆を呼んでくるからさ」
「かがみぐさ」の世界鉄道内での対応をめぐるスキャンダルは、世界中のメディアで大きく報道されるに至った。「首謀者」とされたフィリップ・スチーブンソンは、社外取締役を罷免された。スチーブンソン派にとっては、大きな痛手となる事件だった。しかし、彼の刑事責任の追及については、ドラグロワール総社長は要求を取り下げることを明らかにした。欧州二大財閥の水面下での工作の結果かと、巷では「モンマルトル第二の驚愕」と騒がれた。
しかし、ドラグロワール総社長は、スチーブンソン氏の逮捕と処罰が問題の根本的解決ではないと主張し、大胆な改革案を国際社会に提案した。「かがみぐさ」に、居住と外国旅行の自由の認定証、すなわち「市民権」を与えるというものだ。今まで「無国籍者」としてよそ者扱いされてきた彼らに対する支援を表明する国際世論を追い風にしての提案だ。「無国籍者」を認定することは、国際法の流れに反するものだ。
総社長の目指す道が平坦ではないことは、総社長自身も分かっていた。それでも、彼女はこの道を選ぶことに決めた。かつて、彼女の祖父たちが、夢物語と嗤われた世界鉄道の実現のために、ひたすらレールを敷き、道を切り開いていったように。
「かがみぐさ」に「市民権」が与えられるのには、まだ日がかかりそうだったが、人々の心は、少しずつ変化の兆しを見せ始めた。
「元気出せよ兄貴。別にクビになったわけじゃねえんだからさ」
仏頂面のサルヴァドーロの肩を叩いて、ジーモンがビストロの中に入ってきた。「かがみぐさと犬はお断り」と書かれた張り紙を勢いよくはがしていたジョヴァンニが、二人に気づく。
「どうだったんだ、結局?」
サルヴァドーロはカウンターに座ると、不服そうな顔で言葉だけを味気なく並べた。
「交流電車の直流区間への冒進、本線列車の支線への強制入線、架線の溶断、それからパンタグラフの破壊……代表的なものはそれくらいだけれど、その他色々と理由を挙げられてさ。さしもの兄貴もお咎めなしとはならず」
「三ヶ月の停職処分になった」
「三ヶ月?」ジョヴァンニは拍子ぬけた顔をした。「たったそれだけ? 良かったじゃないか」
「良くねえよ! 三ヶ月も仕事ができねえんだ、なにしろっていうんだよ」
「全く、これだから仕事人間は。兄貴。三ヶ月も仕事しねえで遊んで良いって考えろ。今まで十年間有給を取らなかった兄貴だ、これくらいドーンと休暇取って骨休めしろってことだよ」
「ジーモン、その開き直り方も問題ありじゃないか? 一応二人とも、罰せられたわけだしさ」
「何言っているんだ、ジョヴァンニ。兄貴は今や正義の味方だぞ? 英雄だぞ?」
サルヴァドーロはオレンジジュースを受け取ると、ジーモンの話を無視して、真面目な顔でジョヴァンニに尋ねた。
「ジュディの様子、どうだった?」
「ああ、順調に回復しているみたいだったよ。意識取り戻してから、もう二週間か」
「……何だよその含み笑いは」
「別に。内心お前に会いたがってそうだったぞ」
「俺は……俺はちょっと、行きづらいんだ。きついこと頼んじまって、辛い思いさせたからさ」
「だからこそ見舞いに行ってやった方が良いんじゃないのかよ?」
ジョヴァンニはウィンクをした。サルヴァドーロは溜息をつく。手許のオレンジジュースの水面が揺れた。
「ねえ、さっき、三ヶ月がどうのこうのって言っていなかった?」
三人は入口の方に振り返った。バルバラが、よっ、と三人に手を振る。
「停職処分だって。三ヶ月」
「ええっ、三ヶ月もあるの? 良いじゃん、旅行できるじゃん! やったね!」
「ダメだこいつ、ジーモンと同じ思考回路だ」サルヴァドーロは肩をすくめる。
「はいはい、ごめんなさいね、お姉さんが余計な前フリしちゃって!」
バルバラはサルヴァドーロの頭を小突くと、入口の方に戻って誰かに声をかけた。
「はいはい、皆さん、特別ゲストのお出ましよ!」
バルバラが叫ぶと、横から遠慮がちにジュディが現れた。
「ジュディ!」ジーモンの顔が明るくなる。
「どうしてだ? さっきジョヴァンニが見舞いにって……」
そう言って、サルヴァドーロはようやくジョヴァンニの含み笑いを理解した。苦々しげに咳払いをしてジョヴァンニを睨むと、その目をジュディに移した。ジュディの蒼い瞳がひるむ。サルヴァドーロは我に返り、険しい顔をするのを止めた。
「嬉しいよ、お前が退院できて」
サルヴァドーロは、言葉を選ぶように言った。ありがとう、とジュディは答えた。その表情に少し、影が差す。
「私、サルヴァドーロに言われたから、貴方をスチーブンソン派に差し出した。でも、ずっとそれは間違っているんじゃないかって、後悔していたの。貴方にもしものことがあったら……」
ジュディは俯いた。肩が震えている。彼はジュディのブロンド髪を優しく撫でて答えた。
「お前の勇気のおかげで、事件は解決することができたんだ。……俺も、お前が死にたいと思うほどにまでお前に負担をかけさせてしまって、本当に悪かった。許してくれ」
「私のことなら大丈夫よ」ジュディは潤んだ目を細めて、笑った。
サルヴァドーロは、野次馬のように興味津々に様子を伺っていた三人を見て、呆れたように溜息を吐いた。
「何ボケっとしているんだよ。ジョヴァンニ、オレンジジュース」
「……え?」ジョヴァンニはきょとんとしている。
「オレンジジュースだ。いいか、二つだぞ?」
サルヴァドーロはジュディの方を見て、微笑んで見せた。
「お前もオレンジジュースで良いよな?」
ジュディは暫く惚けたように、サルヴァドーロを眺めた。また目頭が熱くなるのを感じた。こみ上げてきそうなものを抑えるように、ジュディは顔を綻ばせて頷いた。
「あたしもオレンジジュース欲しい!」
「お前は自腹だ。直接ジョヴァンニに言えよ」
「ちぇっ。給料もらって休みも取らないで倹約家なら、一体どこでお金遣っているんだか」
バルバラは口を尖らせてサルヴァドーロを睨んだ。
「ジュディ、ここ座れよ」ジーモンは自分の右側の椅子を叩いた。しかし、そこにはバルバラが腰掛けた。ジーモンは不服そうに横目でバルバラを睨んだ。
「それで、さっきの旅行の話だけどさ。あ、あたしやっぱりジンジャーエール」
「了解」ジョヴァンニはグラスを棚から取ると、明るい顔をして振り返った。「何なら、全員でどっか行くか? 俺も、一週間くらいなら店開けられるし」
「本当? 良いじゃん、良いじゃん! ねえねえ、どこに行く?」
「兄貴はどこに行きたいんだ? あ、そう言えば、ブルゴス行っていないな。ブルゴス!」
「何でブルゴスなのよ。あたしもう行っちゃったわよ」
「お前の旅行歴を考慮したら、行くところなんてなくなっちまうだろうが!」
右隣で二人が他愛もない言い合いをしている間、サルヴァドーロは黙ってオレンジジュースを飲んでいた。ジュディがそっと尋ねる。
「……どうしたの?」
「……いや、別に。俺に話があるっていう人がいたんだけれど、結局連絡取れずじまいでさ。無線でのやり取りだけで、連絡先知らないし、俺、停職だから暫くは無線も扱えねえし」
「話って、何の話?」
「さあ。何でもなかったのかもしれないけどさ」サルヴァドーロは、ジーモンの首元で揺れる金色の鍵を静かに眺めた。「でも、何となくその人の言いたいことは分かったんだ」
「はい、ジンジャーエールとホルステンビール」ジョヴァンニが騒いでいた二人を宥めるように、バルバラにグラスを突き出した。飲み物が来ると、休戦になる。そのうち別の考えも浮かんでくる。
「そうだ。そういや兄貴、旅行って言っても、パスポートねえだろう? どうするんだ?」
「お前そういうセンシティブなことをあけすけに……」ジョヴァンニが呆れる。
「簡単じゃない? イギリス政府に頼み込めば、きっと事情を汲んでパスポート作ってくれるわよ。あたしイギリスって意外と好きなのよ?」
「んなもん、要らねえよ。IDあれば大体のところは回れるだろう?」
「それはそうだけどさ、世界鉄道のID見て旅券と同じだと思う奴なんて、実際多くねえよ」
「それかなんちゃってスペイン人になっちゃう? あたし歓迎するよ?」
「スペイン人にもイギリス人にもならねえよ」サルヴァドーロは笑って二人を見た。
「……じゃあ、どうするんだ、兄貴?」
「どうもこうもねえよ」
ジーモンの質問に、サルヴァドーロは元気よく答えて、オレンジジュースを飲み干した。
「俺の母国は、世界鉄道なんだからさ」
(素晴ラシキ世界鉄道(巡礼本線編)完)
最終話です。今回も随分と長編になってしまいましたが、ここまで読んでくださいまして、本当にありがとうございました。続編はまだ構想段階ですが、早いうちに書き始めようと思います。その際はまた読者になってくださいますと幸いに存じます。




