+Fallen one
『銀河ヒッチハイクガイド』のステマです。
カーテンを開ければ、案の定、窓の外は雨が降っていた。
僕は微かに痛む膝を撫でると、制服に着替え、リビングへと向かう。
「トヨタ、おはよう。今日は雨だね」
リビングのソファに寝そべる猫に声をかける。僕の朝の挨拶に応えるように、彼は折れ曲がった長い尻尾を揺らしてみせた。
対面キッチンの向こうでは、母さんが作業している。彼女は起きてきた僕に気が付くと、カウンターに広げられたお弁当を指し示した。
「りっくん、今日は博物館学習よね? お弁当忘れないでよ。そこで冷ましてるから自分で包んでね。お母さん、もう出るから!」
矢継ぎ早に告げると彼女は僕の返事を待たずに、リビングダイニングから出て行った。
「いってらっしゃい」
一応、彼女が出て行った扉へと声をかける。
母さんが出て行く玄関の音がすると、トヨタはすっと身を起こした。
彼はソファから飛び降りると、朝食が用意されたテーブルについた僕の隣の椅子へと移動してくる。猫の癖に妙によい姿勢で座ると、かぎ尻尾をお尻に沿わせた。
「おはよう、六朗」
可愛らしい猫の姿からは意外なほど渋い声。
彼は今、猫の姿だけど、真の姿は□□□星系の小さな惑星で生まれた宇宙人なのだという。何やら仕事で地球に来ているらしい。
彼が名乗る『トヨタ』と言う名前はもちろん、本名ではない。
なんでも彼は、地球に来たばかりの頃、地上を動き回る自動車を大型生物だと思いこんでしまったそうだ。そして、その大型生物における、ごく一般的な名前をトヨタだと認識したらしい。
そこで、車に擬態し、トヨタと名乗り、他の車との接触(事故ではなくコミュニケーションをとるという意味での)しようとしたけれど、当たり前だけどうまくいかず、困っていたそうだ。
そんなある日、彼曰く“美しい毛並みの親切なレディ”が、彼が擬態する車のボンネットに日向ぼっこを始めた。勇気を出して彼女に話しかけたところ、地球に関するいろいろなことを教わったらしい。
例えば、この星での快適な過ごし方とか。
そして、その快適な過ごし方を実践するために、彼は僕の家に来ることになった。
僕は食べ終えた朝食のお皿を流しへと運ぶ。
「トヨタ、君は今日、何すんの?」
窓の外を眺める彼に尋ねれば、彼はぴんと立った耳をぴるるっと震わせる。
「もちろん現地調査だ、と言いたいところだが、雨が降っていては彼らに会うことができないだろうから、今日はこの生態に相応しい過ごし方を実践することにする」
「つまり、何もしないってこと?」
「そうではない。猫という生態をより深く理解するために必要なことだ」
僕の意見に彼は憤然と反論する。
猫の生態活動について、彼と議論する時間はないので、僕は「そっか、楽しんで」とだけ答えるにとどまった。
お皿を洗い終わると、お弁当を包み、スクールバッグへしまい込む。
歯を磨くために洗面所へと向かう。トヨタは僕の後ろをついてくる。
「君は何をするのかね? 先ほど母君が博物館学習と言っていたが」
「ああ、社会科見学で区立博物館にみんなで行くんだ。プラネタリウムが併設されてるんだよ。君の星が出てくるかも」
「それはないだろう、」
「どうしてさ」
「私の星はとても遠くてとても小さい。人類の技術ではまだ認識できない星だ。距離にして ―――― 」
僕は彼が彼の星がどれほど遠いのか、自身が地球に来るまでの道程を語るのを聞き流しながら歯を磨く。
ちょいちょい立ち寄った星の話を入れてくるけれども、そのほとんどの単語の意味が解らないのが残念だ。ただそれが持つ音の響きから、空想することしかできない。
「いろんな星があって楽しそう」
口をすすいだ後、タオルで拭きながら、何気なく口にすれば、トヨタは満足そうに目を細めて見せた。
「君も行ってみればいい。百聞は一見に如かずだ」
「…… 簡単に言うけどさ」
「簡単だよ。君もこの星も可能性の塊だ。まずは行こうと思うことだ。そしたらどこにだって行けるさ」
無責任な彼の発言に僕は小さく肩を竦めて見せた。スクールバッグを手にすると、玄関へと向かう。
「俺ももう行くよ。トヨタ、俺が出てったら鍵をかけて」
「ああ、承知した。いってらっしゃい」
僕は彼の言葉を背で聞いて扉を閉めた。どうやってるのかわからないけれど、内側から鍵をかけてくれる音がする。
引っ越してきて一か月。高校に入学して半月の四月半ば。
雨が降るとまだまだ寒い。僕は引き連れたような膝の痛みに舌打ちする。
重くのしかかってくる曇天は、今にも自重に耐えきれずに落ちてきて、世界を飲み込んでしまいそうだ。
杞憂とか言うけど、僕は案外、それまで当たり前にあった世界が簡単に壊れることを知っている。
例えば、この膝が壊れた時。
その日は突然やってきて、僕は地に足をつけてしまった。体重は変わっていないはずなのに、まるで重石をつけたように弾まなくなった身体。
それまでは、大地をひと蹴りする毎に、跳ねるように体が浮いていたのに。足が、いや身体がとても軽かったのを覚えてる。
あの、空に吸い込まれるような感覚を忘れられないでいて、それ以降、僕は浮足立つことがないのだ。
ポケットからスマホを取り出す。通知を知らせるいくつかのアプリ。
ホーム画面で概要だけ確認して、そのままポケットに突っ込むと、駅に向かって歩き出した。
「どこにだって行ける、か …… あの街にも行けないのに」
空港までは一時間、飛行機で ―――― 考えたってしょうがない。
時間だけじゃなくて、しがない高校生の僕にはお金だってないのだ。
☆
区立博物館の展示は、思ったよりも充実していた。
地域学習に特化しており、越してきたばかりの僕にはそれなりに面白い。また、プラネタリウムを併設しているせいか、少なからず宇宙関係のものが展示されていて、宇宙猫と暮らしている僕には、それはとても興味深いものだった。
「ロク、めっちゃ真剣に見てんじゃん」
同じ班の山田に、がっと肩を組まれてたたらを踏む。
山田は出席番号が僕の直前で、入学式の時に僕から声をかけた。気が合ったこともあり、それ以降よくつるんでいる。
地元民である彼は、中学時代の校外学習でも来たことがあるらしく、展示物にすでに飽きているようだった。
「俺は初めてだから割と楽しい」
「ロクって区外生だっけ?」
「いや、中学まで九州。親の転勤で高校からこっち来たばっか、」
「え、そうなの? 方言しゃべってよ」
「そんな無茶ぶり好かんたい」
「ってやってくれんじゃん」
いわゆる父親が転勤族で、両親とも関東出身であること、そもそも九州にいたのは中学校の三年間だけなこともあって、正直、方言なんてしゃべれない。
それでもまぁ、こういう時はノっておいた方が楽しくやれることを知っている。
物心ついてから3回目の引っ越しともなれば、多少慣れてくるものだ。
とは言え、引っ越す前はそれなりに心細さが半分、残り半分は新しい土地で心機一転、それこそ世界が変わるかも、なんて、思ったりもした。だけど、いざ学校が始まってしまえば、区外から通う学生も多く、僕の引っ越しは新しい生活のハンデにならない反面、世界は特段、変わることはなかった。
相変わらず壊れたままの重力と僕の膝。
新しい友達とバカをやって、僕の名前は『六朗』と書いて『リクロウ』と読むのに、『ロク』っていうあだ名も変わらない。自称宇宙猫が住み着いたけど、彼を狙う組織やどこかの国の政府に追われることもなく至って平和だ。
変わったというか変えたのは、変えるタイミングを失っていた人前での自称を“僕”から “俺”にしたくらいだ。
「吉田くんたち、プラネタリウム始まるよ」
ふざける男子に声をかけてくれたのは同じ班の鈴木さんだ。
僕は山田に肩を抱かれたまま、引きずられるようにプラネタリウムのドームへと入った。
はじめは、区立博物館のプラネタリウムなんてガキっぽいに違いないと馬鹿にしていた僕らは、中途半端なキャラクターによる解説ではなく、きちんと高校履修科目の地学に沿ったプログラムが流れたこと、なにより、近年話題になった、帰還に成功した小惑星探査機が取り上げられていたこともあり、プログラムが終わる頃には、みんな ―――― 特に男子は宇宙最高となっていた。
「ふ、男子って単純、」
単純と書いてバカと読む、というように笑うのは、同じ班の朝日向さんだ。
しかし、これはバカにされたとしてもテンションが上がってしまうのもしょうがない。
むしろ、なんで宇宙にロマンを感じないでいられるんだ。
プラネタリウムの出口付近には、厳重なガラスケースに並べた、宇宙から採取したものが特別展示されていた。
それは僕の家で怠惰をむさぼっているであろう宇宙猫よりも、よっぽど宇宙を感じさせるものだった。
なにしろ、これは宇宙旅行を楽しみながら向こうからやってきたのではなく、人類がつかみ取ったものなのだ。
僕はすっかり感動してしまって、先ほど飛ばしてしまった宇宙関係の展示を見るべく、そのエリアへと足を向けた。
そこには先客がいた。鈴木さんだ。
ガラス張りの壁と階段との間の吹き抜けを利用したそのエリアは、天井から人工衛星の模型がつり下がっている。その中には、先ほどプラネタリウムで投影された探査機もあった。
彼女はその宇宙に旅発った人工物の模型を見上げていた。
解説によれば、一番地面から遠い ―――― 高いところにあるのは、ボイジャー1号らしい。ちなみに、ボイジャー1号は今なお飛行中であり、地球から最も遠くにある人工物体なんだそうだ。
四階建ての建物の天井近くにあるそれは、一階の床からは良く見えない。四階の踊り場から見るべき模型なのだろう。
「…… 遠っ。有人だったら生きてるうちに帰還できる距離じゃないよねぇ」
鈴木さんは僕がいることに気が付いたのか、ふと、どこか感傷的に呟く。
「でも、あんなとこまで行けるのなら、もう帰ってこれなくてもよくない?」
思わず零れ落ちた僕の言葉に、鈴木さんはびっくりしたように目を見開いた。
僕は鈴木さんが驚いたことに驚く。
「戻ってくる必要ある?」
戻る時間があるなら、もっと先に進みたくなるものじゃないか。宇宙は果て無く広がっているのに。
しかし、鈴木さんの答えは、僕の予想外のものだった。
「なんでそんな寂しいこと言うの、」
「え?」
鈴木さんは僕が驚いたことに驚いたようだった。
寂しいかな? そんなこと感じる暇がないくらい楽しそうだけど。
「いや、友達とか、家族とか、さ」
鈴木さんは困惑している。僕も困惑していた。
寂しい、かぁ。
僕は3回引っ越しをしていて、それぞれの土地で、それなりにうまくやっていたと思う。だからこそ、転校するときはもちろん寂しいと感じた。
だけど、僕は知っているのだ、その寂しさは続かないことを。
僕が新しい生活に奔走してるうちに、そして、お別れした友人たちが日常に追われてるうちに、日常の大部分を占めるとりとめないやり取りが少なくなり、イベント毎の挨拶だけになって、やがて疎遠になる。
そうして、僕たちはそれぞれの生活にお互いがいないことに慣れて、いつの間にか寂しさなんて感じなくなるのだ。
「だってその先にもいろんな星があるんだよ? プラネタリウムでもダイアモンドでできた惑星があるとかって言ってたし、気になんない?」
「…… 好奇心旺盛だね、」
「地面がダイヤだなんてちょっと見てみたいっしょ?」
「え、着陸する気なの?」
「うん、そこでダイアモンドを採取して、僕はまた先に進むから、宇宙産のダイアモンドはカプセルに入れて地球に向かって投げるよ」
「ええ、さらに先に進む気なんだ!?」
鈴木さんの言葉に、僕は誇らしげに胸を張り、「だってその先にもっとすごい星があるかもしんないし、」と言えば、鈴木さんは苦笑した。
「カプセルに入れて投げるって、それもう隕石だよね」
「流れ星になるかも。楽しみにしててよ」
僕の言葉に、鈴木さんはついに吹き出してしまった。彼女はひとしきり笑った後、ガラス越しの曇天を見上げて呟いた。
「そうだね、まぁその時は …… 晴れるといいな」
相変わらず雨を降らせ続ける雲を見上げる。
あの重たい雲の上には、重力に縛られない空間が広がっているのだ。
僕はほんの少しだけ、浮足立つのを感じた。
☆
夕方、家に帰ってみれば、トヨタは猫らしくソファの上に寝そべっていた。
「おかえり、六朗」
「ただいま、トヨタ」
僕がリビングダイニングを通り抜けようとすれば、彼はソファから飛び降りて、かぎ尻尾を揺らしながら、僕の部屋までついてくる。
「雨の日の猫の気持ち、理解できた?」
「我ながら深く考察できたと思う。君こそどうだった?」
「すごくよかったよ。宇宙に行ける気がしてきた」
「そうだ、まずは行こうという志が大切だ」
朝と同じことを繰り返すトヨタに、僕は、朝は言えなかったことを口にした。
「―――― いつか君の星にも行ってみたいな」
途端、彼のかぎ尻尾がピンと立った。ついで、饒舌に語り始める。彼はテンションが上がるといつもそうだ。
「ぜひ来てほしい。本当なら私が連れて行きたいところだが、調査対象からサンプルの持ち出しの手続きはとても大変だし、事前調査員の私にはサンプル選定の権限はないんだ。君が来てくれるなら、私の生まれ育った ――――」
サンプルとは …… ?
少し引っかかったけど、僕は彼の話に口を挟まなかった。歓迎してくれるなら十分だ。
「―――― は我が星特有のもので、他の星にはちょっとないものだね」
僕は彼が話す故郷の話を聞き流しながら制服を着替える。彼はベッドの上で香箱座りをして、いかに素敵な星であるかを語るけれど、やはり、そのほとんどの単語の意味が解らない。
「君が星まで来てくれるならポートまで迎えに行く」
脱ぎ捨てた制服のポケットでスマホが震えた。僕は制服を拾い上げ、スマホを取り出すと、ホーム画面に現れた通知の概要を見る。
一か月ぶりの友人からのとりとめない内容だ。
僕は少しためらい、しかし、今日見た探査機の話をするべく、SNSアプリを開いた。
「トヨタ。俺、バイトはじめようかな?」
大型連休には間に合わないけど、夏休みには彼に会いに行けるくらいお金を稼ぐんだ。
まずは行きたいという志が大事。
□□□星系の小さな惑星と違って、同じ国内なんだから行くのはずっと簡単だ。できないわけがない。
「いいんじゃないか、何事も社会経験だ」
僕はスマホから顔をあげて、雑な返事をしてくるトヨタを見やった。
「ねえ、ポートに迎えに来るときは、スケッチブックのウェルカムボード掲げてよ」
トヨタは「承知した」と言って、まるで本物の猫のようにぐっと伸びをして見せた。
小惑星探査機すごい(語彙力の崩壊)。