第三十六話 足踏みポンプと俺の夏休みの日記帳
「……あはは。ちょっとサヤカさんとはしゃぎ過ぎちゃったかも」
気を取り直して部屋に入ってみれば、ベッドの辺りは酷い有様だった。
ベッドはシーツがぐちゃぐちゃだし、布団は上下が分離してすっ飛んでいる。
二人して枕を巡ってどれだけ揉み合ったのか。あ、いや、別に詳しくは知りたくないです。
さっきは説教みたいなことしてたくせに自分はこれなのか、というところもあるのかマユはばつが悪そうな顔をしている。
まぁ、それなりにはしゃいだということで、今はスルーしておこう。
「うん。マユ、それじゃここ整えといて。先輩はエアーベッド膨らませるの、手伝ってください」
俺はこの話がこれ以上続くのを回避するために矢継ぎ早に作業指示を出すと、先輩と自分のエアーベッドを箱から取り出す。
ビニール製の折りたたまれた本体を開いて展開すると、いわゆるベッドのシングルサイズになる。
今は空気穴を開くと自動で膨張して空気が入っていくタイプが主流のようだが、残念ながらこいつはそうではない。
これを一人で膨らませるとなると、やはりそれなりに大変だ。二人でやればその分早く膨らむ。
俺は早速本体の空気穴に大型の足踏みポンプのホースを突き刺し、抜けないかどうかをしっかり確認する。
「よーし。じゃあまずはわたしから行くよー」
しゅっこしゅっこしゅっこしゅっこしゅっこしゅっこしゅっこしゅっこ。
先輩はひたすら足踏みを繰り返して、空気を入れていく。
うすっぺらいビニールが外周から段々膨らんでいくのがわかる。
俺は視界の端にそれを捉えながら、上下する先輩をぼーっと見ていた。
「ユウ君、ちょっと、疲れて、きたかも……って、聞いてる!?」
はっ。いかん。ぽよぽよの魔力にやられていた。
「あ、はい。すみませんちょっとボーッとしてました。交代しますね」
先輩は俺と位置を交代すると、はぁはぁと荒い吐息を吐きながらその場に座り込んでいる。
うーん、その伏し目がちの仕草は実にヤバイですな。そわそわしちゃう。
俺は一息ついて先輩から視線を外すと片足を足踏みポンプの上に合わせて、もう片方の足をポンプがズレて動かないように壁として固定する。
そのまま上に乗せた方の足のつま先を地面に固定して、体をポンプの上まで持っていく。ここがポイント。
準備ができたら上に乗せた足をかかとの上下動だけでポンピングし、しゅっこしゅっこと空気を入れていく。
こうすると普通にストンピングで空気を入れるより、格段に楽に空気を入れられるのだ。
「あれ? なんか、ユウ君楽してない……? わたしの時より全然楽そうなんだけど……」
先輩必死に、いや一生懸命片足突き出してしゅこしゅこやってましたもんね。あれは疲れる。
子供の頃はその疲れるまで踏み込むのも楽しかったんだろうけど、大人になったらそうも言ってられない。
「ふっふっふ。ライフハッカーなめんなですよ。あんな愚直なストンピングじゃ、そりゃ疲れもしますよ。そこでこうすることで、体重も使った踏む力を無駄なくポンプに伝えることが出来るのです。最小の労力で最高の効率をってやつですね。先輩も次の交代で試してみるがいいです。そして俺に、いやライフハックにひれ伏すのです」
「ぐっ……。確かに、ちょっとやってみたいかも……。ライフハックとは一体……ごくり」
これもライフハック。あれもライフハック。ライフハックは人生を変えます!
ライフハックに清き一票を! よろしくお願いします! よろしくお願いします!
まぁ空気を入れるライフハックは本当は別にあるんだけどね。今は内緒だ。
俺のぽよぽよ観察日記のために。俺の先輩うぉっちんぐのために! 大事なことなので略。
「さあ、だいぶ空気入ってきましたけど、まだまだ先輩の力が必要です。その力、ライフハックに捧げてくれますね?」
「ああ……もちろんだとも。キミのライフハック、試させてもらおうじゃないか」
いや俺のってわけでもないけど、まぁいいか。再び先輩と交代する。
「えーとこうしてかかとを付けて、もう片方で固定する、と。お、おお? これ凄いよ! これ楽だよユウ君!」
しゅこしゅこしゅこしゅこしゅこしゅこ。先輩が実に楽しそうで何より。
ライフハックは笑顔を生みます! 明るい人生にライフハックを! 清き一票……あ、もういい?
「えーと、今大体半分ぐらい入りましたかね。先輩、もう一息です。ふぁいおー」
「よーし、これならいける。行けるよユウ君! もう一息がんばるぞい!」
こ、ここで健気萌えをぶっこんでくるとは。その両手でぎゅっとガッツボーツは卑怯ですよ。
しかしこれ先輩多分無意識だな。無意識でこれとは恐れ入る。流石先輩。
これどっちかというとマユに似合いそうなネタなのに、見事に使いこなしておられる。
「また疲れたら交代しますからねー」
しかし、相変わらず変なところで子供っぽい所が残ってる人だ。改めてそう思う。
新しいことを発見するとああやってきらきらしながらはしゃいでるとことか、もう見てらんない。
まぁそういいつつガン見するんだけどね。ぽよぽよ観察日記、つけないとね。うん。
「……ユウお兄ちゃん、随分楽しそうなことしてるみたいだね?」
「おほっ! ま、マユさんでしたか……。な、なんのことかな? 我々は普通にポンプで空気を入れてるだけだよ? やましいことはなにもないよ? なにもね!」
マユめ。いきなり後ろから声かけてくるから、変な声出しちゃったじゃないか。まったく。
そして事実無根の言いがかりはやめてもらおうか。何もおかしいことなどしていない。おかしいことはね。
「ふぅん? ……前にユウお兄ちゃん、私に教えてくれたことあったよね。ボートや浮き輪の効率の良い空気の入れ方……」
マユさんが細く開いた眼差しでこちらをじっと見つめながら、小声で俺をなぶり始める。
「マユさん! あっちの整頓はどうでしたかね! マユさんほどの家事スキルがあればまったく問題なかったとは思いまけど、一応ね? ほら、何か寝具に不備があったらいけないし!」
そして俺はそれに抗うすべを持たない。そうだった。前にマユにはドヤったんだった……。
去年か一昨年かいつだったかは忘れたけど、確か海でそんなことをした気がする。なんという迂闊……!
「? マユ、ちゃん、今、なんか、言った?」
しゅこしゅこやっていた先輩もマユがやってきたのに気づいたようで、こちらへ意識を向けてくる。
「ううん。なんでもないよ。お疲れ様って言ってただけ」
マユはそれにニコッと笑顔で答えている。こ、こえー。その笑顔こえーですよ。多分俺にとってだけだろうけど。
そのままマユは俺に視線を流すと、その笑顔で俺にとどめをさした。
「ユウお兄ちゃん。……貸し、一つね」
「アッハイ……。アリガトウゴザイマス」
そして俺のなつやすみが終わった。観察日記の時代は最早過ぎ去ったのだ。カムバック夏休み……。
「じゃあ、次は、マユ、ちゃんの、番、ねっと!」
そう言って先輩がマユにポンプの場所を譲ると、マユの首が音もなくぐりんとこちらを向いた。
いや音鳴ったら怖いけど。今その表情も怖いけど。何もかもが怖いよ俺!! 誰か助け……。
「……ユウお兄ちゃん。あとで、覚えておいてね」




