二話【突然のピンチと再会】
いつまでもその場にいるわけにもいかないので、二人は足が乾くと歩き出した。
ジャングルの中に入ると、むわっと湿度の高い空気が二人を包んだ。シックザールは、人間が入るサウナを思い出した。旅を始めて間もない時に誘われて一度入ったことがあるが、異常な湿度と高温で死にそうになった経験がある。
赤茶色の土を踏んで、ジャングルの中を当てもなく歩いていく。二人を包む植物はとにかく大きく、まるで自分が小人になったような錯覚さえ覚える。地面に張り出した木の根も、遠目には大蛇がうねっているように見えた。
歩いていると、動物や虫も頻繁に見かけた。犬のようなネズミのような動物、やたら目玉が大きく不便そうな爬虫類、通常の数倍のサイズがある昆虫の群れ――いくつもの世界を歩いてきたシックザールでさえ、見たことも聞いたこともないような生き物が闊歩する世界だった。
最初は嫌な顔をしていた彼も、徐々に興味を惹かれ、好奇心に足が軽くなっていた。後頭部の栞がピョコピョコと跳ねる。
「最初は嫌な場所かと思ったけれど、慣れてくるとなかなか見どころがあるね。これは良い物語が手に入りそうだ」
「それは良いのですが、あまりわたしから離れないようにしてください。この世界の生物は、全体的にサイズが大きいようですから」
「そうだな。それもそうだ」
シックザールは歩みを緩め、アルメリアの傍に寄る。質素な服装になってしまったため、彼女の体中に彫られた装者の刺青が非常に目立つ。他の世界では少々嫌そうな目を向けられる彼女の刺青だが、この世界ではどうなのだろうか。
初めこそ戸惑っていたが、徐々にこの環境に慣れてきた。時折現れる恐竜じみた巨大な爬虫類(と思われる生物。分類はわからない)に警戒すれば、それほど危険も無い。
「この景色を堪能するのもいいけれど、そろそろ人間に会いたいところだね」
「こんな場所に、人間はいるのでしょうか?」
「さあね、それは探してみないと何とも言えないさ。まあ、いなかったらいなかったで、二人で一週間のサバイバルを楽しむのもいいんじゃないかな」
「それもそうですね」
言って、二人は静かにほほ笑んだ。徐々に、この世界を楽しむ余裕が出てきた。
そのまま歩いていると、突然アルメリアが足を止め、木の陰に隠れた。つられてシックザールも隠れる。
「どうした、アルメリア?」
「噂をすれば、なんとやらですね」
彼女が指をさすので、その方向へ視線を向ける。
かなり遠いが、何を指しているのかすぐにわかった。人間だ。少なくとも、人型の生物であることは間違いない。
人数は三人。巨漢の男に、中肉中背の男。それとショートヘアの少女。三人はシックザールとアルメリアと同じような、動物の毛皮を纏っただけのような質素な恰好をしている。違うところといえば、武器と思われる木の棒を持っているぐらいか。
「おっ! 現地人発見だ!」
「どうします。近づいてみますか?」
「そうだね、せっかく見つけたんだし。それほど強そうではないけれど、一応反撃できるように備えておけよ」
「かしこまりました」
シックザールは木の陰から飛び出すと、ドスドスとわかりやすく音を立てて三人に歩み寄っていった。こっそり忍び寄れば、逆に警戒されてしまうかもしれないためだ。
ある程度近づくと、三人はこちらに気付いたようだ。何かに怯えるように体を震わせると、手に持った棒をこちらに突き出した。近くで見るとわかったが、何の加工もされていない、本当にただの大きな棒きれだった。
最初は警戒心たっぷりの三人だったが、こちらも同じような見た目をしていたおかげか、すぐに棒を引っ込めてくれた。
シックザールは精一杯の笑顔を浮かべて軽く会釈した。
「初めまして。ボクはシックザールっていいます」
「わたしはアルメリアです。初めまして」
何の変哲のない挨拶。これが通じない人間など、まずいない。
そのはずなのに、三人の現地人はわかりやすく動揺し、顔を見合わせた。
「……アルメリア。ボク、何か変なこと言ったかな?」
「いえ、そんなはずは……」
訝しむ二人の前で、最も年長者らしき巨漢の男が前に出て、口を開いた。
「オウッオウッ! ブホッ! オ~ブオウッ! クルルッコゥッ!」
シックザールは思わず両手を上げた。「なるほど。全くわからない」
とりあえずこの世界の人間に会うことができれば何とかなると思っていただけに、言葉が通じなというのは厄介だった。そもそも、人間相手に言葉が通じないというのは初めてのことだった。
さて、どうしたものかとよそ見をした時、遠くの茂みが動いた気がした。しかしそれきり何も起きない。
なんだ、何かの見間違いかなと正面に顔を戻したとき、目の前にいた巨漢の男が吹っ飛んだ。正確には、大型の獣に吹き飛ばされていた。
「シックザール様!」アルメリアが彼の体を引き寄せ、大きく後ろに跳ぶ。
その場に立ち尽くす四人の目の前では、巨漢の男が、自分より一回りは大きい獣に踏みつけられ、ピクリとも動かなくなっていた。その獣は茶色くごわごわした毛並みに覆われ、四本の脚は太く逞しい。そして最も目を引いたのは、その上あごから突き出した、二本の巨大な牙だった。
「――は、初めて見たよ。これって確か、サーベルタイガーとかいう動物だっけ」
知識としては知っていたが、実際に初めて目にして、シックザールは軽く興奮していた。そしてようやく、アルメリアの手が自分に触れていないことに気付いた。
「きゃあっ」
「えっ? アルメリア!」
滅多に聞くことのないアルメリアの悲鳴が聞こえた。
振り返ると、どこからやってきたのか、そこには黄金色の毛並みを持つ手足の長い猿が三匹もいた。一匹一匹は人間の大人程の体格を持ち、それぞれがアルメリアの手足や胴体にしがみついていた。
慌てて駆け寄るシックザールを目の端に置いて、猿は驚くべき跳躍力で木の枝にまで飛び上がった。
「シッ――様――ッ!」
塞がれた口元からアルメリアの声が漏れる。彼女の抵抗も空しく、猿の長い腕に絡め取られたアルメリアは、あっという間にジャングルの奥地へ連れ去られてしまった。
「お、おい……嘘だろ!」
シックザールも力の限り追いかけたが、猿たちの跳躍力には敵わなかった。走っているうちに木の根に躓き、顔を上げた時には跡形もなく消え去っていた。
「ア……アウ、イア……」
気が付けば、横には現地人の二人がいた。二人は汗を流し、少女の方は目に涙を溜めていた。
その理由は明白だった。残された三人の背後には、あのサーベルタイガーが迫っていた。その爪には、赤い血がべったりと付着している。おそらく、最初に犠牲になった男のものだろう。そして今、残った三人を同じ運命に引きずり込もうとしている。
シックザールは完全に動揺していた。歯がカチカチとなり、再上映と呟くこともできない。
(……なんだよ! 今までだって、アルメリアがいなくてもどうにかしてきただろ!)
自分で自分を叱咤するが、あまりに目の前に切迫した危機を前に、思考が凍り付いていく。隣の二人も同じようで、三人の戦意はかき集めることもできないほどに消え去っていた。
グオウッ!
サーベルタイガーは大きく口を開くと、自慢の牙を見せつけながら飛び掛かってきた。狙いは、シックザールの首筋。その牙なら、首を貫通して大穴が開いてしまうことだろう。
シックザールは自分のその姿を想像してしまい、亀のように縮こまった。
グシュッ!
肉が一息に貫かれる音。シックザールは、とうとう自分が死んでしまったと確信した。
しかしそのはずが、なんともない。おそるおそる首筋を触ってみるが、穴などは開いておらず、自慢のすべすべとした肌の感触しか感じられない。
「ずいぶんと情けない姿だな、坊主」
三人の前には、一人の男が立っていた。
その男は一振りのサーベルを握っており、その刃はサーベルタイガーの口に入り、脳天から突き出していた。男は刃を抜き、獣の頭を鷲掴みすると横に放り投げた。百キログラムはあろうかというその巨体はぬいぐるみのように軽く飛ばされ、巨木に叩きつけられた。血をべったりと木の幹にこすりすけながら、ずりずりと落下していった。
「……なるほど。たまには人間ではなく、ああいう獣を相手にするのも面白いやもしれぬな」
男はオールバックの髪を撫でると、体中の貴金属をジャラジャラと鳴らしながら振り返った。
間違いない。この男は、かつて自分とアルメリアが死闘を繰り広げた相手。
“三日月の剣士”リュナがそこに立っていた。




