第4章 第1幕 黒稜院
雪の残る参道を上り、紅蓮が帰り着く。
山門前を掃いていた雷霆は、仏頂面で迎える。
紅蓮は山道の疲れも見せず、楽しげに笑う。
「法嶽め、わしの理が正しかった、などとあちこちで吹聴しておったものだから、今頃になって泡を食っておるようだ」
雷霆は箒を置き、睨みつけた。
「泡を食っておるのは、わしも同じだ。今さら、本山に戻って来るとは」
『本山は法嶽の理を認めていない。天衡僧正など論外だ』
紅蓮が外界でそう言い回っているせいで、問い合わせの幽蛉が連日送り込まれる。
今も一匹、目の前を音もなく横切った。
雷霆が煩わしげに手で払うと、幽蛉は霧のように消えた。
紅蓮は肩に下げた袋から瓢箪を取り出した。
「土産だ」
「まさか、酒か。おぬし、本山に何を持ち込むのだ」
「たまには付き合え。この程度のもの、修行の妨げにもなるまい」
開いた口が塞がらない。
半年前、黒稜院にふらりと戻って来て以来、紅蓮はやりたい放題だ。
雷霆はため息をつき、箒を手に取った。
「仕方ない。沙門にでも見られれば厄介だ。わしの房に行くか」
「そう来なくてはな」
紅蓮は足を崩し、荷を下ろした。
相変わらずの簡素な部屋を見回す。座布団さえ出されぬのに、妙に落ち着くから不思議だ。
豆の入った皿を受け取る。
「つまみか。気が利くではないか」
雷霆はどかりと座り、盃代わりの椀を二つ床に置いた。
紅蓮がなみなみと酒を注ぐ。
「酒など、何十年ぶりか。内を見つめ続けよと言う癖に、どんどんわしを理の外に出しおって」
文句を言いつつ、椀をあおる。
紅蓮は目を伏せて笑い、酒を注ぎ足した。
閻魔のもとを離れてから、各地の寺院を巡ってみた。
南を法嶽が押さえているのは周知だが、正理郷以北の導士たちは、比較的冷静だった。むしろ長年玄統と法嶽の争いを冷ややかに見ていた者たちは、南盟の燈都侵攻にあからさまに眉をひそめた。
燈都を思う。
不知火が離反し、戦場で王を名乗ったと聞く。
「痛快だのぅ」
「何がだ」
紅蓮は答えず、椀を傾ける。
雷霆に大導士を任ずるとの報せが届いたのは、燈都侵攻のすぐ後だった。以来、法嶽は天元への敵対を控えている。領土拡大が必ずしも得策ではないと、悟ったのであろう。導士連の機嫌を窺っているのは、明らかだ。
「そう言えば、導士連は界綴りの件、把握しておるのだろうか」
紅蓮が呟いた。
「おそらくな。南の動きを見れば、わかる。――残郷のことで苦しんでいる友というのは、どうなった」
思い出したように、雷霆が尋ねた。
「今は、それどころではないかもしれん」
天元の情勢は、外界に下りるたびに探っていた。今の脅威は南盟よりも、おそらく周辺小国だろう。四天王離反の噂を聞き、天元の衰えを見て攻め込んだ国があるようだ。すぐに退けられたが、牙を隠している国はほかにもある。
「まあ…あちらにはもう、わしは手を出せんが」
「南の王になると言って、出て来たのだったか。外界の導士には、自分は本山の代理だと名乗り、ここでは只の隠居だと沙門たちに嘯く。とんだ狸坊主だ」
雷霆は低く笑い、また一口酒を飲んだ。
短く息を吐く。
「――美味いな」
紅蓮は口元に笑みを浮かべ、椀を掲げた。




