第1章 第1幕 双蛾
朝日が山脈の岩壁を白く照らし、村の夜が静かにほどけていく。
目を開く。
異変は―――ない。
双蛾は体を起こすと、髪を束ね、戸口のそばに置かれた槍を手にした。
外へ出て、周囲をうかがう。
風。匂い。気配。
ひとつひとつを確かめる。
……大丈夫。今日も、いつも通りの平和な村だ。
腕を伸ばして深呼吸し、双蛾は井戸へ向かった。
槍を立てかけ、顔を洗う。冷たい水が心地よい。
空がだんだん明るくなる。
手拭いで顔を拭いていると、背後から可愛らしい足音が駆け寄ってきた。
双蛾の腰に、勢いよく抱き着く。
「だーれだ」
双蛾が微笑んで振り返る。
「星占、おはよう」
星占と呼ばれた少女は、にっこりと笑った。
ほんの一瞬、双蛾のさらに向こうを見るような目をしたのち、視線を戻す。
「ねぇ双蛾、今日会う人に付いて行くと、大変な目に合うよ」
笑顔の星占。
聞き返そうとしたとき、別の足音が近づいた。
村の最長老の老婆、神楽だった。
「おはよう、二人とも早起きだねぇ」
穏やかに微笑む神楽。
「おはよう、オババ」
声を合わせて言ったあと、双蛾は星占のほうへ顔を寄せた。
内緒話のように、いたずらっぽく囁きかける。
「星占、オババに付いて行くと、大変なことになるの?」
星占は双蛾を見つめ、不思議そうな顔をした。先ほど言ったことを、もう忘れているようだ。
「オババに?うーん…わかんない!」
また無邪気に笑うと、双蛾にぎゅっと抱き着く。
神楽が、広場のほうを杖で差し示した。
「子供たち、みんな起き出したよ。向こうで遊んでおいで」
はぁい、と朗らかに返事をし、星占は駆けて行った。
素直で明るい子だが、時々変わったことを言う星占。同年代の子供たちの中で少し浮いていることを、双蛾は知っていた。
心配しつつ目で追う。子供達の輪に入れたことを、見届ける。
ほっとして、神楽に向き直った。
神楽は、藁で編んだ小さな籠を差し出した。
「きのう、山菜がたくさん採れたんだ。あとで半太の家に届けてくれるかい?」
小籠を受け取りつつ、双蛾は眉をひそめる。
「…まだ具合が悪いの?」
「そうさねぇ…今年の風邪は、よくないみたいだ」
双蛾の顔が曇った。
半太の妻は、幼い息子を残し、二年前に亡くなっている。
(……医術も、ちゃんと学べたらいいのに)
双蛾は唇を噛んだ。
この村を守りたい――
その思いから、誰よりも熱心に勉学に励み、誰よりも懸命に鍛錬に打ち込んできた。
でも、まだまだだ。
村のために出来ることは、もっともっとある筈だ。
「…双蛾?」
神楽に呼びかけられ、我に返った。
双蛾は、微笑んで頷いた。
「わかった。あとで、見回りのついでに届けて来る」
その時だ。
急に風のにおいが変わった。
はっとして、周囲に神経を尖らせる。
目の前の神楽にも、広場で遊ぶ子供たちにも、変わりはない。
だが、双蛾の耳には確かに、ごく小さく、禽馬のいななきが聞こえた。
――何か来た。
「ごめん、オババ。やっぱり、あとで」
双蛾は小籠を神楽の手に押し戻すと、槍を手に取り、脱兎のごとく駆け出した。
小川を飛び越え、藪を駆け抜け、村の入口の林道を目指す。
この村は、「魔境」と呼ばれる無法地帯にほど近く、たびたび野盗団の標的となってきた。
何もない小さな村だが、魔境の連中は、容赦なく略奪を行う。
人の命を、何とも思わない。
だから、この村には親のない子が多い。神楽は、常に二、三人の幼子を、手元で育てている。
双蛾は、これまで何度も侵略者を追い払ってきた。
「野盗だったら、絶対に、村には入れない…!」
双蛾が走る。林道が近づく。
木々の葉越しに、二つの人影と二頭の禽馬が見えた。
(…武装してる。斬る!)
高台から飛び降りる。楢の太枝を蹴り、跳躍。上から槍を叩き込む。
ガキィン!
二人のうち大柄のほうが、剣の鞘で槍を受け止めた。
禽馬が驚き、羽毛を逆立ててキエェ!と高くいなないた。
双蛾はすぐさま身を翻し、間合いをとる。
大男は、剣を抜かずに鞘のまま掲げた。再度攻撃を受け流す気だ。
(…隙がない…だけど…)
侵略者特有のザラザラとした殺気が、感じられない。
違和感がある。
だが、何者かもわからぬ者を、村に通すわけには行かない。
大男を睨みつけ、双蛾が槍を構え直したときだ。
「待たれよ!」
もう一人の男が、大声で叫んだ。
そのまま跪く。
大男もそれに倣って跪き、剣を置いた。
双蛾が呆気に取られていると、奥の男がじっとこちらを見つめた。
その瞳の力強さに、束の間ひるむ。
「双蛾殿とお見受けする」
(…私を知ってる?)
双蛾は身構えた。
「わしらは、僧侶・紅蓮の進言で、そなたに会いに来たのだ。
まずは、長老の神楽殿にお目通り願いたい」
双蛾は警戒を解かず、構えた槍先だけをわずかに下ろした。
神楽の家は、川のそばの、日当たりのよい場所にある。
二間続きで広さはあるが、古く粗末な家だ。
書物だけは、書棚に入り切らぬほどある。昔、大国・天元の学都で学んだことがあるのだと、神楽は言っていた。
双蛾も、かつてこの家で育った。
今その部屋で、囲炉裏をはさみ、二人の男と向き合っている。
神楽の正面に座るのは、凛々しい面構えの無骨な男。
その少し後ろに、双蛾の槍を受け止めた髭面の大男が控えていた。
双蛾も、神楽から少し離れて座り、慎重に様子をうかがう。
「突然の訪問で、驚かせてすまない」
正面の男が頭を下げた。
「私は、閻魔と申す。北東の、暁の村の領主だ。こちらは、弁慶」
「暁の村、かい?
ああ、二年ほど前だったか…紅蓮がこの村に立ち寄ったとき、そういう村を手伝ってる、って言ってたねぇ」
神楽が穏やかに言うと、閻魔と名乗った男が頷いた。
紅蓮?先刻も耳にした名だ。
「オババ、紅蓮って誰?」
双蛾は小声で尋ねた。
神楽はわずかに双蛾のほうへ顔を向け、微笑んだ。
「昔馴染みの坊主だよ。たまーに、薬や砂糖を持って来てくれる。
ほれ…そこらの本も、あやつが勝手に置いてったもんだ。お前もよく読んでいたろう」
双蛾はチラリと書棚に目をやった。
兵法や呪術の指南書、魔獣の図説などが並ぶ一画。確かに、神楽の蔵書には似つかわしくない。
そういえば、神楽を訪問する老僧侶の姿を、何度か見かけたこともある。
閻魔が、姿勢を正した。
「ちょうど二年前のその時だろう、紅蓮はここで双蛾殿を見かけたそうだ。
禽馬を駆り、河原で弓の鍛錬に勤しんでいた。まだ若いが只者ではないと、一目でわかったと言っていた」
閻魔の目が、まっすぐに双蛾へ向く。
――またこの目だ。
急な賞賛も気恥ずかしく、双蛾はすっかり毒気を抜かれた。
閻魔は、両の拳を床についた。
「わけあって、わしらは今、打倒・天元を掲げている。
双蛾殿の力を貸してほしい」
「打倒・天元…!?」
双蛾は思わず息を呑んだ。
天元といえば、この村の北方、大陸随一といわれる大国だ。
無論、足を踏み入れたことはない。だが神楽の話や書物の情報から、豊かな国であることは知っている。
それを、打倒する…?
自分が、それに力を貸す…?
驚きを隠せず、神楽を見た。神楽は、穏やかな顔のままだった。
「双蛾、閻魔さんはこう言ってるよ。お前はどうしたい?」
神楽がすんなりと話を受け入れていることに、余計動揺する。
「オババ…ちょっと待って」
何がどうなって、こんな話が出てきたのか。
(天元を、打倒するような理由なんて、あるの…?)
外の世界で何が起きているのか、双蛾は知らない。
村を守りたくて、知識を伸ばし、技を磨いてきた。
だが、この村以外のことは、理解の外なのだ。
(…私には、知らないことが、たくさんある)
―――知りたい。
知ることが、守ることに繋がる気がした。
双蛾は閻魔へ向き直ると、静かに尋ねた。
「教えてください。外では今、何が起きているのか。あなた達は、何をしようとしているのか」
そして、自分は何をすべきなのか。
閻魔が力強く頷く。
「うむ。話せば長くなるが、聞いてくれ」
閻魔は、ゆっくりと口を開いた。




