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93 楓と慎吾

 楓は、何と話しかけてよいものか分からず、とにかく美味しいブレンドコーヒーをハンドドリップで淹れようと思った。しかし緊張のあまり手が震えてしまって、湯が何度も溢れてしまった。細口から飛び出す太い湯が何度も、コーヒー豆の膨らみを決壊させた。というのも、楓は湯を注ぎながら、彼の顔を何度も見ていたのである。

(どうしようどうしよう……!)

 普段のおよそ半分の時間で、ブレンドコーヒーは仕上がった。おそらく味がひどく薄くなったことだろう。そんなことを考えている余裕は今の楓には微塵もないのだった。楓はブレンドコーヒーのカップを握りしめて、ふらふらと頼りない足取りで、彼のもとへと歩いていった。

(な、なんか話しかけるべきなの……?)

 楓は、カチカチとカップの音を鳴らし、ブレンドコーヒーを溢しながらテーブルに置くと、彼の顔を見て、

「ブレンドコーヒーです!」

 と言った。


「あ、ありがとうございます……」

 彼は恐縮したように会釈をした。楓もどうにか話しかけないといけないと思って二度頷き、その場に立ち尽くしていたが、どうにも話題が思いつかないので、臍のあたりに両手を添えて、お辞儀をし、ぎこちなく踵を返して戻ってきた。

(自然に会話できるはずのシチュエーションだった……! それなのにわたしは……)

 楓が困っていると白髪のマスターがレコード室から出てきて、

「おっ、若者がいる……」

 と呟いて、のそのそと彼のもとへと歩いていった。

(マ、マスター……! だ、駄目。彼に近づいちゃ……)

 マスターに絡まれてもう来てくれなくなるなんてことがあるかもしれない、と思うと楓は真っ青になった。しかしすぐに考えを改めたのだった。

(いや、違う。マスターと一緒に近づいていけばいいんだ……)

 彼はマスターが隣の席に座ってきたことに驚愕している様子だった。マスターは両手を広げて、色々なことを話している。何を話しているのかは分からなかったが、楓は産まれたての子鹿のような足取りでふたりに接近していった。

「大学生か。そこの大学だろう……?」

「ええ。はい」

「ジャズが好きなのか」

「いえ、特には……」

「いや、いいんだ。それでいいんだよ。はじめのうちは好きとは言えないもんだ。まず最初はなんとなく好きなものを探す。好きなものが見つかったらとことん掘り下げる……」


「マ、マス、マスター……」

 と楓がマスターに話しかける。マスターは、えっと眉を上げて楓の顔を見る。

「わたしの……大学の……」

「おお、知り合いか!」

「知り合いというか、なんというか……来てくれたんです!」

「そうか。そうか。この子はよく働いてくれるよ。それに芸術のセンスもいい。最初に会った時、果たしてこの子にジャズがわかるか心配になったもんだが、すごいんだよ。この子は……」

 とマスターが楓のことを熱心に褒めるので、彼も「ええ、ええ」と恐縮しながら何度も頷く。


「それじゃふたりで話もあるだろうから、自分はちょっと離れるよ」

「い、いやいや! マスターいいんですよ。ここにいてくださいっ!」

 楓はマスターがいないと話が潤滑に進まないと思っていたので、大慌てで引き止めようとする。マスターは構わずにふらふらとレコード室に戻ってゆく。


 楓は、どうしようかとひどく困りながら(それは奇妙に悲愴感の漂う表情であったことだろう)、彼の隣の席に大振りの会釈をしながら、そのくせ、そっと椅子に座った。

「はじめまして……」

 と彼が言ったので、

「はじめてですかね……」

 と楓はぼそりと言って、悲しげに笑うと、いやいやそんな悲しげな様子ではまずい、と思い直し、とりあえずテーブルの端の手拭きを一枚取って彼に渡した。

「ありがとう……。学科はどこですか」

「史学科です」

「じゃあ歴史がお好きなんですね」

「そう……ですね」

「柿崎と申します」

 楓ははっとして柿崎慎吾の顔を見た。

「カキザキさん」

「君は……」

「胡麻楓です」

「ゴマさん……」

「楓です」

 楓は胡麻ではなく、楓と呼ばれたかったので、楓を強調しておいた。

「楓さん……」

 柿崎慎吾はその名前を呟き、深く頷くと、一瞬なにか引っかかっているような表情をしていたが、ちらりと楓の顔を見た。

「アルバイトは、もう長いんですか」

「そんなに……。一年……。あの柿崎さんはいつもどこにいますか」

「どこにというと……」

「大学では……」

「そうですね。空き時間には、図書館とか、あとは……ラウンジとか」

(もしお会いできたら……)

 と言いたいところなのだが、顔は真っ赤になり、頭は真っ白になり、楓は黙ってしまう。


「楓さんは……」

「食堂と……あとは……」

 楓がたどたどしくそこまで言った瞬間、店のドアが音を立てて開いて、三十代くらいの芸術家風の女性客が入ってきた。楓は立ち上がって「いらっしゃいませ」と言うと、慎吾の顔を名残惜しくちらりと見て、その場を離れた。

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