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89 のぞみ出現する

 吉田咲が中央広場から立ち去り、楓はあまり関心を持っていない考古学の授業を受けて、午前中の用事を終えた。校舎から飛び出した楓に冷たい風が横から吹きつけた。

(寒い……)

 楓は今もなお底知れぬ不安の中で生きている。楓は何度も何度も昨日の出来事、橋の上での彼との再会の情景を思い出しているのだが、あの時、彼が楓をどのように思ったのか、彼女は未だ判別できないでいるのだった。

 わたしは彼をお店に誘った、彼がこの先、ジャズ喫茶に来てくれなければ、わたしは恋愛を諦めなければいけない状況なのだ、そしてそうなればわたしの人生はお終いだ、と楓は幾分単純に物事を考えていた。

 楓はいつものことながら、昼休みの後の一時間半の空き時間を持て余していた。

 二階にあるラウンジの丸いテーブル席に座ると、壁一面がガラス張りの窓になっていて、白緑山の霧深き霊場を見上げつつ、自動販売機のコーヒーを飲むことが出来た。

 ブラジルとコロンビアのコーヒー豆を程よくブレンドしたコーヒーは紙コップ一杯に注がれており、ミルクと砂糖を大量に入れないと美味しく飲めないような代物だったが、味よりもシチュエーションにこだわりを持つ楓は満足していた。

(もし彼がお店に来てくれなければ、わたしはもう橋で待つこともできないだろう……)

 そう思うと楓はひどく悲しくなる。砂糖の味のするコーヒーを一口飲んで、ぼうっと美しい山の稜線を眺めていた。その窓から写真を撮る学生もいた。楓はすることもなくて、何気なしにスマートフォンを取り出すと、のぞみから連絡が入っていた。


『大学に着いた。わたしはゆく、あなたのもとへ。どこにいるの?』


 森永のぞみは妙な日本語を使うようになっていた。異様なテンションになっていることが想像できて、楓は戦慄した。それでも嘘はつけないと思って『ラウンジだよ〜』と返した。そして楓はスマートフォンを丸テーブルの上において、ふうっと疲れたため息を吐いた。

(のぞみは何かを掴んでんだ。わたしは何を掴んでいるの?)

 十分としないうちに森永のぞみがエレベーターから出現し、ラウンジの人々を避けながら、楓のもとに走ってきた。

(なんか、走ってきてる。元気だな……)

 楓は率直にそう思った。


「楓。わたし東京に行って色々なことを体験してきたよ」

 と爛々と光り輝く瞳で、のぞみは楓の顔を覗き込んだ。楓はなんと答えてよいものか分からず、ううっと返事をした。

「事件に巻き込まれたんだって……?」

「それもある。わたしは死にかけたんだよ。あの時、強盗犯に刺し殺されるようなことも十分にあり得たんだ。だけどね、楓、そのためにわたしは生と死の両面をいっぺんに見ることができた……」

「あ、ああ……へえ……」

 楓は、のぞみが何を言っているのかよく分からなくて頷くだけだった。


「わたしたちは霊魂を持って生きているじゃない?」

 とのぞみが当然の如く喋り出したので、楓は戸惑った。

「そ、そうなのかな……」

「その霊魂が体の中にあるでしょ。これが生きているってこと。つまり死ぬということは体から霊魂が抜け出ることじゃない? そしたらわたしたち自由になるよね。その時はじめて神とか仏の世界にいけるってもんじゃない?」

「ちょ、ちょっとわからないかな……それは」

「まあ、そんなものだと思うの。霊魂こそ日本の信仰であり、精神文化なんだよ。ところが仏教の経典には霊魂の記載はない。つまり仏教は無我を説いているから……」

 後になって考えてみるとのぞみのこの発言は正確なものではなかったが、のぞみの仏教解釈はこのようであった。(正確には霊魂ではないが、涅槃経の中に(アートマン)仏性(ぶっしょう)として肉体に存在しているとする記述がある)


「無我っていうのは「わたし」がないってことじゃん。そしたら霊魂っておかしいわけ。ここが仏教の教理と民俗の分岐点なんだと思う。だからわたしは教理と民俗は分裂して、矛盾し合い、二度と合わさることはないと思った。だから誰も仏教をひとつのものとして捉えられない。でも、日本には本当にさまざまな姿の信仰があって、それをひとまとめにできるものがあると思ったの、それが胎蔵界曼荼羅(たいぞうかいまんだら)の中央に()す宇宙仏の大日如来(だいにちにょらい)だと思うの……」

 おおっと楓は唸って頷いて見せた。もっとも何を言っているのか珍紛漢紛(ちんぷんかんぷん)だった。


「たとえば、わたしと楓がどんなに姿形が違っていても、大日如来のレベルだと何の違いもないわけ。わたしと楓が、霊魂が異なるとか、姿形が違うとか、感じ方が違うとかそんなものは、わたしたちのレベルで見れば違うというだけで、それは宇宙のレベルでいえば、一切がおんなじものなの」

 とのぞみが嬉々として語っているので、楓はもはや何と言ってよいのか分からず、うんうんと頷きながら、冷めたコーヒーを小さく啜っていた。


「でもね、わたしは悟りの境地に達して、大日如来のレベルで世界を知覚することだけが大切なんじゃなくてね……。そういう普遍的な真理、一切がひとまとまりの存在であるような世界を心のどこかで感じながらも、同時にいかに個人として存在できるか、だと思うんだ……」

 楓は本当にのぞみが何を言っているのか分からなかったので、飲み干した紙カップを黙って見つめているだけだった。

(この子、何の話をしている……?)

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