8 図書館の恋愛劇
すみません、先日、喫茶店にいらっしゃいましたよね、あの時、本を忘れて行きましたよね、ほら、あの歴史の本です、もう司書さんから受け取りましたか、あ、わたし、胡麻楓と申します、史学科の二年です、などという言葉が楓の脳裏に泡のように次々と浮き出てきてはいるのだが、楓は全身がこわばってしまい、そんな言葉を流暢に喋る自信はどこからも湧いてこなかった。青年の死角から、その背中を突き刺さるほど見つめているだけで精一杯だった。
(どうしよう……)
話しかけるなんて絶対に無理だ、そう思った楓は、青年のいるテーブルのまわりをぎこちなく一周した。
どこに座ろう、という表情を作りながら、楓は空いているテーブルの前をいくつも素通りし、たまにちらりと青年の横顔をうかがう。青年はイヤホンをしながら熱心にハードカバーの本を読み、ノートを取っている。こちらに気づいている様子はない。
楓はこうしていることがたまらなくなって、テーブル席から遠ざかると本棚と本棚の間に入り、そこからじっくりと青年を観察することにした。
(この時間、空き時間なんだ……)
今まで彼と遭遇しなかったのも無理はない。毎週この時間、楓はいつもニホンザルの講義を受けていたのである。それが今日はニホンザルが倒れたせいで、楓はまったく自由になってしまって、この奇妙な縁の力で、青年と再会することになったのだ。楓は運命を感じた。それは不謹慎といえば不謹慎な考えに違いなかった。
楓は、どうにかして青年に話しかけられないものかと思った。しかしそう思うと楓の胸は高鳴り、足はぎこちなくよろめいて、呼吸は乱れ、頭の中は真っ白になってしまった。
(焦ることはない。まだ焦ることはない。こうして図書館にいるところを見つけられただけでも、すごく前進しているんだ)
楓は、今という瞬間に命運がかかっているなどという考えは捨てることにした。それよりも恋愛は長期戦なんだ、と考えた。ここでこうして図書館で再会できたということが、確実に次へとつながってゆくのだ。
(でもヒントが欲しい)
青年はどんな名前なのか、どの学科なのか、学年は? なにか少しでも新しい情報が入ればいいのに、と楓はまじまじと本棚の間から青年を観察しながら思った。
青年は、イヤホンを外して、少し後ろに伸びをすると、左手の腕時計に視線を落とした。そしてノートを鞄にしまって、ハードカバーの本を手に取るとおもむろに立ち上がった。
(行ってしまう……!)
楓は、本棚から飛び出して、青年の方へと歩いていった。それは本能に突き動かされているみたいだった。しかし頭は真っ白になり、足を震え、世界がぐるりと回転してしまったように見えた。
(だ、駄目だ……!)
楓は青年のそばに近づきながらも、急激に方向を左に変えて、空いているテーブルに足をぶつけた。そして、うっとうめき声を漏らしながら、誤魔化すように椅子を音を立てて引き出し、そこにどかっと座って、青年に気づかれないように、顔を隠しながらぐったりと伏せてしまった。
(顔、上げられない……)
今の醜態を見られたかと思うと血がどっと顔を熱くした。いっそのこと、自分だと気づかれない方がいいと思った。どうにかしてこの状況から抜け出せないものかと悩んだ末に観念して、そっと顔を上げると青年の姿はもうなかった。
楓は羞恥心が消えるのと共に、青年が自分に気づかずに帰ってしまったことがひどく寂しく感じられた。
(わたしとあの人は何の関係もないんだ……!)
そう思うとひどく気持ちが沈んだ。楓は、青年ともう会えなくなるのではないかという不安がよぎって、テーブル席から立ち上がると、ふらふらとした足取りで階段に向かい、一階のロビーに降りていった。
青年は、まだそこにいた。カウンターの前に立つ後ろ姿があった。くすんだ赤っぽいシャツを着ていて、司書と会話をしている。先程のハードカバーの本を借りようとしているのだった。
楓は、再び胸がときめいて、彼を横目に通り過ぎると、図書館入り口の自動ドアの近くにあるチラシの棚に近づいて、そのうちの一枚を手に取るふりをした。
青年の気配を感じながら、チラシをひらひらと動かして、風になびかせる。相手が見えていない方が、気配を強く感じられるというものた。楓の胸がバクバクと音を立てている。くすぐったいような感覚が全身を包み、落ち着いていられなかった。
(やばい、やばい、やばい……)
そうしていると青年が近づいてくる足音が背後から聞こえてきた。それはカーペットの上を風が通り抜けているだけではないかと思うほど静かな音だった。楓は背中から伝わってくる気配に、柔道家に肩を揺すられているのではないかと思えるほど、勝手に背筋が動き出しそうになっていて、それを理性で抑え込んでどうにか立っているのだった。
楓はその時、耐えがたい衝動を覚えた。振り返ってみたくなったのだ。青年がどうしているか、気になった。自分をどう思っているのか、それが気になった。
楓は取り憑かれたようにくるりと振り向き、伏せていた目をそっと前に向けた。そこには自分を見つめている青年の目があった。ふたつの視線がぴたりと合わさった。青年の視線は一瞬、ぎこちなく揺れ、さっと横に動いて、何事もなかったかのように取り繕った。楓は凍りついた。彼はすました表情で、楓の前を通り過ぎると、図書館の自動ドアから外に出ていった。
(見ていた……!)
楓は弾かれたように脳裏に言葉が浮かんできた。
(彼はわたしを見ていた。なぜ、彼はわたしを見ていたのだろう……!)
楓は、青年の眼差しを何度も思い出した。そして彼が消えていった自動ドアとその先に見えているケヤキとヤマモモの大きな影を食い入るように見つめていたのだった。