9 恋愛至上主義
楓は、青年と視線が合ったことの意味を色々と考えながら、二限目の授業を受けることになった。
分厚いカーテンのしまった暗い講義室、高い天井から吊り下げられた巨大なスクリーンに映し出されている歌川広重の日本橋の浮世絵を見上げながら、楓は、念仏のように唱えられている教員の単調な声をずっと聞いていたが、その内容は、まったく頭に入ってこなかった。
「これは広重の代表作、東海道中五十三次の日本橋、朝の景という作品ですが……」
楓は、青年が自分のことに気づいていたことを思った。
(あの時、彼はわたしを意識していた。わたしも彼を意識していた。それはそれとして、わたしが彼を意識しているのは当然として、彼がわたしを意識していたのはどうしてだろう。つまり彼はわたしのことに気を取られていた。用が済んだのなら、そのまま入り口からまっすぐ出ていけばいいのに。でもそうしなかった。わたしの目を見ていたんだ。それだけじゃない。彼はわたしと目が合って、少しどきりとしたに違いない。それで視線が揺れて、誤魔化そうとして、前を向いたんだ。わたしのことを覚えていたから、それともわたしの気持ちに気づいたから?)
楓は、ペットボトルの蓋を取って、ミルクティーを飲む。いつもよりもミルクの匂いが強く、甘ったるい感じがした。
(もしかしたら、わたしを不審に思ったのかな)
そう思うと楓は急に憂鬱になってきた。というのも楓は、二階のテーブル席で、足をぶつけて、それを誤魔化そうとして伏せた。一階のロビーでチラシを見ている様子も不自然だったのかもしれない。思い返してみると自分の行動は側から見て、異様なものばかりだったように思える。
(でも、彼がわたしを不審なものとして見つめていただけなら、あんなに視線がぎこちなく揺れるはずがないんだ)
青年の視線が揺れたのは、精神的な動揺というものだ。彼は、たしかにその瞬間に心が乱れたのだ。それを楓ははっきりと直感していた。
(でも、まさか、彼がわたしのことを意識しているなんて考えすぎだよ。だって、わたしが彼と会ったのは一回しかない。昨日、ジャズ喫茶で……。わたしが彼に惹かれたように、あの時、彼もわたしに惹かれていたというのかな)
楓は興奮して、ふうとため息をついた。
楓は一人、恋愛の世界に没入していった。楓がああでもないこうでもないと考え込んでいるうちに、浮世絵の講義は終わってしまった。レポートに関する重要なお知らせをしていた気がするが、聞き流してしまった。
楓はもはや青年のことを将来の自分の亭主になる存在と疑わなかった。高揚した心地で、席から立ち上がると、その場を後にした。
昼の休み時間になるとそれまで、学舎にこもっていた生徒が一斉に外に出てくる。ぞろぞろと人の群れがオアシスを求めているように、食堂や、レストランに向かって歩き出し、外のベンチにはお弁当やらサンドイッチを持った生徒がすでに陣取りはじめていた。
(のぞみ、いるかな……)
のぞみも休み時間のはずだが、芸術学部の人々同士の付き合いもあるだろうし、校舎が異なるからこのあたりにはいないだろう。
楓と仲の良い、新撰組が好きな生徒が一人いるのだが、この日は午後にならないとこないのだった。
(一人か……)
楓は寂しさを感じながらも、あの青年の姿を探している。食堂を覗き込む。あの青年がいるかだけを確認するが、うじゃうじゃと溢れている人間の中にその姿を確認することはできなかった。
「俺、カツカレーにしたわ」
「美味そうじゃん。半分くれよ」
「やだよ。お前、じーぶんで買えよぉお。てか、何も買ってねぇじゃん。昼飯食わないの?」
「財布にあと三百円しか入ってないんだわ」
「やべぇーじゃん。えっ、どうすんのどうすんの」
「なんとかなるっしょ」
「ならねーだろー」
楓の耳に聞こえてくるのは、こんな知性のない男子生徒の戯れる声ばかりだった。こいつらとわたしの彼は品性からして違う。げらげらと笑い声が響いてきて、どういう訳か、カバンを置いて鬼ごっこを始めようとしていた。男性というヒエラルキーの中の下層階級がこいつらで、頂点に君臨しているのがわたしの彼なのだ。楓はしみじみとそう感じた。
(食堂から出よう……)
食堂から飛び出すと、歴史同好会の面々が、ちょうど平安時代の色鮮やかな十二単衣や、縄文時代のモダンな文様の衣服や、ナポレオンの仮装をしたまま、大学のメインロードを歩いているところだった。彼らはあの格好で、平常の授業を受けている。彼らの目的は、歴史的意識の復活であった。なんでも、この前は、教員免許の実習の授業に、あの格好で参加したということである。
大学は、思想のるつぼである。楓はそう考える。どんな異様な行動にも、意味がないといけない。楓はそう考えるのだ。
(わたしは……)
思想というものが突如、頭をもたげてきた。自分はどんな思想の持ち主だろう、と。その時、すぐに楓はある考えが浮かんで、たちまちその考えに呑み込まれてしまった。
(わ、わたしは、恋愛至上主義者だっ……!)
恋愛に生まれ、恋愛に生き、恋愛に死ぬ。恋愛のための恋愛。楓は、その考えに取りつかれると、半分残っているペットボトルのミルクティーを一口飲んだ。あっという間に吹き抜けてゆく感情。冬がたちまち裂けて、そこから春の息吹が伝わってきて、桜の花が咲いたような……。
(間違いない、わたしはあの人に恋をしている。そしてわたしは恋愛に生きようとしている……!)
楓はそう確信すると、込み上げてくる感情に、持っているペットボトルを思いきり、無限の青空に、あるいは大学のメインロードのあの仮装の一群に投げつけたくなった。




