82 橋の上
楓は期待を胸に、生徒の濁流と化した橋の上を全速力で走って行った。その人々の中にあの人がいるか目をこらして見つめたが、見つけることができない。楓はひどい焦燥感を抱いた。橋の歩道の隅にたどり着くと、ひたすら人の波に目をこらした。何度も何度もあの人が現れるのではないかという希望を抱いては、刹那刹那に裏切られていった。
人の波も絶えてきた。手提げ鞄を持った若い男性がひとり通り過ぎたのを最後に、楓はまたしても人通りのない橋の上に残された。
日が暮れてゆき、またしても赤い静寂の景色の中に自分が佇んでいることに楓は気付くのだった。
(今日も駄目だった……)
楓はそんな風に思った。
(こんな風にして、もうずっと会えないのかな……)
楓は、悲しくなって川に映る夕日の光を見つめた。それはすべて呑み込んでしまうほど静かだった。
楓があたりを見まわすと、橋の上を一台の車が走りすぎた。その物音が楓の耳には聞こえなかった。恋心の悲しさを物語るようにすべての景色が一度に色彩を失って感じられた。
(わたしはさっきまで恋愛至上主義なんて語っていたけど……)
すべてが遠のいて行くように感じた。そして瞼の奥に冷たいものを感じた。
(あの人と目が合ったのも単なる偶然なんだ……)
心が空っぽになってゆくようだった。手の感覚も、自分が立っている感覚も、すっかり失われてゆくようだった。
その時だった。楓ははっとして橋の先を見つめた。橋の先にあの人が立っていたのだ。あの時と同じ格好で、橋の歩道の先からこちらに向かってゆっくり歩いてくる。
(いた……)
楓は全身に緊張がみなぎった。楓は、彼の方を向いて立ち尽くした。
彼は楓を見るなり、はっとした様子で、思わず立ち止まった様子であったが、意を決したらしく、また歩き出した。
(なんて言えばいいのだろう……)
楓は震えた足で一歩、踏み出した。彼は楓の瞳を見つめながら、迫ってくる。ふたりはもう話しかけてよい位置まで近付いた。
(言葉が出ない……!)
喉が震えるあまり、楓は声が出なかった。彼の大きな瞳も楓の瞳の動揺を見つめていたが、ふたりの袖が振れそうな時、彼は視線を外して、楓の前を通り過ぎた。
(駄目だ……!)
楓がそう思った時、
「ジャズ喫茶の……」
と彼の声が響いた。
楓は稲妻に打たれたように振り返った。
「はいっ!」
「ジャズ喫茶の……店員さんですよね……」
楓は必死になって何度も頷いた。
「もしかして本を届けてくれたのも君ですか……?」
楓は微笑んで、大きく頷いた。
「ありがとうございます……」
彼はそう言うとお辞儀をして、楓にまた背中を向けて歩き出した。
「あ、あの!」
楓がそう呼びかけると彼は驚いた様子で振り返った。
「またお店に……」
楓はそこまでしか喉が震えて声を発することが出来なかったが、彼はにこりと笑って何も言わずに頷くと、背を向けてそのまま橋の先へと歩いていった。




