83 楓の気持ち
楓は自転車を全速力で飛ばし、山道の急なカーブを勢いよく曲がりながら、今にも大声で叫びたい思いだった。縁石がなければ歩道に飛び出していたことだろう。
(会えた……!)
彼はどう思っていたのだろう。いや、もはや楓は相手の気持ちなどどうでもよかった。自分が好きな人に会えたという喜びが、もはや彼女を一箇所にとどめておくことを許さなかった。
(会えたんだ……!)
ペダルを踏み込む足に力が入る。
楓は先程から同じ坂道を登ったり、降りたりしていた。それが徒労に感じられるほどの余裕など彼女にはなかった。湧き起こる感情によって力づいた足の相手をさせるには坂道は具合が良いのである。
紫色から紺色へと変色してゆく空、そこに向かって楓は向かっていこうとした。そしてガードレールに思いきり、自転車がぶつかると楓は全身が飛び上がるように車道に飛び降りて、そのまま山並みに向かって、うわああっと叫んだ。山並みは楓の気迫に押されて、引き下がったようにすら見えた。
(また会話できた……!)
そして楓は、闇に押し潰されてゆく山並みにまとわりつく赤い帯を眺めながら、感動のあまり、一雫の涙を流した。
「会えた!」
楓は叫んだ。誰もいないであろうあの山並みに向けて。
「わたし、会えたよ!」
そう言うと答えが返ってきそうな気がして……。
楓は自転車のサドルにまたがるとまた坂道を思いきり下っていった。住宅街をぬうように走り抜け、自動車のクラクションと運転手の怒鳴り声も耳に入らず、あっという間にモダンなアパートにたどり着いた。隣人の自転車にぶつけながら、自転車を飛び降りると、それを鍵もかけずに放置して、階段をどたどたと踏み鳴らして登り、玄関のドアを開けると、室内に飛び込んだ。
「のぞみっ!」
のぞみはすでに帰っているはずの時刻だった。それなのに楓が室内に飛び込んだその先に、のぞみの姿はどこにもなかった。
(いないの……)
この気持ちを真っ先に伝えたい相手が帰ってきていないことに不満を抱きながら、楓は部屋の隅に寝かされているくまのぬいぐるみを抱きかかえて、ベッドに背負い投げをした。そしてそのままぬいぐるみを抱きしめながら、古武術の関節技をかけていた。それに疲れると楓はぬいぐるみを離して、ばったりとベッドの上で大の字になった。
(よかった……。でも、彼は、またお店に来てくれるかな……)
楓の見上げる天井は異様に広々としているように見えた。そして自分がひどく小さくなってゆくように感じられた。そのうち大きさというものがまったく分からなくなってしまうのだった。自分がどこかわからないところに行ってしまって心だけがこの場所を漂っているようだった。
(もう来てくれないんじゃないか……)
楓はそんな不安がよぎった瞬間、またぬいぐるみを強く抱きしめた。
(くるよ……! 絶対に来てくれるよ!)
楓は心の中でそう叫んだ。その心の声は大きさのわからなくなった空間に呑み込まれてゆくようだった。




