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79 相馬の論理

「インド仏教においては、そもそも生と死とを並べた時に、生の連続の方を苦しみと捉えたのさ。だから輪廻転生の連続を断とうとした。生き続けることから解脱すること、それがつまり涅槃だったのさ。ところが日本仏教においては、輪廻転生はもっと前向きに捉えられていて、それは再生思想となったわけだ。それほどまでに日本人にとっては死こそがもっとも恐れられていた。今でも日本には死のケガレというものもあるし、死者の供養こそが信仰の主体になってくる……」

 そんなことを相馬は突然、喋り始めた。

「平安時代の祈祷仏教で病気を治癒したのは、死のケガレから離れるためさ。日本仏教は主に生の方向へ展開し始めた。ところで生命の主体である魂は、それそのものが罪業を抱えていて、容易に浮かばれることがない。そのため滅罪の経典である法華経がもっぱら信仰されたのだ……」

「はあ……」

 楓はなんと答えたら良いかよくわからない。


「それが、あの、どう関係が……」

「生と死、どちらが涅槃に近いか。それは死の方だ。それなのに日本仏教は生に固執している。胡麻はそれをどう思うかね」

「でも、それが日本人の心の自然なあり方なんです……」

「日本人の心の自然なあり方……」

「わたしたちはただ生きようと思って、死を恐れて、病を治癒しようと思って、神仏を信仰してきたんです。それが一番、日本人の心の自然なあり方に根ざしているんでしょう」

 と楓は、父親がよく語っていることをそのまま喋った。


「ところがだ。平安時代の浄土教は、死を美しく荘厳したものだ。来迎図(らいごうず)を見てみろ。雲にのって降りてくる阿弥陀仏と天人たちの姿を。あんなにも極楽浄土の気配をまとって美しく輝いているじゃないか……。あれは死後の世界だぞ。あれこそまさに日本人が本物の宗教に目覚めた瞬間なんだ……」

「はあ……」

 楓は、相馬の目になにが見えているのかよく分からなかった。


「でも、誰でも死ぬのは嫌なことです。たとえ死後の世界が美しくても、わたしたちは生きていかなきゃ……」

 楓がそう言うと相馬の目つきはあからさまに不快そうなものになった。

「なるほど。生命礼賛というわけだな。そういう倫理の教育を受けてきた現代っ子ってわけだな。それもいいだろう。しかしだな、よく聞きたまえ。胡麻。たとえば心をひとつ動かせば、自分の視点であるところの「主観」が生まれ、対象であるところの「客観」が生まれるよな」

「ええ」

「心を動かさなかったら、そもそも主客が分かれることはない。主観と客観が分かれること、ここに自我が生じる。心を動かすために人は自我を持つようになった。自我のために、欲望を持ったり、怒りや不安に苛まれたり、自らを尊大に思ったり、卑下したり、期待したり、期待に裏切られるようになった。これらが結局、苦しみの大元なのだ。つまり心を動かせば即苦しみが生じるというわけさ」

「そうかもしれませんね……」

「さて、心を動かさないとしたら、それはすなわち死の世界だ。感情を持たないとはそういうことさ。しかし仏教にとってはまさにそれが涅槃だったのだ。つまり、我々は生よりも死を礼賛しなければおかしいのさ……」

 そう言って相馬は、深いため息をついた。

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