78 成仏できないほどの罪
楓は空腹のまま昼休みが終わり、掛け軸の資料写真を撮影する授業を受けた後、自分のゼミの先生に聞きたいことがあったのをようやく思い出した。次の授業までに江戸時代の文化に関するレポートをまとめなければならなかった。ところがそれは彼女が恋愛の混迷に導かれてからというもの、まったく進んでいなかった。その相談をしたいと思っていた。
楓は、史学科の事務室へと向かい、事務員に尋ねると、先生が今、いないことを知ってひどくがっかりした。そして楓は行く当てもなくて、資料室のあたりを熊のようにうろついていると、テーブル席に座って、資料を貪るように読んでいる見慣れた男性を見かけた。
(仏教文学の相馬先生だ……)
楓は、相馬の仏教文学の授業を受けていた。楽な授業だと先輩から聞いていたが、いざ受けてみるとちんぷんかんぷんの内容の授業であった。それでもこの相馬という先生は、生徒と関わりを持つのを極端に嫌がって、ぶつぶつと呪文のようなことを言いながら、自分勝手に授業を進めてゆくばかりで、それで生徒も単位を落とすことがないのだから先輩の言うこともあながち間違ってはいなかった。
「相馬先生……」
「ん? 君は、胡麻さんか……」
相馬は分厚い本から視線を上げて、楓の顔を見ていた。
「何をお読みですか」
「十一面観世音神呪経だ……」
「はあ……」
楓は、尋ねておきながらなんと返していいか分からなくなった。ひどく気まずい空気が流れていた。楓は体を九十度転回して、会話の流れをあえて遮断し、気まずさを回避しようとした。しかしそれはかえって場を不自然にしてしまった。
「胡麻は、何を探しに来たんだ……」
「あ、いえ、わたしはゼミの辻先生を探しに来たんです」
「そうか。辻先生は今日は来てないと思うぞ」
「そうみたいですね。さっき事務室で聞きました」
「ふむ。胡麻は今、空き時間か」
「はい。でも先生いなくて困っちゃいました」
意外に相馬と会話が弾んだので、楓は相馬の前の席に座った。相馬はちらりと楓の顔を見たが、それほど鬱陶しくも思っていない様子で、十一面観世音神呪経の書籍をめくっている。
楓は、ロイヤルミルクティーのペットボトルを取り出すと一口飲んで、
「先生は十一面観音が好きなんですね」
と適当なことを言ってみた。
「まあ、日本の文化をみると、十一面観音信仰はきわめて重要だろうね。先生が個人的に好きということはないさ」
「それで十一面観世音神呪経を読んでいるんですか」
「まあ、仏教文学を研究しているからな……」
「白緑山寺の十一面観音……」
その言葉に相馬はじろりと楓を睨んだ。そしてふふっと微笑むと、
「どうした。見てきたのか」
と軽い口調で尋ねた。
「見てきました。わたしが見てきたその日に殺人事件が起こったみたいですね」
「そうか。物騒な話だ。しかし神仏っていうのははじめから生と死が隣り合わせのところにあるものだ」
「ニュースで見たんですけど、亡くなった女性は殺された後にあの観音堂に運ばれてきたみたいですね」
「………」
「それで「呪われた十一面観音」ってテレビで騒いでて……。でもきっと真相は逆だと思った。あの女性は誰かに山で殺された。それはそれで完結してるんです。ところが、その憐れな遺体を違う誰かがあの観音堂に運んだんです。十一面観音の呪力を信じる誰かが……十一面観音の呪力で、あの女性を供養して、成仏させるために……」
驚いた表情で相馬は楓の顔を見ていた。しかしこわばった笑顔を浮かべて、
「面白いことを考えたな。胡麻。ミステリー小説を書いたらいい。しかしだ。それならばかえってあの女性は救われたというわけだな」
と上擦った声で言った。
「えっ」
「つまるところ成仏できたからさ。つまるところ、あの女性は成仏できないほどの罪を抱えていたというわけだろう。それで、十一面観音の呪力によって成仏できたというのなら、それはそれで結構な話だ」
楓には、相馬の話が飛躍しているように感じられた。成仏できないほどの罪とは何のことだろう。
「さあ。わたしにはわかりませんけど……。ただ想像してみたんです。もしも犯人があの十一面観音を信仰していなければ、わざわざあの観音堂まで遺体を運ぶような手間はしないと思ったんです」
「それはそうかもな……。じゃあ、犯人は単なる強盗で、もうひとり親切な人物がいるのだな……」
「………」
楓は相馬の顔をもう一度見た。やはりどこか不自然に動揺しているように見えた。
(成仏できないほどの罪って何……?)
と楓は心の中で思いながら、ロイヤルミルクティーのペットボトルの蓋をもう一度外した。




