74 雷撃を受けた娘
「ところであのルームメイトの少女はどこへ行ったのだね」
「のぞみは今、東京だよ。仏像を見に行ったの」
と楓は答えた。胡麻博士は感心したように頷いた。勉強熱心だと思ったのだろう。
「今日はあの子に維摩経の無分別空について教えてあげようと思って来たのだが残念だ」
「ふたりで勝手にやってれば。わたしのいるところでそんな線香くさい話しないでよ……」
と楓は嫌そうにベッドに倒れ込む。
「線香くさくなんてないぞ。維摩居士と文殊菩薩の仏教論争のドラマティックなありさまは……」
そう言いながら胡麻博士は、棚の中にのぞみの金剛鈴が置かれているのを見て、唖然とした。
「なんだ、これは……」
「金剛杵でしょ」
「いや違う。金剛鈴だ……。それも平安時代のものと見える。どうしてこんなものがここに……」
胡麻博士は金剛鈴を手に取ると、金剛杵の横に並べた。そしてまじまじと見比べる。
「恐ろしいことだが、これも盗品だな……。白緑山寺から盗まれたものだろう」
「なんでそんなものがそこにあるんだろうね……」
楓はもう呆れてしまった。恐怖を通り越した感情である。
「つまるところ、すべてがつながっているのだ。こんな風にして盗まれた法具が舞い戻ってきて、そのおかげで観音堂で再び殺人事件が起きたのだ……」
「ああ、そう……」
「ドラマティックだと思わないかね」
「全然。わたしにはどうでもいい。だってわたしは今、それどころじゃないんだ……」
そう言って楓は頬を赤らめて鼻をひくひくさせる。それを見て、胡麻博士はピンときたのか驚いて娘の肩を掴んだ。
「雷撃を受けたのか……」
「えっ」
「いや、いいことだ。我が娘よ……」
胡麻博士はなにか動揺したように狼狽えながら立ち上がるが、足がふらふらする様子でまた座り込んだ。
「雷撃……」
「のぞみね。きっとあの子、可愛いからモテるんだよ。わたしと違って……」
と楓は言って拗ねた。
「突然何の話だ……」
胡麻博士は怯えた様子で娘の顔を見た。
「なんとなくそう思ってさ」
「ふん、なんとなくね……」
「ねえ、お父さんは恋って煩悩だと思う?」
「や、矢継ぎ早に何を言うんだ、我が娘……」
胡麻博士は怯えながら、体育座りをして窓際へと擦り寄った。干してあった洗濯物が落ちて、のぞみの桃色のブラジャーが胡麻博士の頭の上に乗ってしまった。
「恋はまさしく煩悩さ。悩みを煩うと書いて煩悩。しかし煩悩は煩悩のままに悟りの心でもあるのだ」
「なにそれ訳わかんない……」
「これは煩悩、あれは悟りの心と、一々分け隔てることなくそのままにそのものを知る心こそが悟りの心なのさ。つまり対立と対比を越えた本来の心のあり方のこと……。と言うことを教えに来たのだが、どうやらわしはどうも場違いらしい。それでは我が娘よ。上手くやれよ……」
そう言って胡麻博士は立ち上がるとのそのそとベランダへと出て行こうとする。
「待ってよ。上手くやれって、なにを……」
「それ以上、語らせるな。ええい。維摩の一黙、響き雷のごとし!」
そう言うと胡麻博士はのぞみのブラジャーを頭に乗せたまま、ベランダに飛び出して行った。




