75 胡麻零士の著書
胡麻博士が不審者さながらの様子で立ち去った後に、楓は父親が一冊の本を残していったことに気がついた。それは『維摩経の思想と民俗』(胡麻零士著)という本であった。楓はそれがのぞみに届けられるべきものであったことに気がついた。しかしそれが叶わずして、今こうして汚らしいカバーに包まれた本が楓のベッドの上に乗っているのだった。
(なんか恋が何とかって言ってたな……)
楓は、その汚れているカバーを外してしまうと、机の上にぽんと放り出して、本を開いた(つまりそれほどまでにカバーが汚れていた)。
『この世の諸相は、因果の合体によって事象のみ生じ滅する。そこに実体はない。それがゆえに金剛般若経には「夢幻泡影」という言葉が出てくるのである。この世のありとあらゆる現象がただ仮に生じて滅しているというのが仏教的な捉え方である。それでは維摩経において、迷妄の世界と悟りの世界が同一であると説かれているのはどういうわけか。迷妄の世界も悟りの世界も、本質的には「空」である点でまったく異ならないからである。このため、悟りの境地においては識別的な認識、すなわち二元的な捉え方が否定される。美と醜。善と悪。大と小。見るものと見られるもの。増えると減る。二元的にたいりつしたもの、そのいずれの境地も、実のところ本質が「空」であり「夢幻泡影のごときもの」という点においてはまったく異ならない。それが故に、仏教は対立や対比を超越した認識を持つことを悟りの境地と説くのである。すべてが「空」という本質で異ならないとするとこの世が、大きな一つの円であるという真理にたどり着く……』
「なんのこっちゃ……これ」
楓はまったく意味が理解できずにいた。父親の頭の中はまったく理解できない。
『ひとつの小さな石ころの中に、我々の住むこの世界が秘められている、というのは、空間の常識を超越した捉え方であるが、仏教においてはこの認識が可能である。というのは、空の認識において「大」と「小」は対比されることがない。また刹那に散りゆくものであるところの諸存在は「空」という共通性において、すべてが連関していて、分け隔てることができない。ゆえのこの世は一つの円なのである』
そこから東洋的な認識について述べられ、日本の民俗的なありようについて言及している。
『我々が自己というものを忘却して、大河の流れの中に身を任せ、自と他の意識の境界線が曖昧になるほどに共鳴し合い、創造に従事したならば、それこそ一つの社会の理想であるに相違ない。しかし、我々はそれを果たすことができない。人間が考えるのは常に自分のことだけだ。不安に怯え、感情的になり、ぶつかり合う。理想的な自己と他者の意識の共鳴を日常の生活様式の中でどのように創造し、見出してゆくべきか……』
「それでわたしの恋は……」
楓は肝心の問題が解決されていないことに気がついた。仏教は恋愛に対しては無力である、という持論をこの時、楓は持つようになった。
(でも、どうにかしてみせる……)
楓は明日が来るのが待ち遠しかった。




