48 相馬先生
その時、居酒屋風のラーメン屋の引き戸がガラガラと音を立てて開かれた。引き戸の先には三十代くらいの頰のこけた、いかにも神経質そうな顔つきの男が、ベージュのスーツ姿で立っていた。
「いらっしゃい。あっ、相馬先生……」
親父はその男を見て驚きつつ言った。
「お客さん。こちら、白緑山大学の相馬先生だよ」
と親父は囁くように胡麻博士に言った。
「相馬先生。わたしは存じておらぬ……」
と胡麻博士は困ったように笑った。
「味噌ラーメンを……」
と相馬先生と呼ばれたその男が親父に言ったので、胡麻博士はここぞとばかりに、自分の味噌ラーメンを指差して、
「もしよかったら、これを召し上がりますか。実はわたしはもうお腹一杯でして……」
と勧める。いきなり見知らぬ男に、麺を引っ張り出した状態の味噌ラーメンを勧められては、普通なら不気味に感じるか、馬鹿にされたと思って怒り出しそうなものだが、相馬はまじまじとその味噌ラーメンを見つめて、
「残りものには福があると言いますからね」
と納得したらしく、味噌ラーメンを受け取ることにしたようだった。
「そうだったんかい。気付かなくて申し訳なかったね……」
と親父は申し訳なそうに胡麻博士に微笑んだ。
「いいのかい。相馬先生。残りもので……」
「これもなにかの縁でしょう……」
そこで胡麻博士は挨拶のために立ち上がる。
「いえいえ……。申し遅れました。わたしは東京の天正院大学で仏教民俗学の教授をしている胡麻零士という者です……」
「胡麻零士先生……。これは、まさか、こんなところでそのような大先生にお会いできるとは……。申し遅れました。白緑山大学で仏教文学の研究をしている相馬と申します……」
そう言って相馬は、深々とお辞儀をすると、胡麻博士の隣の席に腰を下ろした。彼は、味噌ラーメンを受け取って、箸で麺をこねくりまわし始める。
「仏教文学の研究ですか……。主にどのようなものを……」
と胡麻博士が言うと、相馬は鬱々とした表情のまま、遠慮気味の口調で、
「あ、いえ、今昔物語など……」
と小さく呟いた後、味噌ラーメンの麺を引っ張り上げる。
「今昔物語ですか。なるほど。すると専門は平安時代……」
と胡麻博士が言いかけると、相馬は箸を置いて、胡麻博士の方に向き直る。
「わたしはずっと胡麻先生とお会いしたいと思っていたのですよ」
と幾分、突拍子もなく、相馬は勢いづけて言い放った。
「わたしに、ですか……」
「ええ。あなたに仏教思想のことをお尋ねしたかったのです。なにしろ、どんな僧侶に尋ねてもわからない問題でしたもので……」
「わたしに答えられるものならば……」
「阿弥陀仏とはなんでしょう」
「そのような簡単な質問をなぜ……」
「この質問が簡単でしょうか?」
「大無量寿経に説かれている如来ではないですか」
「それは答えたことにはならない……」
相馬は、胡麻博士を憎悪にまみれた目で睨みつけたので、胡麻博士はぎょっとした。この者は阿弥陀仏を忌み嫌っている、と胡麻博士は直感した。しかしその理由は分からなかった。
「お尋ねしますが、阿弥陀は、慈悲を象徴する仏でしょうか?」
「それはその通りです。阿弥陀はその慈悲のために、自分の名を一心に唱えた者は、たとえ悪人であっても、阿弥陀の仏国土、極楽浄土に往生させると説いたのです」
仏教文学の研究家に自分はなにを単純なことを説明しているのだろう、と胡麻博士は奇妙に思った。
「たとえ悪人であっても、というのは浄土宗や浄土真宗による新しい解釈でしょう」
「あなたは一体なにをそんなに矢継ぎ早に責めるような口調で……。それは法然上人や親鸞上人によって、阿弥陀仏の四十八願に秘められた慈悲の真意が、次第にあきらかにされたということでしょう。阿弥陀仏こそはまことに日本仏教の大慈悲を象徴する存在なのですぞ。それは仏教文学を研究しているあなたならよくお分かりでしょうに……」
なにがそんなに気に食わないものなのか、相馬は怒りに震えている様子。しかし相馬はふうとため息をついて、味噌ラーメンを一口、食べるといくらか落ち着いた様子だった。
「いえ、少し混乱しておりました。いえ、個人的な事情で、どうも浄土教は好きになれんのです」
胡麻博士は、そう言って、味噌ラーメンを夢中に食べる相馬を不思議そうに見つめた。
(一体、阿弥陀仏がなんだというのだ……)
相馬は、特定の宗派や信仰を忌み嫌うような神経質な人間なのだろうか、しかし食べかけの味噌ラーメンを文句ひとつ言わずに受け取ったところをみると、ひとかたならぬ器の人間でもあるようである。
 




