47 ラーメン屋
胡麻博士は、坂道の中途で、朽ちかけた地蔵菩薩像を見つけた。
(お地蔵さまか……)
胡麻博士は一対一の、この素朴な信仰こそ、本当の純粋な宗教だと思っている。それは信心という素朴な感情に基づいている。しかし宗教は教団化し、個人や集団の自我が絡んでくると、次第に教えを失って、権力化する危険性を常に秘めているのかもしれない。平安時代、伝教大師最澄が比叡山に、天台宗の法灯をともした。その天台宗の比叡山でさえ、僧兵の集まる武装勢力と化した歴史がある。最澄が法華経に求めたのは、平等の慈悲ではなかったのだろうか、と胡麻博士は考える。
(人の性か……)
このまま外にいても風が冷たいばかりなので、胡麻博士は、暗がりの坂道の中途でやっている居酒屋風のラーメン屋に入ることにした。いや、ラーメン屋風の居酒屋なのかもしれない。ラーメン屋ならば、こんな温泉街の坂の下でこんな時刻までやっているのはまことに不思議だが、居酒屋ならば理解できる。胡麻博士が引き戸を開けると、汚らしい昔ながらのラーメン屋で、カウンター席が並んでいて、白い鉢巻をした親父が煙草を一本咥えて、カウンターの中でのんびりと棚の上のテレビを見ている。
「へい、らっしゃい!」
「失礼します。もう店じまいですかな」
「いいや、いいよ。今日は誰も来ないから、もう閉めようかと思ってたところだけどね」
親父はそう笑うと何も言っていないのに、酒を用意しようとする。
「ビールでいいかい?」
「ええ。ちょっと酔わないとやっていられない気分でしてな」
「なにかあったのかい?」
「ちょっとね。掛け軸を破いてしまったのですよ」
「掛け軸を。よほど大切な掛け軸だったんだねぇ」
「達磨大師の掛け軸だったのですよ……」
親父は、眉をひそめると深く頷いた。ビールを胡麻博士の前に置く。達磨大師の掛け軸という言葉にはピンと来ていないらしい。
「そういうこともあるよ。でも、悪いことがあった後にはきっといいことがあるもんさ」
胡麻博士は、親父の言葉に癒されながら、ビールをぐいとあおる。
「お仕事はなにをしてるの?」
「仏教民俗学者をしております」
「学者さん。へえ、それじゃ、滝沢先生と同じだ」
「滝沢先生をご存知ですか……」
「そりゃ白緑山大学の先生で、うちにもよくラーメンを食べに来るからね。お仲間の先生を連れてね」
「あのお方は素晴らしい仏教歴史学者ですよねぇ。いえ、お会いしたいのですが、ご病気で入院されたらしいですな」
胡麻博士はしみじみと呟く。
「そうなのかい。それは心配だなぁ」
こう言いながら親父は、自分も焼酎らしいものを飲んでいる。
「わかった。ちょっと待っていてくれ……」
そう言って親父は、店の奥へと引っ込む。なにがあるのか胡麻博士には分からない。
(どうしたのか……)
胡麻博士は、棚の上に取り付けられた小さなテレビを見上げた。
(こんな気持ちの夜は、般若心経でも読みたい気分なのだが……)
胡麻博士の手元にそんなものはない。般若系の経典のエッセンスを短くまとめ上げた般若心経は、まさに空の思想の結晶というもので、日本の仏教思想のもっとも根本の部分が記されている大乗仏教の経典である。
胡麻博士が愛して止まない金剛般若経もまた、この般若系経典のひとつである。これは基本的な経典だが、とりわけ禅宗で重んじられている。
「色即是空か……」
すべてのありとあらゆる物質は、縁起によって生じたものにすぎない、という部分である。縁起とは因や縁といった原因によって生じることである。そう呟いても、胡麻博士の気持ちがおさまるわけではなかった。
「空即是色……」
縁起によって生じたものはそうしたあり方で、たしかに物質として存在している、という部分である。胡麻博士は、それならば結局、心は事物にとらわれてしまい、空であると説く意味がないじゃないか、という気持ちになった。
「わしは空だ、空だ、と言っておきながら、こうして現に心を乱しておる……」
胡麻博士は、涙が込み上げてきて、その途端「楓っ!」と小さく叫んで、ビールを飲み干した。
「あいよ。先生。これはサービスだよ。この味噌ラーメンを食べて、少しでも気持ちを紛らわしておくれよ」
と親父は言いながら、ほうとうの如くどろどろの濃厚味噌に麺を埋めた味噌ラーメンを胡麻博士の目の前に置いたのだった。
「こ、これは……。食べられません。食べられませんぞ。大将!」
親父は、胡麻博士に大将と呼ばれるだけあって、新薬師寺の十二神将、伐折羅大将に顔が似ている。
「はっはっは。あんたが食えなきゃ他の誰も食えないよ。気にするこたないって。遠慮せずに腹一杯食べてくれよ!」
すでに胡麻博士は腹一杯であった。しかし胡麻博士はやはり気まずさに耐えきれず、そのことを伝えられなかった。味噌ラーメンはすでに出来上がっており、自分が断れば、捨てられてしまうものに違いないから忍びなかったのである。
「ありがとうございます。いや、しかし、この味噌は実に濃厚だ。濃厚なる味噌の下に麺が埋まっている……」
「麺を引っ張り出すのも大変でしょ?」
そう言って親父は笑っている。
「おお、麺が出てきた……」
胡麻博士は一応嬉しそうな声を出したが、実際には右腕が筋肉痛になりそうなほど、麺が重たく感じられていて、心が穏やかではなかった。膨らんだ腹部には、巨大なゴムボールが入っているような感覚で、とてもここに味噌ラーメンを流し込める状況ではない。
「岩手県のすいとんと、山梨県のほうとうを参考にして、弾力のある歯応え十分の太麺を目指したんだよ……」
そう言って親父は嬉しそうに笑ったのだった。




