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46 暗がりの稲荷神社

 胡麻博士は、冷たい風の吹きすさぶ坂道をコートも羽織らずに下っていった。

 自分というものが情けなくなってくる。なんで、あの時、自分が達磨大師の掛け軸を破りました、と自分でご主人に言いに行こうとしなかったのか、人として間違ったことをしていると思っていても、その瞬間の気まずさに耐えられなかったのだ。

(それにしても冷たい風だ……)

 胡麻博士は、風呂の給湯器が壊れた日の入浴を思い出していた。冷たいタイル張りの床、冷水しか出ないシャワーを前にして、我慢して浴槽に浸かった夜のことを……。


(あの時と同じくらい寒い……)

 胡麻博士は、坂道を下る中途、山の奥へと石段が通じており、暗がりの中に街灯でぼんやりと照らされている古めかしい稲荷神社を見つけた。

(こんな時に稲荷神社に出会えるとは……)

 日本人の現代的な生活の中では、埋もれかけのこんな稲荷神社も、目の前にすると、不思議なオーラとなって問いかけてくる。

(神はいるのか? 霊魂はあるのか?)

 ふと胡麻博士はそんなことが気になった。

 周囲を包み込むような尋常ではない気配が、稲荷神社には漂っている。

(この感じはなんなのだ)

 神はいるのかいないのか、魂はあるのかないのか。


 胡麻博士が先ほどまで畳の上で語ったように、法相宗(ほっそうしゅう)の唯識の心がすべてを生み出しているのか。五感が、意識が、深層心が、事物をこんな風に染め上げて、存在を存在たらしめているのか。それとも三論宗(さんろんしゅう)の空の思想のようにすべては空であり、心すらも空なのか。そしてすべてのものが空であるということは、金剛般若経の語るように夢幻泡影のごとく、神仏もまた同じようなものなのか。しかし、こうして強烈なオーラを前にすると、そんなことはもうどうでもよくなってしまうのだった。

(日本人の心に深く根付いたなにかが、わたしに神仏の幻想を見せているのか…)


 稲荷などの神は、中間神霊と言われていて、供養などによって完全にはその魂が浄化されていないがゆえに、人格神としての強烈な個性をその内側に残しているとされる。それがゆえに祖霊を超える、強大な力を持つと信じられている。ここでは、仏教の慈悲の観念など通じるものではない。だから、日本人に根付いたこうした民間信仰というものは、そこに軽々しく触ることすら、火傷しそうにさえ思えてくるのほど、祟りと利益が隣り合わせで、存在がより尊いものなのである。


 胡麻博士は静かに頷くと、稲荷神社を参拝した。そして、さらにその坂道を下り始めた。

(どんなに高尚な教えも、民間信仰の土にまみれた美しさの前では、どこかに消えてしまう……)

 しかし祟りや天罰は恐ろしい。

 至上の慈悲をもつとされる仏もそうなのだ。日本人の精神生活の中では、やはりある時は守護神となり、祈祷を受けて、争いに利益(りやく)することもあった。また、ある時は呪術でもあって人を祟ることもあるのだ。それというのも、日本の自然そのものが持つ恵みと災いをもたらす二面性がその存在の根底にあるに違いない。魂があるにせよないにせよ、日本列島において、自然と心とが溶けあう中で、その幻想が生み出され、人々の深層心で共有され、守られているところのものは、たとえ(くう)であってもやはり実有(じつう)ではないか。そしてそういう目に見えないものをオーラとして感受できる心が日本人にある限りーーそれはつまり人の気持ち、芸術、宗教、そういう目に見えないものを感受する心ーー、日本の神仏は失われないだろうと、胡麻博士は信じているのである。

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