11 ホットココア
三限目の講義が終わると、楓は自転車を漕いで、アルバイト先のジャズ喫茶へと向かった。高台にあるジャズ喫茶までの道は延々と続く上り坂である。汗を垂らしながら登る方が青春らしいが、楓は電動自転車を使っているので、それほどの苦しみを感じなかった。
楓が到着すると、冬場には似合わない陽気なボサノバが流れていて、ジャズ喫茶のマスターは、煙草をぷかぷか吸いながら、カウンターの中にいた。楓が到着すると笑顔になって、楓が好きだといったセロニアス・モンクの「ソロ・オン・ヴォーグ」というソロピアノアルバムを流してくれた。
宝石が弾けるような綺麗な音が、どこかぎこちなく店内に響いていた。
楓は、ウエイトレスの格好になって、ぼんやりとしながら「あの人」が来るのを待っていた。
主婦らしい三人組が、入店してきてジャズを聴く様子もなくお喋りをしているのと毎日来る常連客の他は、目立った来客もなかった。
日が傾いてきて、楓はあの人が来ないことを考えはじめた。今日は昼間会えたからよかった。でも次会えるのはいつだろう。そのことを考えはじめると楓はわずかに不安になった。
あの人は自分の恋人だなんて思ったけれど、わたしはあの人のことをよく知らないし、あの人もわたしのことをよく知らないんだ。そう思うと楓は寂しくなった。
日没の時間になって、窓から差し込む光は赤くなった。店内は暗くなり、天井から吊るされた照明が星屑のようにあたりを包み込んでいった。楓は、どこか悲しげなブルースを吹いているフルートの曲が流れていることを恨めしく思った。
(わたしは今、不安なんだ……)
楓は仕事に集中することで寂しさを紛らわした。
窓の外に見えている、夕暮れに染まってゆく山並みは、ピアノの音色を呑み込んでしまうほど静寂を感じさせた。寂しそうに俯く楓に、マスターはホットココアをつくってくれた。楓はマスターに何を話したわけでもないのに、事情を察してくれているような気がした。カップに注がれたホットココアは温かくて、とびきり甘かった。
(そうだ、明日は……)
物語はまだ始まったばかりだ。
(見かけたら、少しでも話しかけてみよう)
楓はそう思って、飲み終えたマグカップをテーブルに置いたが、ジャズ喫茶の中でその音はかき消されてしまった。楓の舌にはしばらく甘さが残っていた。




