第三章 ユートピア
以前、宇宙は複数あって、我々人類が存在する宇宙はそのひとつでしかない、そんな話を聞いたことがある。私が迷い込んだ世界は別宇宙のひとつなのだろうか?そして宇宙が違えばそこには違う価値観が存在しているのだろうか?しかしまさか法定寿命が設定されている社会が存在するとは想像だにしなかった。高々インタビュー中に苦し紛れに思いついた案だ。それが実現しているとは…にわかには信じ難い話に感じてしまう。
ちなみに問題の定年は何歳かというと、これには規定があり、ベーシックインカムを除いた社会保障費(医療、介護等)が名目GDP比6%以下に抑えることが義務付けられている。これにより法定寿命は現在のところ八十三歳となっているそうだ。ただし、この年齢は将来予想される高齢者人口の増加により、今後引き下げられる予定だ。注意すべきは年金・生活保護・子育て給付等々はベーシックインカムで一括カバーされているため、それら制度はこの世界では存在しないということだ。
更にいろいろ調べた。ベーシックインカムにより最低限ではあるが生活基盤が整ったことで、雇用調整がし易くなっている。つまり正規社員であっても解雇するハードルは低い。いや、そもそも正規・非正規という考え方自体が存在しないのだ。そして注目すべきは天皇制だ。現在、この国に天皇は存在しない。先の大戦で戦争責任を問われ、それと同時に天皇制も廃止されていた。皇居は現在、戦争博物館になっているそうだ。
この世界は私の理想だ、まるで私の妄想で成り立っている世界のようだ。ただし私個人の状況を除けば、だが…そう、私を取り巻く状況はかなり厳しい。この世界へ迷い込んで数ヶ月、プロモーション活動するものの元の世界で売れたはずの曲は全く売れない。ライブを重ねても反応が悪い、とても悪い。いくら理想郷と言えどもこんな状況では精神的に消耗してしまう…
ある夜、その日も私は無意味なライブをしていた。対バンなので出番が終わったら他のバンド演奏を聴くため客席へと向かう。当然観客で私に声をかける者などひとりもいない。
「大変そうね…」
ふと顔をあげると気品のある一人の女が立っていた。この顔…どこかで会ったような…
「お久しぶり。」
「…えっ、あの時の?高級ソープのお姐さん?どうしてここに?」
「ふふっ、訳あってこっちの世界にやってきたの。」
「こっちの世界って、えぇっ、そんなことできるの?あなた何者?」
「それは、…内緒よ。あなたのこと、ちょっと気になってたの、あの日以来。」
女はいたずらな笑みを浮かべる。
「どう?別世界は。住み心地は?」
「いや、イイんだけどね…」
「イイんだけど?」
「…よく分からないんだ。お金はあるけど、不安な社会。貧乏だけど、そこそこ安定した社会。どっちがいいのか?まぁ、今となっては選択の余地は無いんだけどね、この貧乏生活…」
「もし元の世界に戻れるとすれば?」
「…出来るの?戻れるの?元の世界に!」
「えぇ、あなたが望めば。力になるわよ。」
私はすぐさま立ち上がるや否や彼女の両肩を力いっぱい掴んで揺すった。
「教えてくれっ、やっぱ元の世界がイイ。戻り方を教えてくれ。俺はここで腐っている訳にはいかないんだっ!」
私は脇目も振らず、必死だった。
「痛いから手を離して。…そう、分かったわ。じゃ、あなたが騒動に巻き込まれる前に戻れればいいのね?」
「うん、そう。…君、すごいなぁ。ホントあなた何者?って、聞かないほうがいいか。」
「そう、聞かないほうがいいわ。じゃ、話は早いほうがいいわ。ついて来て。」
どうやら女は使者らしい。私の思い描く理想郷が必ずしも自分自身の幸福には結びつかないことを納得させた上で私を連れ戻しに来た使者だ。果たして女を遣わせた者とは…、まぁいい。知らないことが幸せってこともある…
女は私を車に乗せ、夜の街を疾走した。そして…そして、二、三時間ほど経ったのだろうか。私は疲れからか助手席で眠ってしまっていた。
「…着いたわよ。」
女の声で目を開く。
「…ごめん。助手席で寝るって最低だよね。」
「いいわ、そんなこと。じゃ、降りて。」
どこかの山の中らしい。女の後をついていくと、四方を岩に覆われ、その内に井戸のような深い穴があるのが見える。
「この穴は元の世界とつながっているの。」
覗くと穴の先に明るい光が見える。この穴に飛び込むだけでいいらしい。
「じゃ、早速戻るよ。本当に感謝するよ、ありがとう。」
私は穴の入り口へ立ち、身構えた。
「ところでお姐さんはここに残るの?一緒に戻らないの?」
「私は戻らないわ。だって、元の世界はあなたがいなくなった後、国家財政が破綻して、お金は紙くず同然になってしまったから…」
「…!」
女は私の背中を目いっぱい押した。
「…騙したなっ、戻せ、俺を戻せっ、元の世界じゃなくて…」
急速に小さくなる女の顔に、かすかな笑みが見て取れた…
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「ハッ!」
気付くとボロアパートのベッドの上。夢…、悪夢だ。ここは…、ここはどの世界だ?急いで硬貨を探す。発行年が西暦だ、と言うことは…理想郷だ。元の世界では無い…よかった、のかな?
私は元の世界で会い、夢の中で騙された、あの女が在籍していた店のホームページを調べた。在籍表を見ると…いた、あの女は確かに在籍している。そして今夜出勤予定だ。もしかして何か知っているかもしれない。そうだ、会ってみよう、あの女に…
その夜、私は店の外で女が出てくるのを見張った。勿論客として入ればいいのだが、なにせ…お金が無い。待つこと小一時間、車の助手席に乗った彼女が現れた。どうやら近くの駅の方向だ。急げば間に合うかも知れない。
幸いなことに駅に着くと電車の遅延のアナウンスが流れていた。女は…、いた。地味な服装だがどうしても目立ってしまうのは、女から発するオーラみたいなもののせいか?動き出した電車に乗り込む彼女の後を追った。
女は高級店に勤めているとは思えないくらいのマイナーな駅で降りた。高級店で働いているからといって必ずしも稼ぎが良いとは限らないし、しかし彼女ほどの器量があれば客もそこそこ取れるハズだが…謎めいた女だ。益々興味が湧いてきた。
しばらく跡をつけていると人影のない静かな路地へと出た。私は周りに人がいないことを確認するとすぐさま女の横についた。
「あなた誰っ!」
「俺だよ、ほら、あの時の…」
「知らないわよ、あなたなんて…」
しかし急に女は私の腕を取り、私の胸に顔を寄せる。
「…あたし最近ストーカーにつけられてるみたいなの。恋人の振りをして…」
少し離れた場所で男の影が見えた。全く気が付かなかった。その影は我々二人の姿を確認するとどこかへ走って消えた。
「…やっぱり俺のこと知らないんだ。」
「えぇ、でも、あなた、悪い人じゃなさそう。」
ストーカーは去ったが我々は腕を組んだまま夜の街を歩いた。
しばらくの沈黙の後、女が切り出した。
「お礼しなきゃね。ホテル、入る?」
「いいよ、そんな気分じゃないし。あぁ、あそこのバーに入ろう。」
「えっ、アソコのバー(棒)?」
女が私の股間を指さす。私は思わず吹いてしまった。女の口からそんな下品なギャグが飛び出すとは思いもしなかった。しかし改めて彼女の顔を見ると、それまでの気品に溢れた印象とは違って、いたずら好きの少女のような可愛さを感じる。なんとも不思議な女だ。
店に入ると私はこれまでに身の回りで起きたこと、そして元の世界での女との出会いなど話した。
「へぇ~、あなた頭大丈夫?って言いたいところだけど…、ふふっ、まぁいいわ、信じてあげる。」
私は夢の中で女に騙され突き落とされた話もした。女は終始笑顔で私の話を聞いていた。
「…あたしは使者でも無ければ、あなたを騙すつもりも無いし、元の世界へ戻してあげることすら出来ないし、ゴメンね。」
「いや、いいんだよ。君が俺を知らない時点で諦めてたから…」
確かに残念な気持ちは大きかったが、他方ではスッキリしてもいた。この世界に来て、自分の話を誰かに話すことはこれまでなかった。しかもこれだけじっくり聞いてくれて、とてもうれしかった。
「…あたしねぇ、その内会社作ろうと思うの。」
「へぇ、女社長だ、カッコイイね。で、何の会社?」
「輸入雑貨の会社。規模は小さくてもいいから経営者になりたいの。だから今は事業資金を貯めてるとこ。あっ、今は起業しなきゃ損な時代よ。それに女社長なんて言い方、失礼よ。差別用語だわ。この世界では女が経営者なんて当たり前。あなた、まだ元の世界を引きずっているんじゃないの?ここはあなたのいた世界とは違うの。きっともっと住み良い世界よ。」
いろいろ女と話した後、お互いの成功を祈って別れた。彼女には夢を叶えて欲しいし、彼女ならそれが出来ると思う。しかし、果たして私には成功はあるのか…
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
私はいつしか音楽への情熱は消え、バイトをしながら孤独な生活をしていた。あの女以外、私の過去を誰かに話したことはない。話したところで信じてもらえず、呆れられるのは火を見るより明らかだ。
あれから何年経つだろうか…
この社会では元の世界に比べ高齢者に充てるお金が抑えられているので、その分、成長分野に多く投資できる。過去の負の遺産(=借金)にもメドが見えてきた。財政は健全化しつつある。一方で地方分権が進み、地方の裁量が大きくなった分、一部お金の使い方に失敗した自治体も見られる。失敗した地方からは増税、行政サービスの低下のため脱出者が後を絶たず、結果成功している自治体に人口が集中。二極化が進んでいる。しかし国全体から見れば人口が集中する分、社会インフラの投資、維持管理費が節約出来、良い結果を生み出しているようだ。
所得格差はあるが、自殺者は多くはない。ベーシックインカムのお蔭だろう。ただ老齢人口は今後数年内に一旦ピークアウトする見通しではあるものの、それまでは法定寿命は下げ止まらない。ちなみに一旦というのはその後に第二次ベビーブーマーのピークが控えているからだ。元の世界では第一次ベビーブーマーの社会保障費が問題になっていたが、もっと深刻なのは第二次ベビーブーマーのそれだ。一次の負担は主に二次が負うが、二次の主な担い手はいない。なぜなら第三次ベビーブームは起きなかったからだ。状況はこの世界でも似たようなもので、第二次の彼らの法定寿命は一体いくつになるのだろうか?ただこの世界は負担を次世代に求めないのでまだマシだが、元の世界では果たしてどうなるのだろうか?少なくとも私が元の世界にいた間にはそうした問題に警告を発するような話はほとんど聞かなかった。単に私の耳が悪かっただけなのか…
出生率は若干増えたが、未だ2.0には遠く及ばない。そこで数年前から出生率を上げるための議論が盛んになってきた。例えばこんな具合だ。
「恋愛感情が続くのはせいぜい三年だ。これは脳科学的に裏づけのある話であり、そしてこのことが種の繁栄にとって、とても重要な意味を持つ。種を繁栄させるには様々なパートナーが出会い、結果、たくさんの子孫を残す必要がある。つまり三年ごとにパートナーを変えることこそ種の存続を守る鍵なのである。さて、現在の婚姻制度はどうであろう。種を存続しようとする生物本来の本能に従うと確実に罰を受ける仕組みになっている。人類が自らの滅亡を願うのであればこの制度を存続することに異論は無いが、そうでなければ本来あるべき姿に変える必要がある…」
こんな意見もある。
「最近、男性の精子が弱っているそうだ。この問題の原因は現在の婚姻制度にある。パートナーの数が一人に限定されているために、弱い精子の男性でも他から強い精子が入り込むスキがないので妊娠させることが可能だからだ。本来淘汰されるべき弱い精子がゾンビのように生き残れば、世代を経て、いずれ妊娠できなくなるほど弱った精子が増える。そうなれば人類はアウトだ。それを防ぐには同時に複数の男性の精子を競争させる必要がある。強い精子のみ生き残るのだ。人類の繁栄を望むのであれば不倫を合法化する必要があるし、そうなれば人類の未来は明るいものとなるであろう…」
どちらも正論に聞こえる。その昔に行われていた風習、夜這い婚の一種に近いのかも知れない。実際にこれらの案が採用されるかどうかは不明だが、少なくとも現在の婚姻制度を見直さない限り、出生率の大幅な向上を望むのは難しいようだ。
「出生率が低いのは現在の婚姻制度自体に問題があるためだ。現在の婚姻制度とは勿論一夫一妻制だ。この制度の欠陥はパートナーを一人しか選べないという点にある。よく考えてみよう。候補となるパートナーの数は理論上、異性の人口の数だけいることになる。国内で限っても人口一億人の国ならば、その約半数の五千万人もの多くの人数が結婚相手の候補となるのだ。であるのにも関わらず、現在の制度に則ればこの五千万人から一人に絞らなくてはならない。言い換えると五千万分の一の確率で正解を選ばなければならないことになる。
これはもう宝くじの一等当選確率さえ超えている。もし不正解、つまり婚姻が失敗だったと分かった場合、それ以降、子供が生まれることが期待できるであろうか?どうだろう?もっとチャンスを与えようではないか。AがダメならB。BがダメならC…、そう、人間誰しも間違いはある。パートナー選びをもっと柔軟に行うことはできないだろうか?」
この提案に対し、幾つかの婚姻制度見直しの案が検討された。
・見直し案[其の一]
基本的に一夫一妻制ではあるが、子供が出来るまでは浮気をしても不貞行為とは認めず、浮気をされた側には慰謝料請求の権利は発生しない。一方が別れる意思を示せば、他方はそれを無条件で認めなければならない。つまり相思相愛で無くなった時点で婚姻関係は法的に解消される。子供が生まれるまでという条件付きではあるが、パートナー選びが柔軟になることが予想される。
・見直し案[其の二]
婚姻制度自体を廃止し、事実上の自由恋愛状態にする。そもそも人間は有性生殖なのだ。これは様々な個体が交わり、結果、子孫に多様性を持たせる目的がある。環境が激変しても多様性を持った種ならば、その変化を乗り越えるチャンスも多くなる。そう考えれば現在の婚姻制度がいかに合理的でないかは明らかである。ちなみに生まれてくる子供の扱いについては、子供は社会の宝であり、社会が子供を育てるという理念の下、全ての子供は公的な施設に入所し、国、あるいは地方公共団体の責任で育てる。どうしても育児がしたいという人は保育員になればよい。子育てによる経済的、精神的負担が無くなり、自由に恋愛できることから間違いなく出生率アップになるだろう。しかも子育てが施設で行われることで幼児虐待が無くなり、何より子供間の経済的格差もない。大人だけでなく、子供にとっても大きなメリットがある。
見直し案其の一は一部地域限定で社会実験として実行するかどうかの議論に入った。しかし「デキ婚」が普通になってしまった現在ではその効果を疑問視する声も強い。そのため、外国の婚姻制度「パックス」を推す声が広がりつつある。其の二については、この政策が失敗した場合のリスクが大き過ぎるため、つまり施設の大勢の子供の面倒を誰が見るのか等といった問題のため進展していない。
このように、この世界では当然社会的問題は存在するが、時代の変化に対応し、古い価値観は排除し、合理的に解を導こうと模索している。そしてその結果、全体的には上手くいっているように見える、少なくとも元の世界よりは…