実は独立勢力?田楷考察
推測9割。
公孫瓚配下の劉備考察でもありますが、主役は田楷。
公孫瓚考察用、191年~193年青州黄巾と公孫瓚と邪魔する袁紹。の考察を引用しています。
本作品はカクヨムにも転載しております。
【田楷】
【公孫瓚】配下。【青州刺史】。
記録自体は本当に少ないし、デマもあるぐらい。
考察していきます。推測9割。
公孫瓚考察用、191年~193年青州黄巾と公孫瓚と邪魔する袁紹。
5.【公孫瓚】進軍
5.5【田楷】青州に鎮座する、【劉備】協力する
から考察を引っ張ります。
5.【公孫瓚】進軍
【公孫瓚】が 冀州に【厳綱】青州に【田楷】兗州に【単経】を派遣した。
目的は【青州黄巾】を討伐するため。
【劉虞】の威光と【公孫瓚】の東光での戦果のおかげで各地勢力が信用して配置を許す。
以上。
え??三州刺史は??と言われるが、
三国志公孫瓚伝だと
以嚴綱為冀州,田楷為青州,單經為兗州,置諸郡縣。
【刺史】と明記していない。
【程昱】伝より、【公孫瓚】は【范方】を【劉岱】の援軍として派遣し、【袁紹】の妻子を引き渡すように迫ったと言う記録
【劉岱】と言う兗州刺史がいるのに、態々【単径】を刺史に任命して、その上で【劉岱】に援軍を送る??協力関係にある刺史と対立する両立はおかしくないか??
と言う事より、三人は各地方の指揮官として派遣されたとだけ記載する。
ただし、【田楷】に関しては【劉備】と共に徐州救援に向かう際、明確に【青州刺史】とあるため、在任中に【青州刺史】【焦和】の死去から【青州刺史】を称したと思われる。
逆に【厳綱】【単経】影薄すぎん??
と言う事で。
【公孫瓚】が青州黄巾討伐のために青州に派遣した武将が【田楷】です。
青州黄巾討伐と言う事で、青州は本拠地。一番力を入れている場所でしょう。
先主伝から確認しましょう。
三国志蜀先主伝
為賊所破,往奔中郎將公孫瓚,瓚表為別部司馬,使與青州刺史田楷以拒冀州牧袁紹,數有戰功,試守平原令,後領平原相。
賊に敗れると、中郎将【公孫瓚】のもとへ逃れた。【公孫瓚】は【劉備】を別部司馬として上表し、青州刺史【田楷】とともに冀州牧【袁紹】を防がせた。幾度か戦功を立て、試みに平原令を守り、その後、平原相を領した。
【劉備】が【田楷】と共に戦っている事が記載されています。
ここで【袁紹】と戦ったとありますが、正直、どうでもいいです。この地点で戦っているかどうかすら定かではないです。
【青州刺史】【田楷】
青州に力を入れた理由は青州黄巾の本拠であること。
【焦和】について『九州春秋』が描くのは、
焦和 → 黄巾の拡大 → 青州の荒廃
焦和が反董卓同盟軍とともに京畿へ向かったため、青州の防衛を十分に行えなかった事、黄巾によって州が荒廃した事が記されている。
そして、
「而耳目偵邏不設」「恐動之言妄至,望寇奔走,未甞接風塵交旗鼓也。」
偵察・情報収集の体制が整っていなかった。敵が来るという噂に恐れて逃げ、実際に敵と接戦することすらなかった。とある。
更に怪しくなっていく。
「欲作陷冰丸沈河,令賊不得渡」「祷祈群神,求用兵必利」「蓍筮常陳於前,巫祝不去於側」「入見其清談干云,出則渾亂,命不可知。」
「河に沈めれば賊を渡れなくするという『陷冰丸』を作ろうとした」「神々に祈り」「占筮や巫祝を常にそばに置いた」
そして、
「入見其清談干云,出則渾亂,命不可知。」
「室内では、その清談は雲にまで届くほどだった。しかし外に出れば、すっかり混乱しており、どんな命令を出すのかも分からない。」
という、かなり悪意のある人物評。
口では大きなことを言うが、外に出ると軍事指揮は混乱している
「州遂蕭條,悉為丘墟也。」
「州はついに荒廃し、ことごとく廃墟となった。」
そして、袁紹伝。
頃之,和病卒。とあるので程無くして病死する。
【袁紹】は【臧洪】を【青州刺史】として2年間慰撫させたとあるが、
【九州春秋】「譚始至青州,為都督,未為刺史,後太祖拜為刺史。**其土自河而西,蓋不過平原而已」
後に【袁譚】が【青州都督】刺史になる前の支配域が【平原】の西からしかなかったと言っている。正直、狭くね??
故に、【焦和】死後。
【田楷】と【臧洪】。二人が【青州刺史】を名乗るようになったのではないか。
【田楷】は北海相【孔融】らの推挙もあったのではないのだろうか。
【孔融】らからしたら大事な【青州黄巾】から身を守るための戦力。推戴したと推測する。
192or3年。【劉備】は使者の【太史慈】によって、【管亥】率いる黄巾軍に包囲された【孔融】の救援に向かう。精兵3000とあるが、これがすべて【劉備】の兵士だったのだろうか。これがわからない。【田楷】が絡んでいる可能性も否定できない。
これは明確に黄巾残党相手の戦いである。【袁紹】関係ねーよ。
そして、徐州救援。
相手は【曹操】であるが兵士の何割かは【青州兵】であろう。
青州黄巾が【曹操】に吸収された姿。
私はこう考える
【陶謙】は【曹操】が来たぞと言ったのではない。【青州黄巾】が攻めてきたぞと言ったのではないだろうか。
そもそも青州にいる【田楷】が徐州救援に行った理由ってなんだ?主君公孫瓚とは陸続きが無くなっている頃合い。
青州で孤立していると言ってもいい。
そんな【田楷】が戦線伸ばす理由があるか??
逆に行きたくなる理由を作ればいい。それが【青州黄巾】だ。
【田楷】は救援に向かうが横槍が入る。結果、軍を二分する。
もう一つの軍、それが【劉備】だった。
ここで【劉備】と【田楷】は別れる。
横槍は想像だが、資料は存在する。後述。
この時、【劉備】【趙雲】【田豫】がそれぞれ別れている。
趙雲は故郷の兄の弔いのためとあるが考えない。
ここで辺鄙な説があるのが【田豫】だ。
信憑性のかけらもない説に【田豫】は【田楷】の従兄弟とする資料が存在するらしい。
元大徳九路本十七史。元時代に作られた三国志だがあまりに信憑性ががが。
【劉備】の家族書いてたりする書物ですね。ネット上のおもちゃ。
だけど、【田豫】が別れるこれ以上ない理由にもなる。総大将が一族ならば。
【田豫】の漁陽田氏はその後も宋皇帝【劉裕】配下の【田演】と言う人物がいることから、【田楷】【田豫】が地方名士で【公孫瓚】に入れ込んでいた可能性は捨てきれないが夢物語。
徐州救援時、青州に戻る理由。それが【袁譚】の攻撃だった。
後漢書公孫瓚伝より
「紹復遣兵數萬與揩連戰二年」
【袁紹】が数万の兵を【田楷】に差し向け、二年間連戦した。
「紹乃遣子譚為青州刺史,揩與戰,敗退還。」
【袁紹】が【袁譚】を青州刺史として送り、【田楷】と戦わせ、【田楷】が敗退した。
敗走時期に関しては同じく追い出された【孔融】から年代比定したい。
後漢書孔融伝より「建安元年,為袁譚所攻,自春至夏」
196年春から夏に至って【袁譚】から攻撃を受けて、【曹操】の下へと逃げている。
数カ月の誤差はあるかもしれないが、それに似た時期に【田楷】も敗走したと見る。
徐州救援直後に攻撃されて対応したのならば2年もギリギリ成立するし、劉備と軍を分ける理由にもなるかなと。
推測だらけ。
そして、敗走した【田楷】は易京に籠り、戦死する。
そして最後に。
【田楷】って半独立だった??
確かに、【公孫瓚】は幽州。【袁紹】と戦った結果、冀州は袁紹の手に落ちて、連絡網が遮断されている。
一方、【田楷】は地方勢力に推戴されて刺史になったと推測する人間。【袁紹】は【田楷】を独立勢力だと見做し、193年の【公孫瓚】との和睦を無視して攻めたのではないだろう。
【田楷】は【田楷】で徐州救援は【公孫瓚】の指示だと出るまでに時間がかかる事も考えると【田楷】の独断で動いていないだろうか。
つまり、【田楷】は半独立状態で青州にいたのではないだろうか。
だから徐州救援も出来たし、袁譚とも戦う。
ただ、その第一目的が青州黄巾討伐だったと言うのを忘れたくないのよね。
【公孫瓚】の野望??寝言はいらんのよ。
そうすれば【陶謙】救援も青州黄巾討伐と曲解できなくもない。
うん。9割推測。




