↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

公孫瓚考察用、191年~193年青州黄巾と公孫瓚と邪魔する袁紹。

作者: 田子 泰
掲載日:2026/09/16

史書が意味不明すぎるので断捨離します。


推測8割??まず公孫瓚の野望を捨てましょう。袁紹の謀略を捨てましょう。

そこから入ります。ええ。


本作品はカクヨムにも転載しております。

191年から193年の公孫瓚袁紹に関して、AIが無茶苦茶言いまくるので書きます。

正直、史書も無茶苦茶すぎて信用ならないので整理してみます。

史実通り??知るか。と言うか大半捨てます。



1.袁紹の冀州牧就任

2.陽城の戦い【公孫越】戦死

3.渤海太守【公孫範】

4.東光の戦い【公孫瓚】対【青州黄巾】初平二年(191年)

5.【公孫瓚】進軍

5.5【田楷】青州に鎮座する、【劉備】協力する

6.界橋の戦い

7.故安籠城、巨馬水の戦い

8.龍湊の戦い

9.【趙岐】の調停、【袁紹】【公孫瓚】和睦(193年初/正月)



1.袁紹の冀州牧就任(191年)

〇袁紹は韓馥から冀州牧を譲られた。

以上。


え?考察??史実文書すべて捨てるよ。


まず、三国志袁紹伝の記載より。

與兾州牧韓馥立幽州牧劉虞為帝,遣使奉章詣虞,虞不敢受。

――中略――

後馥軍安平,為公孫瓚所敗。

瓚遂引兵入兾州,以討卓為名,內欲襲馥。

馥懷不自安。

※英雄記は参照しない。

袁紹は冀州牧【韓馥】とともに、幽州牧【劉虞】を皇帝に立てようとしたが、【劉虞】は受けなかった。

――中略――

その後、【韓馥】の軍が安平で【公孫瓚】に敗れた。

公孫瓚は【董卓】打倒を目的として冀州に入った。内心では【韓馥】を襲おうとしていた。

【韓馥】は報復を恐れた。


この文章なんやねん。

意味が分からなさすぎる。

全文捨てていい??と言うか捨てろ。


A.【韓馥】軍は何故安平で【公孫瓚】と戦ったのか?

B.そもそも【公孫瓚】は反董卓連合に参加したのか、そもそも袁紹たちの反董卓連合は消極的で兵糧難を理由に既に崩壊済みである。

C.公孫瓚伝では【公孫瓚】は【劉虞】の節度によって運用されており、【公孫瓚】に強い独断専行権はない。――詔令公孫瓚討烏桓,受虞節度――


必要な事は【袁紹】は【韓馥】から【冀州牧】を譲られた。それが脅迫まがいかどうかは知らない。以上。



2.陽城の戦い【公孫越】戦死

【袁術】の下にいる従弟【公孫越】が豫州にて【孫堅】の援軍の最中戦死する。

以上。


時系列的にはここかどうかはどうでもよくて、

本作においては「拾ってほしくない」からここに置く。


結果【公孫瓚】は【袁紹】を恨むようになる


この因果いらん。捨てろ。明確に邪魔。

【袁紹】と【公孫瓚】が仲が悪くなる原因ではあるが、情報の伝達がそんなに早いとは思わないし、次の話よりも数カ月後に起きていると見ている。

正直、時系列としては5.公孫瓚進軍以降だと思ってる。

因果はあるが、作用する因果が違うと推測する。



3.渤海太守【公孫範】

〇【袁紹】は【公孫範】に渤海太守の印綬を渡した。


2より先に起きていると見る事件。

見たい所はそれだけ。

【公孫越】戦死より早い時期に起きていると推測する。


三国志・後漢書公孫瓚伝

紹懼,乃以所佩勃海太守印綬授瓚從弟範

【袁紹】は【公孫瓚】を恐れて渤海太守印綬を【公孫範】に渡した。


うん、帰れ。

袁紹伝には冀州牧就任後に記載が無く、何が起きたかわからない。


ただ、【公孫範】が就任した事に意味はあると思ったので次の話に進む。



4.東光の戦い【公孫瓚】対【青州黄巾】初平二年(191年)

一番大事な戦い。

【渤海】郡東光県にて【公孫瓚】が【公孫範】と共に戦い、大勝した戦い。


青、徐黃巾三十萬眾入勃海界,欲與黑山合。瓚率步騎二萬人,逆擊於東光南,大破之。


青州黄巾30万が渤海に進んできた。目的は黒山賊と合流するため。

【公孫瓚】【公孫範】は2万の歩兵騎兵で迎え撃つ。


その結果、3万の首級を上げ、更に敗走する敵を追撃して7万を捕虜にしたと言う。大勝利である。


【公孫瓚】すげー!!

全力でそう思う。おう、褒めてやってくれ。


当時の戦争について戦果10倍申告と言うのもあるが、それでも不利だった事は事実。

素直に称賛してくれ。



〇ここの問題は史書の時系列の問題もある。


『三国志・公孫瓚伝』の順序を見ると、


A.【公孫越】が戦死

B.【公孫瓚】が【袁紹】に怒って磐河へ出兵

C.【袁紹】が恐れる

D.【袁紹】が【公孫範】に渤海太守印綬を授ける

E.【公孫範】が渤海兵を率いて【公孫瓚】を助ける

F.「破青、徐黄巾」←東光の戦い

G.【公孫瓚】が界橋へ進軍


後漢書公孫瓚伝

a.青徐黄巾が渤海へ侵入

F.【公孫瓚】東光南で黄巾を撃破←東光の戦い

c.【公孫瓚】威名大震【奮武将軍】【薊侯】

A.【公孫越】戦死

B.【公孫瓚】【袁紹】に怒り磐河へ

C.【袁紹】が恐れる

D.【袁紹】【公孫範】に渤海太守印綬を授与

E.【公孫範】渤海兵を率いて【公孫瓚】を援助

G.【公孫瓚】界橋へ進軍


となっている。

うん。後漢書【袁紹】、間抜けじゃね??

敵に援軍渡しちゃってるし。



と言う事で時系列を整理する。


a.青徐黄巾が渤海へ侵入

D.【袁紹】が【公孫範】に渤海太守印綬を授ける

E.【公孫範】が渤海兵を率いて【公孫瓚】を助ける

F.「破青、徐黄巾」←東光の戦い

H.【公孫瓚】が青州へ進軍


【袁紹】がどうだか、【公孫瓚】がどうだかいらんのよ。


ここの問題は何故【袁紹】は【公孫瓚】【公孫範】に黄巾対応をしてもらっているか。

冀州牧として足場を固めている最中であり、元渤海太守である【袁紹】が対応出来なかった。

対処出来ないから外注した。それが【公孫瓚】【公孫範】だっただけ。


穏健派の【劉虞】も反対しなかっただろう。

劉虞伝に100万人難民が幽州に流れてきていると書いてあるし。


【公孫瓚】の黄巾討伐に関しては否定しなかったのだろう。事実、兵糧支援を行っている。

(のちに支援を打ち切ると喧嘩しているので、明確に支援している証左になる)



5.【公孫瓚】進軍

【公孫瓚】が 冀州に【厳綱】青州に【田楷】兗州に【単経】を派遣した。

目的は【青州黄巾】を討伐するため。

【劉虞】の威光と【公孫瓚】の東光での戦果のおかげで各地勢力が信用して配置を許す。

以上。


え??三州刺史は??と言われるが、

三国志公孫瓚伝だと

以嚴綱為冀州,田楷為青州,單經為兗州,置諸郡縣。

【刺史】と明記していない。


【程昱】伝より、【公孫瓚】は【范方】を【劉岱】の援軍として派遣し、【袁紹】の妻子を引き渡すように迫ったと言う記録

【劉岱】と言う兗州刺史がいるのに、態々【単径】を刺史に任命して、その上で【劉岱】に援軍を送る??協力関係にある刺史と対立する両立はおかしくないか??


と言う事より、三人は各地方の指揮官として派遣されたとだけ記載する。



ただし、【田楷】に関しては【劉備】と共に徐州救援に向かう際、明確に【青州刺史】とあるため、在任中に【青州刺史】【焦和】の死去から【青州刺史】を称したと思われる。

逆に【厳綱】【単経】影薄すぎん??



5.5【田楷】青州に鎮座する、【劉備】協力する

青州黄巾の本拠とも言える青州。

そこの安定のために戦力を派遣したと推測される。

その主力が【平原県令→相】【劉備】である。


【公孫瓚】に協力してくれる学友。

それだけ。


大事なのは青州を守るのに【劉備】を配置、協力をしていた事。

【公孫瓚】の推挙が通った事で青州の安定に力を貸していた。


青州に力を入れた理由は青州黄巾の本拠であること。

当時の青州刺史【焦和】が無能だったこともあるかな。


【厳綱】【単経】影薄いのもあるけど、青州に対策重点的にやっていたと見える。

と言うか、【田楷】【青州刺史】として独立してね??公孫瓚が袁紹とやりあう前に【袁譚】と戦ってない?



6.界橋の戦い

【公孫瓚】軍が【袁紹】軍のいるところへ進出して接触した。

【袁紹】は【公孫瓚】を警戒して攻撃。

【麹義】が戦い、【厳綱】が戦死する。

それだけ。


もうこれ以上取り上げない。史書信用しない。



何故かって??

正直、記事の混載がひどくてほぼ全て捨てる


私はこうする。

界橋の戦い、確定的なのは【袁紹】軍の【麹義】が【公孫瓚】軍の【厳綱】を破っただけ。

【劉備】【公孫瓚】いたの??そもそもそこから確認したいよね。

この時、【公孫瓚】はどこにいたの?と確認するクラス。わかんないから。わからない。

ガチでそのクラスに信用しない。


正直、【麹義】の独断専行だと言われたら信じちゃうぐらいにわからない。

【公孫瓚】が喧嘩を売った?そんな気がせん。【袁紹】側が暴走したか何かで【公孫瓚】に奇襲した感じだと思う。


7.故安籠城、巨馬水の戦い

【公孫瓚】は敗走して、故安で包囲される。

包囲されるも落とされず、撤退中の【崔巨業】軍を打ち破る。


三国志に記載がなく、後漢書では公孫瓚伝にあるも袁紹伝にないという。

もう何がどうだか。


ここで大事なのは公孫瓚は籠城で耐えた後、切り返したと言う成功体験があったと言う事。


8.龍湊の戦い

後漢書袁紹伝、資治通鑑より。

怒った【公孫瓚】が【袁紹】支配地域を荒らすも、撃退される。


ここから推測。


ここについては明確に【公孫瓚】も私情が入ってるかなとも思う。

んで、【劉虞】の逆鱗ポイント。

【劉虞】は【公孫瓚】の黄巾征伐には反対していないが、

【袁紹】と戦う事は反対していた。

最初の方は【袁紹】が吹っ掛けたとも見て取れるが、この戦いは【公孫瓚】も

【袁紹】憎しの私情で動いている感じもある。

【公孫越】の戦死についてもこの地点ならば因果として採用して問題ない。



その結果、【劉虞】は【公孫瓚】の支援を打ち切る云々を議論する。



9.【趙岐】の調停、【袁紹】【公孫瓚】和睦(193年初/正月)

後漢書袁紹伝、資治通鑑より。

【袁紹】と【公孫瓚】の停戦。

冀州は【袁紹】の下で安定したのか・・・?

ただし、青州では【田楷】はまだまだ活動する・・・と言うか半独立状態で活動する。なんで【陶謙】救援までしちゃってるの??w


10.劉虞との決裂

これはどちらかと言うと公孫瓚の不運なところでもある。


「虞患其黷武」

「固不許行而稍節其稟假瓚怒屢違節度」


【劉虞】はその好戦ぶりを憂え、つまり、【劉虞】は【公孫瓚】の行動を認めず、その軍糧・供給を少しずつ制限した。【公孫瓚】は怒って【劉虞】の命令にたびたび違反する。


穏健派の【劉虞】。対【袁紹】戦における【公孫瓚】に対する許容ラインは非常に低かったのではないかとも思う。

正直、戦争吹っ掛けられて、部下が戦死した、追い詰められた、籠城して反撃した。ここまではまだよかったかも知れないが、反撃に出た事が無駄な事と思われたと推測する。


ここは文治派武闘派問題でもある、妥協ライン。それがお互い厳しすぎたと思う。

だから喧嘩する。【劉虞】を【魏攸】しか止められなかったが、【魏攸】病死後、【劉虞】は完全に吹っ切れる。



んで、【劉虞】が戦場で意味不明采配をして、【公孫瓚】が散々に打ち破る。


ここから先はもう史書にわかりやすくなる??と言うよりは易京で亀になるので今回はここまで。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。