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19XX年、7月。初夏特有の、肌をじっとりと濡らすような蒸し暑さが本格的に始まりを告げた、ある日のことだった。大都市の喧騒の中心にある、ひと際賑わう繁華街の大型デパート。時計の針は11時から12時の間を指そうとしていた。太陽がちょうど真上に位置し、フロアにはお腹を空かせた買い物客たちが、楽しげに昼食を求めて続々と集まってくる、至って平和な時間帯。
――それは、何の前触れもなく訪れた。デパートの婦人服売り場。華やかな衣装が並ぶフロアを、突如として奇妙な微震が襲った。震度1か2程度の、誰もが最初は「あ、地震かな?」と軽く受け流すような、わずかな揺れ。しかし直後、フロア全体に耳を劈くような「パリン」という、巨大なガラスが硬い床に激突して粉々に割れたかのような異音が鳴り響いた。
悲鳴が上がるよりも早く、何もない虚空の空間そのものに、漆黒の『裂け目』が出現する。そして、その次元の傷口から、泥のように蠢く黒い異質な肉塊のようなモノが、音もなく五体、這い出てきた。――世界で初めて、人類の敵である『アノマリー』がこの地上に降臨した瞬間だった。
人類最初の犠牲者となったのは、その出現ポイントのすぐ近くのカウンターに立っていた女性店員、永田桃子だった。彼女は先ほどの地震の後、突然目の前の空間に出現した正体不明の黒い肉塊を前に、恐怖よりも先に、あまりの非現実的な光景に激しく混乱していた。
「なにこれ……? 何が起こったの? これは、一体何――」それが、彼女が人生の最期に紡いだ言葉となった。永田桃子が最後に目にしたのは、黒い肉塊から触手のように伸びた異形の腕が、網膜のすべてを埋め尽くすように眼前へと広がる光景だった。それは、まさに一瞬の出来事だった。
さっきまで彼女の頭部があった場所には、アノマリーの左腕らしき漆黒のパーツが吸着するように伸びている。肉が触れ合った瞬間から、彼女の顔面はドロドロと無残に融解し始め、首、そして首から下へと、ゆっくりと黒い肉塊の中へ「吸い上げられる」ようにして飲み込まれ、消滅していく。抵抗する間すら与えられず、最後に残された両足までもが、宙へ浮いたまま完全に消えてなくなった。
凄惨極まる一瞬の捕食。先ほどまで生きていた人間が文字通り「消えた」光景を前に、華やかだった婦人服売り場に、一瞬だけ音の無い凄絶な静寂が広がった。
だが、その光景を少し離れた場所から目撃した別の店員や客たちが、次の瞬間、喉を引き裂くような悲鳴を上げて我先にと一斉に逃げ出し始めた。現場は瞬時に地獄のパニックへと変貌する。しかし、突然のあまりに異常な事態に脳の処理が追いつかず、何をしていいのか分からぬまま、呆然と血の気が引いた顔で立ち尽くしている人々も少なからず存在した。
最初に捕食を終えたアノマリーと、残りの個体たちが、その絶好の獲物を見逃すはずもなかった。逃げ遅れた者、腰を抜かした者たちが、逃げ惑う群衆の背後で次々と融解され、貪り喰われていく。
阿鼻叫喚の惨劇が繰り広げられる中、フロアの隅にある更衣室の中に隠れ、固く扉を閉ざして息を潜めている親子がいた。
母親は、小さな息子を押し潰さんばかりの力で強く抱きかかえ、震える声で必死に囁き続ける。「ママ、怖いよう……うぇん、怖いよ……」グズグズと泣き出しそうになる息子の口を優しく手で覆いながら、「大丈夫、ママと一緒にいれば絶対に大丈夫だから……ね?」と、必死に涙を堪えて我が子をあやそうとする。しかし、そのささやかな親子の祈りを冷酷に嘲笑うかのように、更衣室の頑丈な鉄扉が、凄まじい轟音と共に内側へと引き裂かれた。
「ひっ……!」それが、彼女の最後の悲鳴だった。扉の隙間から覗く、獲物を見つけたアノマリーのどす黒い眼光。母親は必死に我が子の盾になろうと、その小さな身体を抱いて守ろうとしたが、アノマリーはそんな抵抗など一瞥もくれず、親子共々まとめて押し潰すように、上から質量をもってドロリと覆いかぶさっていった。
また、別のエリアでは、極限の恐慌状態に陥った一人の女性がいた。彼女は、人々がドミノ倒しのように殺到し、すでに取り返しのつかない大混雑と化している非常階段へ向かうという選択を捨て、エレベーターホールの降下ボタンへと飛びついた。
なぜ、彼女は災害時の禁忌であるエレベーターを選んでしまったのか。理由は単純だった。目の前の階段は人間の狂気で埋め尽くされており、すぐそこには、誰もいない静かなエレベーターホールがぽっかりと口を開けていたからだ。極限状態の脳は、その安易で目先の楽な避難行動へと彼女を誘導してしまった。
「早く……! お願いだから、早く来てよぉ……ッ!」女性は半狂乱になりながら、すでに点灯している下印のボタンを、意味もなく何度も激しく連打し続ける。扉の上にあるインジケーターの数字が、ゆっくりと、けれど確実に彼女のいるフロアへと降下し始めた。――あと少し。あと少しで助かる。だが、その時。
エレベーターホールの白い照明を遮るように、背後から不気味な黒い影が静かに差し込んできた。頭の芯がジリジリと焼けるような最悪の嫌予感を覚え、彼女が恐る恐る後ろを振り返ったその瞬間。眼前に迫っていたのは、壁のように巨大な、漆黒の「死」そのものだった。
「いやあぁぁぁぁ――ッ!!!!」その悲鳴が、実際に彼女の喉から音となって出ていたのかどうかすら、もう誰にも分からなかった。それが、彼女の人生の最後の言葉となった。
アノマリーたちは、そのフロアにいた数百、数千の人間を瞬く間に捕食し尽くすと、肉物質を満たした身体をさらに蠢かせ、さらなるエサを求めて、下層フロアと上層フロアへそれぞれ二手に分かれ、静かに進撃を開始するのだった。




