第7話「見えない爆弾」
王都第8スラム地区。
そこは今、巨大な焼却炉と化していた。
バリケードで封鎖された区画の内側では、粗末な木造バラックが次々と炎に飲まれ、黒煙が曇天の空へと立ち上っている。
逃げ惑う住人たちの悲鳴。
慈悲を乞う老人の叫び。
そして、それらを無機質にかき消す、軍靴の轟音。
「――進め。一匹たりとも逃がすな」
煉獄のような熱気の中、警務局長ヴォルグ・シュタイナーは、氷のように冷徹な声で指揮を執っていた。
身長2メートル近い巨躯を漆黒の軍服に包み、背には身の丈ほどもある大剣を背負っている。
その顔には、目前の凄惨な光景に対する憐憫も、嗜虐心すらもない。
あるのは、汚れた部屋を掃除する清掃人のような、事務的な義務感だけだった。
「局長! B区画の制圧完了! 抵抗する者は全て排除しました!」
「C区画、延焼中! ネズミどもは地下水道へ逃げ込もうとしています!」
「地下へ追い込め。出口は全て塞いである。蒸し焼きにすれば手間が省ける」
ヴォルグは短く命じ、懐から葉巻を取り出した。
彼にとって、これは虐殺ではない。「防疫」だ。
スラムという都市の癌細胞を切除し、王都の健全な肉体を維持するための、必要不可欠な外科手術。
(……温いな)
彼は葉巻の先端を噛み切りながら、苛立ちを覚えていた。
枢機卿グルガーが死に、治安のタガが外れた。
教会という抑止力を失った今、自分が鉄の規律でこの国を締め直さなければならない。
そのためには、圧倒的な恐怖が必要だ。
その時。
ヴォルグのこめかみに、ピクリと鋭い痛みが走った。
「――ッ!」
思考よりも速く、彼の肉体が弾けた。
首を右へ90度、限界まで捻る。
ヒュンッ!
一瞬前まで彼の頭があった空間を、一本のボウガンの矢が切り裂いた。
矢はそのまま後方の建物の壁に突き刺さり、深々とめり込む。
「なっ……!?」
周囲の護衛たちが反応すらできない神速の回避。
ヴォルグは葉巻を口にくわえたまま、矢が飛んできた方角――崩れかけた廃屋の二階を睨みつけた。
「そこか」
彼は背の大剣を、まるで小枝のように片手で引き抜いた。
踏み込み。
石畳が爆ぜるほどの脚力で跳躍し、一足飛びで廃屋の二階へ到達する。
そこには、震える手でボウガンを構え直そうとする、スラムの青年がいた。
「ば、化け物……ッ!」
「遅い」
一閃。
ヴォルグの大剣が、銀色の軌跡を描く。
青年の身体は、ボウガンごと両断され、悲鳴を上げる間もなく血の塊となって飛散した。
「……ふん」
ヴォルグは剣についた血糊を振り払い、無造作に地上へ着地した。
部下たちが畏怖の眼差しで彼を見る。
スキル【直感回避】。
視界外からの狙撃、無音の暗殺、毒の混入。あらゆる「殺意」を肌感覚で察知し、回避する野生の能力。
彼がいる限り、警務局は無敵だ。
スラムの住人がどれほど束になってかかろうと、彼に指一本触れることすらできない。
「行くぞ。孤児院を焼く。あそこが病原菌の温床だ」
ヴォルグは葉巻に火を点け、紫煙を吐き出した。
その背中には、微塵の隙もなかった。
……そう、彼自身がそう確信している間は。
同時刻。
戦場と化したスラムの地下、下水道エリア。
「うっ……くぅ……ッ」
シスター・アリアは、ヘドロにまみれた通路を這うように進んでいた。
地上での火災の熱気が、この地下にも伝わってきている。
だが、それ以上に彼女を苦しめているのは、強烈な腐敗臭だった。
「臭い……何これ、卵が腐ったような……」
鼻をつまみたくなる悪臭が、地下道に充満している。
メタンガス。
都市の排泄物と生ゴミが、換気のない密閉空間で数十年かけて発酵し、生み出した死の気体。
ネロの言葉を思い出す。
『ヴォルグは殺気には反応できても、空気には反応できません』
アリアは震える手で、懐から小さな金属片を取り出した。
ネロが加工した、着火石の仕掛け(トラップ)。
ただの玩具のような部品だ。だが、今の彼女には、これが世界を滅ぼす魔導兵器よりも重く感じられた。
「……やらなきゃ。あの子たちを守るために」
彼女はマンホールの蓋の裏側にある窪みに、金属片を押し込んだ。
カチリ、と小さな音がして、仕掛けが固定される。
これで、地上の誰かがこのマンホールの上を強く踏みしめるか、あるいは近くで爆発的な振動が起きれば、バネが弾けて火花が散る。
アリアは走った。
息が切れる。足がもつれる。
迷路のような地下道を巡り、ネロに指定された5箇所のポイント全てに、仕掛けを設置していく。
(怖い。……怖いッ!)
恐怖で心臓が破裂しそうだった。
もし、ヴォルグに見つかったら。
もし、ガスが今ここで引火したら。
自分は木っ端微塵だ。
『……怯える必要はありませんよ、シスター』
脳裏に、あの冷徹な男の声が蘇る。
『恐怖とは、無知が生み出す幻影です。ガスの濃度、引火点、そしてヴォルグの進軍速度。……全ての変数は計算済みです。あなたはただ、私の描いた数式の上を歩けばいい』
その傲慢な言葉が、不思議とアリアの足を動かした。
神への祈りよりも、あの悪魔の計算の方が、今は信じられる。
「……設置、完了!」
最後の仕掛けをセットし、アリアは出口の梯子へと手を掛けた。
地上へのマンホールを押し上げる。
新鮮な空気が流れ込んできた瞬間、彼女は自分が「死の領域」にいたことを実感し、安堵で崩れ落ちそうになった。
だが、まだ終わっていない。
ここからが、実験の始まりだ。
スラム地区を見下ろす、旧市街の時計塔。
ネロは屋上の手すりに腰掛け、単眼鏡で眼下の惨劇を眺めていた。
「……湿度低下。風向き、南から北へ固定。条件は揃いましたね」
彼が見ているのは、燃え盛る家屋ではなく、警務局の部隊の動きだ。
整然とした隊列。盾を構えた歩兵が前進し、後方から松明を持った兵士が続く。
その中心に、ひときわ巨大な影――ヴォルグがいる。
「さて。野生の獣は、見えない檻に気づくでしょうか」
ネロは懐中時計を取り出した。
ヴォルグの進路、その先にあるのはスラムの中心広場。
その地下には、最大規模の汚水貯留タンクが眠っている。
そして、その真上のマンホールには、アリアが設置した着火装置がある。
眼下のヴォルグが、大剣を掲げた。
進軍の合図だ。
「――総員、突撃! 孤児院を包囲し、一人残らず燻り出せ!」
ヴォルグの大音声が空気を震わせる。
同時に、数百人の兵士が一斉に足を踏み鳴らした。
ドッ、ドッ、ドッ、ドッ!
軍靴のリズムが、石畳を叩く。
その振動は、地下深くに眠る「彼ら」を目覚めさせるノックだった。
ヴォルグは、前進しながら眉をひそめた。
(……なんだ?)
【直感回避】が、微かな警鐘を鳴らしている。
だが、敵はいない。
左右の廃屋も、前方の広場もクリアだ。狙撃兵の気配もない。
だというのに、肌が粟立つような悪寒が止まらない。
(どこだ? どこから狙っている?)
彼は鋭い視線で周囲を巡らせる。
屋根の上か? 物陰か? あるいは魔法による遠距離攻撃か?
だが、彼の優れた野生の勘をもってしても、「殺気」の発生源を特定できない。
当然だ。
殺気など、どこにもないのだから。
あるのは、ただの「気体」と「物理法則」。
彼が今、吸い込んでいる空気そのものが、すでに凶器へと変貌していることに、獣の勘は気づけない。
「局長! 広場に到達します!」
部下の声。
ヴォルグは一瞬、足を止めようとした。
だが、明確な理由のない停止命令など、指揮官の沽券に関わる。
彼は違和感をねじ伏せ、一歩を踏み出した。
その重厚な軍靴の踵が、広場の中央にあるマンホールの蓋を、強く踏みしめる。
カチッ。
戦場の轟音にかき消されるほどの、小さな金属音。
蓋の裏側で、着火石が弾けた。
散った火花は、地下空洞に充満していた高濃度のメタンガスと、熱烈な抱擁を交わす。
コンマ1秒の静寂。
そして。
「――!?」
ヴォルグの全身の毛が逆立った。
直感ではない。
本能が、「死」を悟ったのだ。
足元が、光った。
ドォォォォォォォォォォォォォンッ!!!!!
爆発音というよりは、大気が悲鳴を上げたような轟音。
広場の石畳が、紙細工のようにめくれ上がった。
地下から噴出した青白い炎の柱が、ヴォルグと先頭部隊を飲み込み、天へと駆け上る。
「ぐ、おォォッ!?」
ヴォルグは反射的に【直感回避】を発動させた。
身体を捻り、バックステップで回避行動を取る。
だが、無意味だった。
剣の一撃なら避けられる。
矢の雨なら弾ける。
だが、足元の地面そのものが爆発し、周囲360度の大気が灼熱の衝撃波に変わった時、回避する場所など、この世界のどこにも存在しない。
炎が彼の軍服を舐め、衝撃波が内臓を揺らす。
何より致命的だったのは「酸欠」だ。
気化爆弾に近い現象が、広場一帯の酸素を一瞬で焼き尽くした。
「か、はッ……!」
無敵の警務局長が、空気を求めて喉を掻きむしる。
その視界の端で、部下たちが木の葉のように吹き飛ばされていくのが見えた。
時計塔の上。
ネロは爆風で乱れた前髪を抑え、冷ややかに眼下の地獄を見下ろしていた。
「……実験成功。燃焼効率は理論値通りです」
彼は懐中時計の蓋をパチンと閉じた。
「さて、ヴォルグ局長。野生の勘で、空気は避けられましたか?」




