第6話 マクスウェルの悪魔
枢機卿グルガーの「不運な転落死」から、三日が過ぎた。
王都の表通りは未だ、神の代弁者を失った混乱と、次期枢機卿の座を巡る醜い権力争いの噂で持ちきりだった。
だが、そんな喧騒とは無縁の場所が、この街には存在する。
王都第8スラム地区と、旧市街の境界線。
日がな一日、日陰になっているような湿った裏路地の一角に、ひっそりと新しい店が開店していた。
看板には、掠れた金文字でこう記されている。
『古書店 マクスウェル』
重厚な樫の扉を開けると、カウベルの乾いた音が鳴る。
店内は、外の雑踏が嘘のように静まり返っていた。
漂うのは、古紙特有の甘い黴の匂いと、挽きたてのコーヒー豆の香ばしいアロマ。
天井まで届く本棚には、この世界の魔導書や歴史書ではなく、異質な背表紙の本――『熱力学』『構造計算』『犯罪心理学』『毒物と薬物』といった専門書が、整然と並べられていた。
そのカウンターの奥。
仄暗いランプの灯りの下で、一人の男が優雅にページをめくっている。
ネロだ。
黒の三つ揃えに、銀縁の丸眼鏡。
先日、国の中枢を揺るがす完全犯罪を成し遂げた張本人とは思えないほど、その横顔は穏やかで、学究的な静謐さを纏っていた。
「……エントロピーの増大。乱雑さへの不可逆な変化」
ネロは読みかけのページに栞を挟み、琥珀色の液体が入ったカップを口に運んだ。
「世界は放っておけば、勝手に壊れていく。人間も、組織も、国家も。……私が手を下すまでもなく、崩壊こそが自然の摂理だ」
彼は独りごちて、眼鏡の位置を直した。
この店は、彼の新たな拠点だ。
表向きは、マニアックな専門書を扱う古書店。
だがその実態は、解決不能なトラブルを「物理法則」と「悪意」で処理する、犯罪コンサルタントの事務所である。
報酬として手に入れた大聖堂の『地下配管図』は、すでに頭の中に完全にインプットされている。
この王都の地下には、老朽化した下水道、廃棄されたガス管、そして忘れ去られた魔導回廊が、まるで血管のように張り巡らされている。
これらを掌握した今、ネロにとってこの都市は、いつでも好きな場所を壊死させることができる「実験体」に等しかった。
(さて、今日の客は――)
ネロが視線を扉に向けた、その時だった。
バンッ!!
扉が乱暴に開け放たれ、カウベルが悲鳴のような音を立てた。
冷たい外気と共に飛び込んできたのは、焦げ臭い煙の臭い。
そして、泥と煤で汚れきった修道服の少女――シスター・アリアだった。
「ハァ、ハァ、ハァ……ッ!」
彼女は肩で息をしながら、よろめくようにカウンターへと歩み寄った。
その顔色は蝋人形のように蒼白で、瞳孔は極限状態の恐怖で見開かれている。
三日前、グルガーの死を目撃した時以上の絶望が、そこにはあった。
「いらっしゃいませ、シスター。……随分と荒い入店ですね」
ネロは眉一つ動かさず、新しいカップを取り出した。
ポットから熱い紅茶を注ぐ音が、静寂な店内に響く。
「本をお探しですか? それとも、先日のお礼参りでしょうか」
「そ、そんな……そんな呑気なこと、言ってる場合じゃないの……ッ!」
アリアがカウンターを両手で叩いた。
ガシャン、とソーサーが震える。
「外を見てないの!? 煙が見えないの!? 始まってしまったのよ!」
「主語が足りませんね。何が始まったのです?」
「『浄化作戦』よ! 警務局が……あの軍人たちが、第8スラム地区を包囲したの!」
ネロの手が、空中でわずかに止まった。
第8スラム地区。
この店のすぐ裏手に広がる、王都の最貧困層が住む居住区だ。
不法占拠者、犯罪者、そして身寄りのない孤児たちが身を寄せ合う、都市の掃き溜め。
衛生状態は劣悪で、常に正体不明の疫病が蔓延している場所でもある。
「……なるほど。グルガー枢機卿が死んだことで、教会の『慈悲(という名の搾取)』による保護がなくなり、軍部が介入してきましたか」
「あいつら、疫病の感染拡大を防ぐためだなんて言って……地区ごと焼き払うつもりなのよ! バリケードで道を塞いで、逃げようとする人を槍で突いて……!」
アリアの声が涙で潤む。
彼女の育った孤児院もまた、第8スラムの中心にある。
数十人の子供たちが今、炎と暴力の檻の中に閉じ込められているのだ。
「お願い、ネロ! 助けて! あの子たちには何の罪もないの! グルガーがいなくなれば助かるって……あんたはそう言ったじゃない!」
「言いましたね。グルガーがいなくなれば、立ち退きの強制執行はなくなると。……ですが、それは『別の捕食者が現れない』ことを保証するものではありません」
ネロは冷徹に告げ、紅茶をアリアの前に差し出した。
「生態系の崩壊です。一頭の怪物が死ねば、その死肉を求めて別の獣が群がる。今回は、それが『国家権力』という名のハイエナだったというだけのこと」
「そ、そんな……他人事みたいに……!」
「他人事ですから」
ネロは自分のカップに口をつけた。
その態度は、あまりにも冷酷で、人間味が欠落していた。
アリアは唇を噛み締め、絶望的な目で男を睨みつけた。
この男に心はない。分かっていたはずだ。
それでも、今の彼女には、この悪魔に縋る以外に道がなかった。
「……お金なら、あるわ。教会の隠し金庫から持ち出した金貨が……」
「金貨など、ただの金属片です」
ネロは即答した。
だが、彼はすぐにカップを置き、眼鏡の奥で鋭い光を宿した。
「ですが……『騒音』は見過ごせませんね」
「え?」
「ここは私の書斎であり、商談の場です。すぐ裏で火を焚かれ、豚が喚くような悲鳴を聞かされては、読書の妨げになる」
ネロは椅子から立ち上がり、本棚の横に貼られた一枚の古地図――王都全図の前に立った。
彼の細い指が、第8スラム地区をなぞる。
「指揮官の名は?」
「……ヴォルグ。ヴォルグ・シュタイナー警務局長」
アリアが、震える声でその名を吐き出した。
それは、スラムの住人にとっては、死神よりも恐ろしい破壊神の名前だった。
ヴォルグ・シュタイナー。
元帝国軍・特殊作戦群司令官。
「鉄血の鷲」の異名を持ち、かつての対魔族戦争において、人質を取られた味方の砦ごと敵を爆撃したという逸話を持つ男。
徹底した合理主義者であり、目的のためなら民間人の犠牲など数字の一つとしか認識しない。
そして何より、彼を厄介な存在にしているのは、その特異な能力だ。
「……【直感回避】の使い手ですか」
ネロが呟く。
脳内のデータベースが、該当スキルの情報を展開する。
【直感回避】。
それは論理や魔力感知ではない。
生物としての純粋な「野生の勘」。
死角からの狙撃、無色透明の毒ガス、完璧に偽装された罠。あらゆる「致死性の害意」を肌感覚で察知し、反射的に回避する能力。
思考するよりも速く、体が危険を避ける。
それはある意味で、論理と計算を武器にするネロにとって、最も相性の悪い天敵と言えた。
「無理よ……。あいつは化け物だわ。前回の暴動の時も、背後から襲いかかった住人を、振り向きもせずに斬り殺した。……ネロ、あんたの計算なんて、あいつの『勘』の前じゃ通用しない」
アリアは首を振った。
グルガーは「動かない的」だった。だから罠にはめられた。
だがヴォルグは違う。こちらを殺しに来る、生きた猛獣だ。
「通用しない? ……いいえ、シスター。あなたは勘違いをしている」
ネロは地図から目を離さず、口元だけで笑った。
それは、獲物を見つけた狩人のような、凶暴な笑みだった。
「『勘』とは何ですか? それは過去の経験則に基づく、無意識の統計処理に過ぎません。……つまり、未知の事象には反応できない」
「未知の……事象?」
「野生の獣は、殺気や罠の臭いには敏感です。ですが――空気の変化には気づかない」
ネロは地図上の、スラム地区の地下深くに記された「巨大な空洞」を指先でトントンと叩いた。
そこには、かつての王朝時代に作られた、下水処理用の貯留タンクが描かれている。
数百年間、メンテナンスされずに放置され、都市の汚物を溜め込み続けたパンドラの箱。
「アリア。このスラム一帯、常に『腐った卵』のような臭いがしませんか?」
「え? ……ええ、まあ。ゴミ捨て場だし、下水も漏れてるから……それが?」
「それはただの悪臭ではありません。有機物が密閉空間で腐敗する過程で発生する、可燃性ガス……メタン(CH4)です」
ネロは振り返り、アリアを見た。
その瞳は、楽しげに輝いていた。
「配管図によると、この地区の地下にはガス抜き用の弁がありません。地盤沈下で配管が詰まり、数十年分のメタンガスが、地下空洞に高圧で充満している。……今のこの一帯は、巨大な燃料気化爆弾の上に住んでいるようなものです」
アリアは息を呑んだ。
爆弾。
自分たちが暮らしていた地面の下に、そんなものが眠っているなど、想像もしなかった。
「ヴォルグは『殺気』には反応できても、『成分』には反応できない。無色透明、無味無臭に近い気体が、自分の足元のマンホールから這い上がってきていることになど、気づきようがないのです」
ネロはカウンターに戻り、引き出しを開けた。
中から取り出したのは、数個の小さな金属片。
古びた魔導ライターの着火石を削り出し、バネ仕掛けで弾けるように加工した、粗末なガラクタだ。
「これから私が指示する場所――スラムの主要なマンホールの蓋の裏、排水溝の縁、建物の隙間に、これを設置してきてください。ただ置くだけでいい」
「こ、これを置くと……どうなるの?」
「ヴォルグが部隊を指揮し、威圧のために大声で号令をかけた時。あるいは、彼らが『浄化』のために松明を掲げて行進した時。……その振動と熱源が、地下から漏れ出すガスと『握手』します」
ネロは金属片を指で弾いた。
カチッ。
乾いた音と共に、小さな火花が散る。
それは、都市一つを吹き飛ばすにはあまりにも小さな、しかし十分すぎる火種だった。
「直感で剣は避けられても、爆風と酸欠は避けられません。……さあ、開店記念に、少し派手な花火を上げましょうか」
死神が、営業中の札を『CLOSED』へと裏返した。




