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裏切りの夏  作者: 夢追人
11/12

命のさだめ

事件が解決し、純樹の口から転覆事故の真実を聞く。そこにはあまりに悲しい現実があった。

だが、若者たちは全てを受け入れて前へ進み始める。

そして裕美ももうひとつの戦い、静江に対する戦いに挑んでいった。

 その夜、裕美たちはいつか熊野にご馳走になった居酒屋で食事を取った。適度に腹を満たし喉が潤った頃、話題は自然と昼間の話に移っていった。

「純樹さんの疑いが晴れて良かったです」

「君たちのお陰ですよ、ありがとうございました」

 純樹が深く頭を下げる。

「止してくださいよ、先輩」

 テーブルの上にある純樹の手の甲を鈴がさりげなく握った。彼はゆっくりと頭を上げて笑顔を浮かべたが、裕美には悲しげに見える。やはり、静江が純樹に罰を与えたいと言ったことが気に病んでいるのだろう。そう思って今はその話題には触れないでおこうと決めた。だが、そんな周囲の空気や裕美の気持ちに無頓着な達彦が口を開く。

「それにしても、静江さんが純樹さんに罰を与えたいなんて信じられないですね、きっと太一さんが嘘を言っているんでしょう」

 裕美は、デリカシーの無い達彦をうざったく感じたが、純樹の表情が急に吹っ切れて明るくなった。純樹と達彦の間に、高校時代からの男同士の絆みたいなものを感じて、裕美に嫉妬じみた感情が沸き上がって来た。

「きっと嘘ですよ」

 鈴も話題に乗る。だが、純樹は意外な言葉を明るく投げ掛けてきた。

「静江さんが僕を恨むのも仕方ないし、罰を与えたいと考えるのも人としては当然だと思いますよ」

 純樹の語気は、他人事を語るかのような軽さだ。裕美には彼の心境が良くわからないが、いつもの陰が現れていないことに少し安堵している。

「純樹さんは、静江さんの怪我を自分の責任だと思っているようですけど、高校時代から何度も言っているとおり、あれは不運な事故、いや、正勝が起こした事件だったんです。先輩に責任はないですよ」

 達彦が静かに純樹を見つめている。

「僕は彼女を守れなかった」

 純樹が明るい口調で悲しい言葉を吐いた。

「いくら純樹さんがスポーツマンでも、バレー部のエースでも、夜の川で溺れる人を救うなんて無理ですよ」

 鈴が必死で彼をかばおうとしている。むしろ、彼女の語気の方が必死だ。裕美も何か言いたいが言葉が浮かばず、純樹の瞳をじっと見つめて彼の心根を推し測ろうとした。店内は空いているために、四人が黙るとBGMだけが響く。

 純樹は生ビールをひと口飲んでから、口元に笑みを浮かべて全員を見渡した。そして、裕美の心臓を突き刺す衝撃的なひと言を吐いた。

「蹴ったんです……」

 四人のいるこの空間が不気味な静けさに包まれた。裕美も達彦も鈴も、固まったように純樹を見つめている。裕美は彼の口から出てきた言葉の真意が理解できないまま、そして、次に出てくる言葉を予想する気力もなく、空っぽの心で時間が流れ去るのを待っている。

 純樹から笑みが消え、まるで犯罪者が全てを自白する時のような表情になって身を乗り出した。そして裕美の空虚な心に言葉をつづり始める。

「昼間も話があったように、正勝さんはあのクルージングコースの中で唯一流れが激しくなる流域で事件を起こした。ボートが転覆した後、僕は川の激しい流れに巻き込まれて、息もろくにできない状態になりました。水の中は、川面以上に流れが速く動きも複雑でした。一瞬、顔が川面から出たと思うとすぐに引き戻される。そんなことを繰り返しながら、あちこちの岩に身体がぶつかり、痛みと苦しさと水の冷たさで気が遠くなり、自分はこのまま死んでゆくのだと薄い意識の中で感じ始めました」

 純樹はそこまで話すと、一度間を置いてビールを口に運んだ。心を落ち着けているのだろう。お手拭きで口の周りの泡を拭ってから再び話し始める。

「もう死ぬんだと感じ始めたその時、川面から一瞬顔が出ました。その時、偶然にもすぐ目の前に流木を見つけてそれをつかむことができました。僕の腕くらいの太さはありましたが、身体を浮かせてくれるほどの浮力は無かった。それでも、何とか顔だけは水面から出していられそうになった瞬間、僕の足首に誰かがしがみつきました。僕は、直感的にそれが静江だとわかりました。でも、彼女の重みで再び流れに引き戻された僕は……」

 と、純樹がそこまで言った時、鈴が彼の手をぎゅっと握って、

「もう良いです先輩、もう話さないで結構です」

 と、半泣きの声で言葉を制した。しかし、純樹は鈴の手を優しく解いてから、

「川の流れに引き戻されて再び息苦しくなった僕は、足首にしがみつく静江を蹴ってしまいました」

 と、淡々と話を続けた。鈴は両手で耳を押さえている。

「僕は、彼女の手が離れるまで何度も何度も蹴りました。静江の手が離れて軽くなった僕は、流木につかまって川面に顔を出すことができました。しかし静江の姿はどこにも無かった……」

 重苦しい沈黙がしばらく続いた。誰も純樹に掛ける言葉が見つからない。

「流れが静かな流域に入ると、僕は周囲を見渡しながら必死で静江を探しました。月明かりが明るく差していて、川面に浮かぶ彼女の姿が視界に入りました。彼女は仰向きに浮かんでいて意識もありました。だが、身体が動かなかった。僕が彼女をつかまえて岸まで泳ぎ、近くの民家までおぶって歩きました。その間、僕たちはひと言も口を効けませんでした」

 純樹はずっと苦しんでいたのだろう。高校三年生の多感な時にそんな体験をした彼は、きっと自分の犯した罪にひとりで苦しんでいたのだろう。作り笑顔の裏側でいつも罪の意識があった。人生を楽しめば楽しむほど、その罪の意識が高くなっていたのではないだろうか。鈴の頭を優しく撫でて、話が終わったことを伝えている純樹を見つめながら、彼の心情をそんな風に想像してみた。

「だから、静江が僕に罰を与えたいと思うのも当然なんですよ」

 鈴はうるんだ瞳で純樹を見つめている。

「本音を言いますけど、僕は静江に許されていると思い込んでいました。ですから今日はショックでした」

 純樹は、さっきまでの苦悩は何も無かったかのように再び笑顔を取り戻した。

「静江さんが許してくれた?」

 裕美は不思議な気持ちで純樹を見つめながら確認する。静江が許すと言う意味が解らない。

「保護された後、僕たちは話し合う機会がありませんでした。謝る機会もなかった。いや、勇気が無かったと言う方が正確です。手紙は書いていましたけど、事故のことには触れませんでした。気持ちを上手く文字にすることができませんでした。それが、去年の夏、街で偶然出会ってから、少しの間ですが心を開くことができました。静江が車椅子で京都まで遊びに来たこともあります。その夜、僕は事故の話を切出して、僕が静江と知りながら自分が助かるために彼女を蹴ってしまったことを話して謝りました」

 純樹はそこまで話すとビールを口に運んだ。裕美も同じようにジョッキを手に持つと、他の二人もつられたように真似て、全員がゴクリと喉を鳴らした。

「静江も本当のことを話してくれました。彼女もあの時、僕だと知って足首に抱き着いたようです。僕の足にしがみつけば助かると思って、無我夢中だったそうです。でも僕に蹴られた。その瞬間から、静江は僕と一緒に死のうと思ったらしいです。僕を道連れに死のうとして必死でしがみ付いたそうです。そう話した彼女も謝ってくれました」

 自分がその状況に置かれたらどう行動していただろうか、しかし、安全に囲まれて酒を飲んでいる今、何を想像しても無駄だと考えて裕美は思考を停止した。

「二人とも真実を告白して、相手に謝罪したことで少しは気が楽になったと思います。そしてお互いに相手のことを許し合いました。少なくとも僕はそう思っていました」

 そこまで話した純樹は大きく呼吸をしてからビールを口に含む。裕美は、何とはなしに不愉快な心の塊が腹の底で蠢いている。

「静江さんは、あなたのことを許してなんていないわよ」

 冷厳な裕美の言葉がナイフのように全員の胸を刺す。鈴と達彦が驚いて、裕美の顔を茫然と見つめている。純樹は反応しない。

「あなたは結果的に健康で、大学に通い、好きなバレーを一生懸命やっている。だから静江さんのことを許せるのよ。でも、彼女はもう元の生活はできない。一生、不自由になった脚で生活しなければならない。純樹さんのことを許したいのに、どこかで許せない自分がいる。彼女は愛する人に裏切られた苦しみと、愛する人を許せない自分に苦しんでいるのだと思う」

 裕美の言葉に純樹がゆっくりと大きく頷いた。

「だから、静江さんがあなたに罰を与えたいと思ったことも事実でしょうし、あなたを許そうと努力しているのも事実だと思うわ」

 裕美の言葉に頷いた純樹に見つめられてどきりとした。苦しい心情の吐露とは裏腹に、彼の瞳は澄んで輝いている。静江のことを語っている彼は、どんなに苦しくても輝いている。そう感じた裕美は急激に嫉妬の念が湧いてきた。

「純樹さん、もう静江さんを解放してあげたらどう?例え手紙だけでも、あなたが彼女に関わっていると、彼女はいつまで経ってもその苦しみから逃れられないのよ」

 裕美は、純樹が落胆することを予想していたが、

「そのことはいつも考えています。いつも悩んでいます。でも、僕が離れたとして彼女は本当に救われるのでしょうか?」

 と、冷静な表情で裕美を見つめ返してきた。やはり、悲しいくらい綺麗な瞳をしている。

「少なくとも、あなたのことを許そうとして苦しむ必要はないでしょう。あなたのことを心から憎んで、恨んで、大嫌いになって生きていく方がよほど楽だと思うわ」

 裕美は、純樹を苦しめる言葉を吐きながらなぜだか涙しそうになった。すると達彦が口を開いて、

「静江さんも、ある期間はそうしていたのかも知れない。でも、それでは何も解決しないことがわかったんだよ、きっと」

 と、やや高揚した口調で思いを吐いた。

「あなたみたいに単純な男にわかるの?」

 裕美は、達彦の高揚を抑えるかのように、そして自分自身の興奮も抑えるために、微笑みながら優しく彼をからかって場を和ませた。達彦も微笑みながら頭を掻いて照れ臭そうに続ける。

「純樹さんは、静江さんと偶然街で会ったと言ったけど、あれは、静江さんに頼まれて僕が仕組んだんだ。静江さんと深く話した訳ではないけど、彼女は事実に向き合いたいから、事実を、そして自分の運命を受け入れたいと思うから、純樹さんに会ったんじゃないのかな?」

 達彦の言葉に純樹は微かに頷いたが、そのまま黙り込んでいる。

「私も達彦さんに賛成です。初めて良いことを言いましたね」

 鈴が達彦を茶化しながら場の雰囲気を明るく変えた。純樹も残ったビールをゆっくりと飲み干してからにこりと微笑んで、

「とにかく事実はこう言うことです。これからのことは僕自身で決めます。いろいろ助言をありがとう」

 と、軽く頭を下げた。裕美は虚ろな心にビールを流し込みながら、純樹と静江の絆の強さと、自分と純樹との隔たりの大きさとを同時に実感して、魂を抜かれてしまったような感覚に陥っていた。


 長い夏休みも終わり大学の後期課程が始まり、秋の風が吹き始めた頃、裕美は部屋で料理を作っている。子供の頃から母親に家事を教え込まれているので料理は得意だ。ローストビーフやグラタンなどワインに合う料理を用意した。

 南紀で過ごしたエキサイティングな夏休みの思い出も、もうひと昔前のように感じてしまう。日本の四季とは不思議なものだと裕美は感じながら、料理も最終段階に入っている。

 裕美は、引き続き純樹に接近を試みているが、彼は相変わらずクールで素気ない。食事や買物などには気軽に付き合ってくれるが、心の距離は一向に縮まらなかった。

 今日は純樹の誕生日なので裕美が誘った。クラブも終わって特に用事も無い純樹はあっさりと了解した。裕美は料理だけでなくメイクも入念にしている。そして恥ずかしいくらいにピチピチのショートパンツを穿き、そのショートパンツが半ば隠れる程度のロングシャツを着て、見た目にも純樹に喜んでもらえるように準備した。

 やがて純樹がワインを片手に訪れてきたが、案の定、彼女の身支度には無反応だ。だが彼女は別に気にならない。いつものことで想定内だ。子供のように叱りながら手を洗わせて食卓に彼を導いた。

「お誕生日おめでとう」

「ありがとうございます」

 相変わらずの堅苦しい挨拶の後晩餐が始まる。ビールで乾杯した後、純樹へのネクタイのプレゼントを渡した。彼は子供のように喜ぶ。こう言うところは素直でとても扱いやすい。

「たくさん食べてね」

 裕美が言うまでもなく、彼は既に体育会系の食欲を露にしている。飲み物もビールからワインに移っていった。

「静江さんにはいつもどんな手紙を書いているの?」

 少し酔った勢いもあって、裕美は普段は口にしない静江の話題を持ち出した。

「大したことは何も……。日々の出来事をかいつまんで書いています」

 ワイングラスを手にしたまま、彼は軽やかに話してくれた。

「月に何通くらい書くの?」

「そうですねえ。だいたい月に一通のペースかな」

 純樹も酔い心地の口調だ。

「大変じゃない?」

「日記みたいなものです。もう習慣になりました」

「相変わらず返事は来ないの?」

 裕美は遠慮がちに尋ねる。純樹はニコリと笑いながら頷いた。

 もう、止めろと言う積りはない。気の済むまで書けば良いと思った。純樹の心にいる静江にはどうあがいても勝ちようが無い。ボート事件以来四年間で色々な葛藤はあったのだろうが、恋愛感情と贖罪意識、責任感などが複雑に絡み合いながら、純樹の中で静江は理想化され、絶対化されてしまっている。そんな静江を彼は愛していると思い込んでいる。

 裕美の視点では、それはもう恋愛ではなく、ある意味宗教に近い状態かアイドルオタクが空想の恋人を作り上げて崇拝しているような、単なるマスターベーションだ。裕美はそんな風に考えることにした。

「そう。寂しいわね。でも、そうやって愛せる人がいるだけあなたは幸福だわ」

 チーズを摘まみながら純樹の気持ちに寄り添う。

「裕美さんなら愛せる人くらいすぐに見つかりますよ。綺麗だしセクシーだし」

(いったい、この男はずる賢いのか単純なだけなのか……。今まで散々恋愛感情をぶつけ続けてきたのに、それを全く感じていないのか、感じない振りをしているのか)だが、今夜はそんな小難しいことを考えるのは止めにした。

「ありがとう。あなたに褒めてもらうなんて嬉しいわ。セクシーだと思ってくれるの?」

 ちょっと甘い息を漏らして見上げた裕美の瞳に、彼は照れるようにワインをあおる。

「一度くらい、使ってくれた?」

 悪戯な笑みを浮かべて純樹の瞳を覗きこむ。

「もう、勘弁してください。それより料理が上手ですね、どれもみんな美味しい。居酒屋で食べているみたいだ」

 純樹が幸福な笑顔を浮かべて裕美の心を熱くする。

「ありがとう。でも居酒屋なのね……」

 彼女は冗談交じりに純樹をいじめる。

「居酒屋かファミレスにしか行ったことがないので。すみません」

 そう言って愚直に謝る純樹を見ていると、やはりずる賢さは感じられない。単純なのだ。静江以外の女の愛情を受けてはいけないと本能的に拒否している。いや、拒否をする習慣が身についてしまっている。そんな気がしてきた。

 そんな純樹の反応に一喜一憂している自分が少し腹立たしくなってきた。そしてそんな自分とは反対に、純樹が自然体でいることが悔しくなってきた裕美は、再び手紙の話題に触れたくなってきた。少し意地悪な、いや、悪戯心に近い。

「毎月手紙を書いているのに返事もなくて虚しくない?徒労かも知れなくてよ」

 徒労だの虚しいだのという心境は、純樹にとってはもう大昔に通り過ぎていることは十分に理解しているが、彼をほんの少しだけ傷つけたかった。軽い仕返しだ。

「虚しさを全く感じないと言うと嘘になりますね」

 そう言ってワインを口に運んでから、

「鴨川でも桂川でも良いですけど、川の流れに逆らって泳いでいる人を見てどう思いますか?馬鹿な人だと思いますか?」

 と、裕美に尋ねてきた。

「ええ。それに疲れるでしょうね」

 裕美はちょっと驚いた。純樹がこんな例え話をするのは珍しいことだし、軽くからかう積りが重い話に進みそうな予感がする。

「世の中にはいろんな流れがあります。文化の流れ、技術の流れ、ファッションの流れ。人は皆、流れに遅れまいと必死に流行を追っている。そんな中で、じっと一箇所に立ち止まるのは愚かなことでしょう。まして逆行するなんて。それでも、世の中にひとりくらいそんな人間がいても良いんじゃないでしょうか。否、ひとりにひとつくらい、そんな頑固なこだわりがあっても良いと思います」

 裕美は、彼の言葉が胸に刺さって身動きできないでいる。

「自分の愛欲や物欲を満たしている瞬間だけが幸福なのでしょうか?本当は愛なんて薄まっているのに、離れるのが寂しいから、孤独になるのが恐いから、もたれ合っている関係が幸福なのでしょうか?誰が言い出したのか、家族が一番大切だ、全てを犠牲にして家族のために尽くす生き方がすばらしいなんて価値観を疑うこともなしに全うして幸福ですか?自分の夢を削りながら家族に尽くす。そのうち、家族のためにという理由で努力しなくなる。自分の夢を追い掛ける努力を止めたくせに家族の責任にする。自分の人生を程々の努力で過ごしておいて、家族のために働いたと言って自分を誤魔化して死んでいく。俺にも若い頃には夢があったなんて空々しい言葉を垂れ流して、怠慢の蓄積した肥満腹を撫でながら、自分がしてこなかった努力を子供に期待する。そんな人生が幸福でしょうか?」

 裕美は呼吸をすることすら忘れている。純樹がこんなに自分の考えを熱く語ったのは初めてだ。純樹がひと呼吸置いた時に、ようやく彼女は大きく息を吸った。

「大切なものは年齢と共に変わるものなのでしょう。家族が一番大切になるのかも知れない。だから家族のために尽くすことを否定しているのではありません。それを理由に自分を甘やかしておいて、自分の怠慢を誤魔化すことが許せないだけです」

 純樹は更に言葉を続ける。

「今の僕には、静江に手紙を書くことが最も価値のあることで、頑迷に守っていきたいことです」

 彼の言葉が終わった後も、彼女はワインをゆっくりと口に運びながら静かに自分を振り返っている。

両親のために橘昭と結婚することを考えながらも、京都にいる間に素敵な王子様が現れないかと期待していた。しかし、実際に王子様が目の前に現れても、自分のプライドを傷つけてまで求めることには躊躇して、純樹とも付かず離れずの中途半端な距離でいる。

 正しいかどうかは別にしても、純樹のような自分なりの価値観や頑固さもない。そのくせプライドだけが高く、こうして純樹の心根に感心する思いはあっても、自分が彼より劣っているとは認めたくない。

「偉そうなことを言ってしまいました。今は頑張って流れに逆らっていますけど、そのうち泳ぎ疲れて結局は川の流れに押し流されてしまいますよ」

 裕美の落ち込んだ心情を察したのか、つい熱くなってしまった自分を恥じたのか、純樹が明るい雰囲気を醸し出した。

「どこへ流されるの?」

 裕美も語気を明るくして尋ねる。

「静江を愛する気持ちも努力も忘れてしまうのでしょうね」

 彼女は純樹の透明な表情を見つめながら、

「肥満腹になって?」

 と、彼の筋肉質な腹を見ながら笑った。純樹はちょっぴり顔を赤らめながらワインを飲み干す。彼女の前で初めて饒舌になった彼のために裕美はワインを注いだ。純樹が本音を話してくれたのは初めてだ。酒場での馬鹿話しはうんざりするほど聞いてはいるが、こんなに本心を明かしてくれるとは思ってもみなかった。

「それじゃあ、待っていようかな。あなたが流れてくるのを」

 自分にもワインを注ぎながら美しいくらいに臆病な声で呟く。純樹は黙ったままワインを見つめている。

「あなたが泳ぎ疲れて、流れてくるのを待っていたいの」

 裕美は上目遣いで彼の反応を窺いワイングラスの淵を指でなぞった。

「ありがとう。でも、その前に沈んでしまいますよ。肥満腹になっていますから」

 純樹はにっこり笑ってチーズに手を伸ばす。裕美はその白い笑顔にどきりとした。

「人間は沈んでもまた浮かび上がるそうよ。そしてあなたは流れてくる。更に膨れたお腹で」

 裕美は笑顔を浮かべながらも、川で溺れるような話題になったことに後悔した。だが純樹は全く気にしていない様子で、

「魂の抜けてしまった僕で良かったら、線香の一本でもあげてください」

 と、声を出して笑った。

 話が穏やかに締まったところで裕美はキッチンに向かった。乾き物と缶ビールを持って再びテーブルに戻ってくる。

「またビールですか?」

 純樹が不思議そうな目をしている。

「少し喉が渇いたの。あなたも飲む?」

「いえ、僕は喉が渇いたら水を飲む方ですから」

「それが普通ね」

 裕美は笑いながらプルトップを開けて美味そうに三口ほど飲むと、

「ところで、秋の大会では後輩たちは優勝できそう?」

 と、全く興味の無い話題を振ってみた。 

「そうですね、今年の一回生は良いのがいますからね」 

 純樹はバレーの話になると再び饒舌になり、彼女には全くわからない戦術やテクニックの話まで熱く語り始める。チームの飲み会に参加すると、最後はいつもこう言う話になる。それまでエロ話で盛り上がっていた男たちが急に熱く語り始めるのだ。時には口論になったりする。

 そんな時にはさっさと席を離れて女たちの輪に加わるが、単純で暑苦しい男どもの馬鹿々々しさが羨ましくなったりもする。そんなことを思いながら、今、酒を飲むのも忘れて熱弁を振るっている純樹の瞳を見つめたまま、どうにかして、この純情な男に現実の恋愛を教えてあげたいと言うお節介が芽生え始めた。

 心の中に築いた理想の静江以外の女性を一切拒絶し、裕美を含めて現実のどんな女も拒絶し、理想像を思い浮かべてマスターベーションをしている彼に、血が通い、魂の宿る肉隗と対話し、愛欲を満たし合う悦びを教えてあげたいと思った。

 そして同時に、そうすることでしか自分が静江に勝つ手段はないと、心のどこかで考え始めている。

 裕美は、純樹のバレー話に頷きながら何度もワインを注ぎ、つまみを並べて笑顔を浮かべ続ける。ワインが二本目に入り、裕美も少しづつ口に運びながら純樹の変化を待った。

 やがて、純樹の饒舌が時々空回して眠気を催し始めた頃、裕美は水を飲ませてからベッドで仮眠するように勧めた。彼は遠慮していたが、元々酒に強くない彼のことだ。睡魔には勝てずに彼女のベッドに横たわってしまった。

 裕美は手早く後片付けをしてから部屋の灯りを消す。そして純樹の口元に顔を寄せて寝息を確かめた。よく眠っている。次に純樹のジーンズを開いてからゆっくりと脱がしてゆく。太腿が太いので脱がすのにも力がいる。何とかジーンズを足から引き抜いた彼女は静かに彼の横に寝そべった。

 自分でも少し酔っていると自覚している裕美は、酔いに任せて自身のたがを緩めた。彼女は自分のショートパンツのホックを外し、ゆっくりと脱ぎながら彼の横顔を確認する。よく眠っている。心臓が飛び出しそうなほど鼓動が激しくうなり、下半身がとろけそうになっている。

 彼女はしばらくそうしたまま、心が落ち着くのを待ったが、全身が熱くなり益々官能が高まってゆく。このままでは自分ひとり達してしまいそうだ。

 覚悟を決めた裕美は、大きく深呼吸をしてから彼の下半身を包む下着の中に手を伸ばした。彼の熱い体温が手の平から伝わってくる。しばらくの間、微妙な動きで彼を包んでいると純樹が目を覚ました。

「いいのよ。じっとしていて」

 状況を把握し切れないで虚空を見つめる彼に強い口調で言いつける。ゆっくりと周囲を見渡しながら、酔った瞳で裕美を見つめた彼は、ようやく状況を把握したようだ。

「お願い。じっとしていて。私はあなたの役に立ちたいの。私は何もいらない。何も求めない。だからお願い、じっとしていて」

 裕美は純樹の耳元で囁いてから、彼の下半身に顔を近づける。純樹は混沌とした様子で彼女の成すがままになっている。彼女がゆっくりと頭を上下に動かしている間も彼は無言で虚空を見つめている。そして裕美の官能までもが熱く疼き始めた頃、彼の欲望の塊が裕美の口に広がった。

「私はあなたの味方。あなたが静江さんと上手くいくことを願っているの。私はただの友だち。何も邪魔はしない。だから安心して自然なままでいて……」

 純樹は大きく息をしながら、突然起きた快感の波に戸惑っているようだ。裕美はそんな放心状態の純樹の手を取って、自分の下着の中へそっと導いていった。

女性の誘惑には勝てない。いや、勝必要はない(笑)

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