終章
社会人になったばかりの純樹、達彦、裕美、そして静江の人生が宇治川の流れに乗って過ぎてゆきます。
二年近い月日が流れた。大学のキャンパスから見える賀茂川の面が秋色に輝く様子を思い出しながら、達彦は宇治川の辺を歩んでいる。
大阪に就職している彼は、この宇治川を歩くのは正月以来だ。達彦の横には裕美の姿がある。
「理由を教えて……」
宇治には純樹の住むマンションがあった。純樹が卒業して京都の金融機関に就職して1年半が経過していた。達彦が大阪の商社に就職して半年。今年の正月には、純樹のマンションにバレー部の仲間が何人か集まって新年会を開いた。
その席には裕美もいた。裕美は、純樹が四回生の誕生日に肉体的な関係を築いてからと言うもの、ほぼ彼のそばに入浸りとなり、彼が就職して新しいマンションに移った後にも、半ば同棲のような状態で純樹と暮らしていた。
純樹は、相変わらず静江に手紙を書き続けていたが、裕美はそのことに関しては肯定的だった。特に不快を感じることもない。純樹が裕美のことを手紙に書いていたかどうかはわからない。純樹の気持ちがどうあろうとも、裕美は王子様を支える立場に八割方満足していた。
達彦は、現実の肉体を持つ裕美に純樹が虜になってしまったことを責める積りはない。彼女の魅力は達彦も良く知っている。だが新年会の折、純樹と二人きりで話をする機会があり、静江のことを一番愛していることを当然のように述べた純樹の瞳を見て安心していた。
驚いたことに、裕美とも3ヶ月ほど前の夏の日に別れたらしい。裕美が他の男と付き合い始めたのがその理由だ。先月に純樹と梅田で飲んだ折にその話を聞いた。純樹は裕美との別れについて全く気にしておらず、達彦もそれ以上の細かい事情は尋ねなかった。裕美なら十分あり得る行動だと納得もした。
葬儀会館から出てきた達彦は、会館の中庭で深い呼吸をしてから悲しい気持ちを切替え、バレー部の後輩たちに後の段取りを指示していた。
「お久しぶりね」
晩秋の穏やかな日和日に最も不似合いな、艶美な雰囲気の裕美が相変わらずの愛らしい瞳で達彦に近づいてきた。秋の陽射しがあまりにも柔らか過ぎて、もうとっくに忘れてしまったはずの、裕美と過ごした学生時代の甘い思い出までもが悲しいくらいに懐かしく感じられた。
裕美は黒いワンピースの喪服に身を包んではいるが、本人の意思とは無関係に自然と漏れている色香が葬儀の雰囲気には不似合いだ。
「1年ぶりくらいか?」
前に会ったのは正月だから、正確には11ヶ月ぶりだ。
「少し話したいの。付き合ってくれる?」
裕美がそう言って達彦をじっと見つめたが、その瞳に純樹の死の悲しみは映っていないように感じる。
「少しなら……」
達彦は、後輩にひと言告げてから歩き始める。葬儀会館から離れて閑静な住宅街を抜け『あじろぎの道』を横切って『十三重の塔』が立つ中洲に渡る架け橋の真中で立ち止まった。川辺に迫る山々の木々はすっかり紅葉している。春には桜、秋には紅葉が彩りを添える美しい地域だ。
「理由を教えて……」
裕美が愛らしい瞳で見つめている。正直なところ、達彦は裕美には何も話したくはない。彼は、大学卒業後も純樹の一番の友であったから彼の心根を知っている。少しの喧嘩や心の隔たりで簡単に男を変えていく裕美に、少なくとも達彦にはそう思える裕美に、純樹の純粋な気持ちや苦しみを明かしても理解されないだろう。
「君が知る必要は無いと思うけど」
達彦はそう言って欄干に身を寄せ、広々とした川面の清らかな流れを目で追った。同じように欄干に並んだ裕美が、不可思議な表情で達彦を見上げる。その瞳には涙が浮かんでいた。
「本当に悲しいの?」
達彦が裕美を冷たく見下ろしながら言い放つ。勝手に純樹を好きになって誘惑し、転がり込み、勝手に嫌いになって出て行った。達彦にはそう見えている。
「当然でしょう。いくら別れたとは言え、つい3ヶ月前までは愛し合っていたのよ」
純樹の葬儀は実家には戻さずに、彼が住まいの近隣にある葬儀会館で行なった。実家は石川県だが、諸条件を考えてのことなのだろう。
「どうして純樹さんが自らの命を絶ったのか、私も知りたいの。いけない?」
昼一番の明るい陽射しが宇治川の川面をきらきらと賑やかに照らしている。
「純樹さんが君に振り向くまでは、彼の無実を晴らすために必死で尽くしたり、幼少の頃の出来事を持ち出して運命的な出会いを演出したりしたけど、一度愛されていると実感すると、途端に身勝手な女へと豹変する」
川面に冷やされた爽やかな秋風が、やや熱くなった達彦の胸をすり抜けていく。裕美と純樹が付き合っていた約2年の間、達彦は純樹との交友を通じて裕美の態度や心境の変化を感じ取っていた。裕美と付き合った体験があるだけに、彼女の変化は手に取るようにわかり、嫌な別れを二度体験したような嫌悪感を抱いている。
裕美は風に髪を洗いながら黙って川面の流れを見つめている。達彦は甘い香りのする秋の空気を胸一杯に吸い込んでから、自然と頭に浮かんだ言葉を口にした。
「君はいつも自分の魅力を確認している。自分が気に入った男と出会うと、何とか自分に振り向かせようとする。でも一旦思い通りになればそれで満足。つき合っていても楽しくない。そこへ他の男が現れると、今度はその男に自分の魅力を認めさせようとする。それは、より理想的な王子様を探しているように見えて、実はより高い自分の価値を証明しようとしているに過ぎない。色恋以外に何の興味も持たない君は、そうすることでしか自分の価値を自覚することができない」
裕美は優しい秋の陽射しを浴びたままじっと川面を見つめている。達彦の脳裏に、なぜかあの夏の事件の記憶が浮かんでは消えていった。
「純樹さんもあなたと同じだった。結局は自分の性欲を満たす対象でしか女を見ていない。私にすれば、あなたも純樹さんも単なる雄でしかない」
達彦がついさっき感じた、学生時代の裕美との思い出の香りが再び彼の胸中に広がった。裕美の言うとおり、確かにセックスに溺れた一面もある。だがそれだけではない。温かい心を通わせて相手の思いやりに感謝しあったり、感動しあったりした思い出もたくさんある。
そんな様々な思い出を極端なひと言で片付けられた達彦は、淡い思い出の結集であるアルバム写真を目の前で引き裂かれたような冷徹な震撼を覚えた。
「単なる雄か。それは君が単なる雌だからだよ」
達彦は、裕美を非難することで裕美との美しい思い出を守っている自分が可笑しかった。こんな言葉で彼女を傷つけたくはない。思えば昔もこんな風であったような気がする。
「純樹さんやあなたが、私に人間らしい愛情をたくさんくださったのね?」
裕美は皮肉な笑みを浮かべて鋭い視線で達彦を捉える。昔もずっとこんな風だった。達彦が勝気な裕美に剥きになって相手を傷つける言葉を吐くと、それに輪を掛けて冷たい言葉を浴びせ掛けてくる。それがふたりの常だった。
あの夏のビーチバレー大会で久しぶりに裕美と近づき、純樹を中心にして接している時はこんな風ではなかった。その後も常に純樹が二人の間にいた。その時には良好な関係を保っていたのに、純樹がいなくなるや元どおりの関係に戻ってしまった。
「もう止そうよ、傷つけ合うのは」
だが裕美は無言で睨んでいる。達彦はゆっくりと歩き始める。橋を渡り、中洲に渡り、係留してある観光用の浮舟が見える川辺で足を止めてから、灰色の石材でできたベンチに腰を下した。
「俺も最初からちゃんと話せば良かった。どうしても君の行動が許せなくて、つい……。俺がとやかく言う立場じゃないのに。申し訳ない」
裕美はしばらく突っ立ったままで青い空を見上げていたが、やがて柔和な笑顔を浮かべて彼の横に並んで座った。
「きちんと話すから、君も最後まで冷静に聞いてくれ」
裕美は、達彦の記憶に残っている最も美しい笑顔で静かに頷いた。
「君は、純樹さんと愛し合っていたと言ったけど、純樹さんは君のことを愛してはいなかった。いや、愛せなかった。あの人が愛していたのは、やはり静江さんだけだ。君の言うとおり、純樹さんも若い男だから、君の美しい肢体を抱いて雄の欲求に支配されたことも確かだ。本人が認めていた。でも、君に対して本当の愛情を注ぐことはできなかった」
達彦は対岸の風景を見つめたままで、裕美が立腹しないことを祈りながら語っている。
「わかっているわよ。一緒に暮らしていたのよ。純樹さんに愛してもらう努力はしたけど駄目だった。あなたは私が純樹さんを振ったように言うけど、私が振られたのよ」
川面に浮いていた水鳥たちが一斉に飛び立って、弧を描きながら飛び去っていった。裕美は水鳥の飛び去る姿を目で追っている。
「純樹さんも悩んでいた」
達彦は足元の小石を軽く蹴ってみたが川には届かない。
「何を?」
「君を愛そうとしても愛せないことに。いや、他人を愛せないことに苦しんでいた。自分の心に築いてしまった静江さんの虚像に心を支配されたまま、現実のどんな女も愛せないことを不思議にさえ思っていた。君のことを愛している積りが、性欲に支配された自分勝手な愛情だという事実を自覚していた。女に対する愛情がいったい何なのか、全く解らないと言って苦しんでいた」
達彦はそう言うと、ふと先ほどの葬儀の情景が浮かんできた。
焼香の際、純樹の家族と何度か面識のある彼は、遺族の方々に深々と頭を下げて哀悼の意を表した。
彼は遺族の表情を長く見ていることはできなかった。まだ24歳になったばかりの息子を亡くした御両親の悲しみなど想像もできない。
焼香を済ませた達彦は、悲哀の空気から逃れるようにして会館を出た。こんな別れの場面が世間のあちらこちらで、まさに日常茶飯事の如く行われていると思うと、人生の冷酷さに恐怖すら覚えた。
「純樹さんは、他人を愛せないんじゃなくて自分を愛せなかったのかも知れない。いつまで経っても自分を許せない。静江さんを裏切った自分が許せなかった。だからそんな自分を愛せる訳がない」
二人の生活を思い起こすような静かな口調だ。
「自分を信用することもできなかったのだと思う。純樹さんがこの世で一番信用できないのは自分自身だったのかも知れない」
達彦は、今思い浮かんだ言葉を口にして裕美の美しい横顔を見つめた。
「辛いわね、そんな人生」
裕美の心はまだ、過ぎ去った生活の中にいるようだ。観光客の団体が橋の上から両岸の風景を写真に収めている。そんな平和な様子を見つめながら裕美が、
「でも、純樹さんは以前からずっとそうだった。ずっと自分を許せなくて苦しんでいた。それがどうして今なの?何かきっかけがあったとしか思えない」
と、突然現実に戻って切れのある口調で言った。
「あったよ。でも君との別れは関係ないよ」
達彦は、裕美の心が少しでも軽くなるように配慮したつもりだ。
「そう。じゃあ良かった」
なぜか裕美は怒気を露にして暖かな日和の空気を冷たく引き裂いた。もし自分が原因だとすると責任を感じて辛いと言い、原因でないと知ると自分の存在の軽さに憤る。恐らくそんなところだろうと裕美の我がままを想像してみた。
「ごめんなさい」
裕美は小さく溜息をついてから立上る。そして数歩歩んで堤の端で深呼吸をした。彼女もまた、自分自身の性《さが》に苦しんでいるのだろうか。
達彦を振り返った素顔は久しぶりに素直で明るい表情だ。達彦は過去に鎮めた裕美への思いがドキリと疼いたようで、息を詰まらせたまま彼女に見惚れてしまった。
「どうしたの?」
裕美の言葉で我に帰った達彦は、内ポケットから封筒を取り出して一枚の手紙を抜き出した。柔らかな笑顔を浮かべたまま彼に再び近寄ってきた裕美は、
「何、それ……」
と、手紙を覗きながら彼の横に腰掛ける。
「返事。静江さんが純樹さんに送った、最初で最後の返事。先月純樹さんと飲んだ時に見せてもらった。そして先週、純樹さんが俺宛に郵送してきた」
達彦から手渡された手紙に裕美は目を通す。
『長い間お手紙をくれてありがとう。私は純樹さんのことを愛しています。でも、いくら考えても、どんなに勇気を奮い立たせても、あなたと一緒に人生を歩むことはできません。あなたは私のことを忘れて、新たな人生を歩むべきです。自然にあなたが離れてゆくことを願って返事を書かないでいた手紙なのに、心のどこかで楽しみにしていました。手紙が来なくなることを願いながら、来なくなる日が恐かった。あなたの手紙のおかげで、私は純樹さんと一緒に高校を卒業し、大学生活を楽しんで来たような気がします。そして今は一生懸命に仕事をしている気分。でも、本当にもう終わりにしてください。もう手紙は書かないでください。私のことは忘れてください。たった一通ですが、最後にお礼の返事をお送りします。長い間本当にありがとう。そしてさようなら……』
何度も読み返す裕美の瞳から涙が溢れてきた。
「どうしても一緒になれなかったのかしら……」
涙で声を詰まらせながら、誰に言うとでもなく裕美が言葉を漏らす。
「さあ、俺たちが理解できる話じゃない」
達彦はそう言ってハンカチを差し出した。
「静江さんも辛かったでしょうね、純樹さんのためを思って別れを告げるのは……」
裕美はハンカチで涙を拭いながら言葉を続ける。
「純樹さんは複雑な気持ちだったでしょうね」
彼女は大きく息を吸ってから、
「静江さんが純樹さんの人生を考えた上で、身を切るような思いで出した結論なのに……。純樹さんはこの結論に絶望してしまったの?」
と、憂鬱な瞳で達彦に尋ねる。
「純樹さんは絶望なんてしていないよ」
達彦は微笑を浮かべて裕美を癒そうとする。
「え?」
裕美は子供のように幼い瞳で彼を見つめる。
「純樹さんは、この手紙を俺に見せて笑っていたよ」
子供に接するような優しい瞳で裕美を見つめている。
「どういうこと?」
裕美の瞳は性急に説明を求めている。
「だって、静江さんが今までの手紙を全部読んでいたんだから。そして静江さんは今も純樹さんのことを愛している。ずっと離れていたけど、一方通行の手紙だったけど、愛は通じていた。二人は愛し合っていたということが明確になった」
達彦の笑みが更に大きくなって彼女の悲しみを包み込む。
「でも別れを告げられたのよ?」
裕美は疑心暗鬼な表情で達彦の言葉を覗き込む。
「これは別れの手紙じゃない。どう見てもラブレターだ。純樹さんのために静江さんが我慢することを告げたラブレターだ。純樹さんは全く気にしていなかった。手紙を止める気もなかったよ。逆に嫌われるまで書き続けると言っていた。だって、静江さんが本当に別れを望むなら、静江さんに嫌われた方が彼女の心の負担が少なくて済む。純樹さんはそう言っていた」
微笑で包んだはずの裕美の瞳から再び涙が零れ落ちる。
「じゃあ、じゃあ、どうして純樹さんは……」
達彦はその答えを言葉にしようとした瞬間、急に涙が溢れそうになった。だが、その涙を飲み込むようにして大きく呼吸をしてから、裕美を見つめ冷酷な言葉を吐いた。
「静江さんは、純樹さんと別れようとしていたんじゃない。静江さんは、静江さん自身と別れようとしていたんだ」
穏やかに語り尽くそうと努めたが、最後はとうとう涙声になってしまった。
「まさか……」
裕美の身体が硬直する。
「この手紙が届いた後、しばらくして静江さんは自らの命を絶った……」
達彦の瞳から涙が滝のように流れ出している。その涙を裕美に見られまいと、彼は抜けるように青い空を見上げた。裕美は達彦の手を両手で固く握ったまま俯いて嗚咽した。彼女の背中は小刻みに震えている。二人は、お互いの動揺が鎮まるまでそのままの姿勢でじっとしていた。裕美の手から熱い心が届いてくる。学生時代の、純樹を中心とした色々な思い出が二人に蘇ってきた。
達彦は裕美の手を握ったまま立上がり、そのまま手を引いてゆっくりと川辺に近づき、秋色の風景に目を馳せた。遠い山肌の所々で自然の樹木が紅い息をしている。
二人の見渡す限り宇治川は真直ぐに伸びている。達彦は、脈々と流れ続ける川の流れを見つめていると、純樹がどんなに悩んでいる時も、苦しんでいる時も、楽しんでいる時も、彼の心の底流には不変のものが流れていたような気がしてきた。
それは、純樹と接していた時に時々感じていた迫力であり、胆力であり、頑固さでもあった。
「私ね、ずっと純樹さんのことを誤解していたような気がする」
裕美が静かに話し始めた。
「学生時代に純樹さんと出会って、あの夏の事件で純樹さんの過去を知ってからずっと思い込んでいたの。純樹さんは、自分の過去を受け入れられずに苦しんでいるんだと。自分の人生で起きてしまった不幸な事実を受け入れることができずに、それが呪縛となって前に進めないでいる。そんな風に考えていた。だから、彼の現実の愛欲を満たすことで呪縛から解き放ってあげたいと思ったの」
裕美の髪が秋風に流れている。
「でも、間違いだった。純樹さんはちゃんと受け入れていた。そして過去の不幸も、罪も、全て自分の人生に埋め込んでいた」
彼女はそう言って流れた髪を整えた。裕美の言葉を聞いた達彦は、全てを自分の人生に埋め込んでいたと言うフレーズに大きな衝撃を覚えて、青空に問い掛けた。
「純樹さん。もしかして……」
一度言葉を飲み込んだ達彦は、泣き出しそうな声で小さく叫んだ。
「もしかして、ずっと前から死ぬ時を決めていたんですか!」
そんな彼の叫びはもの悲しい香りを含んだ秋風に流され、裕美は、清らかだが力強い宇治川の輝きにいたたまれない悲しみを流そうとした。
そんな二人の前を、紅く色づいた一葉の紅葉が、激しい川の流れに翻弄されながらも懸命に浮揚しながら流れ去っていった。
相手を思いやる気持ちと自分の我侭を許す気持ち。バランス良く保ちたいものです。
ご愛読ありがとうございました。




