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第4話 恋とは、どんなものかしら。

「それで? 真也は俺にどうして欲しいの」


 冷たい声とは裏腹に、稜司はひどく愉しそうに唇の端を吊り上げてくすくすと笑う。

「なんで真也が怒るの? 関係ないよね?」

「か、関係なくねーだろっ! 一緒に暮らしてるんだし……」

「だって俺は同居のお約束は守ってるよ? 外泊する時や遅くなる時はちゃーんと連絡入れてるっしょ?」

 そう言われてぐっと言葉に詰まる。

 ……確かに、稜司はこの同居を始める時に決めた約束事はきちんと守っている。

 それでも……見過ごせない。こんな状態の稜司を放ってなんておけない。


「約束とか、そんな問題じゃないだろ」

「……へぇ? じゃ、どんな問題?」

 稜司の掠れた吐息混じりの声が、疑問符だらけの言葉が、真也をゆっくりと追い詰めていく。

「俺と真也は、ダブルブッキングのトラブルで部屋をシェアしてるだけ。違う?」

「ち、違わない……けど……」

「じゃあ、もう話はおしまいでいいだろ。お前には迷惑掛けないようにするし、真也がここを出るまでお互い気持ち良く暮らそうぜ」

 なっ、と口元だけで微笑み、稜司は真也の腕を外そうとする。

 それに抗い、手の力を強める。

 今、この手を離したくないと――理屈でなく本能でそう思った。


「お前、そいつのこと最低のクズ野郎だって言ってたじゃないか! なのに何でそんな奴の言いなりになってんだよ!?」

 殴られて、浮気されて、ボロボロになって逃げてきて。

 それなのに、どうしてまた自ら囚われるような真似をするのか。

「まさか、脅されてたりするのか? だったら警察に……!」

 そうだ。きっとそうだ。

 でなければ、稜司があんなヤクザ崩れの男に入れ込む訳がない。


「話聞いたけど、そいつ、マトモに働きもしないで稜司にたかってたんだろ!? それってヒモじゃん!」

「……真也」

 子供を宥めるような口調で名前を呼ばれる。そんな上辺の話し方にも、ひどく腹が立った。

「何なの、ホント。……そーゆー子じゃなかったっしょ、真也は」

「…………わかんねぇよ……」

「どうしたの。恋愛事、苦手なんだろ? だったら逃げなよ。なんで関わろうとするの」

 ぷつりぷつりと切れる言葉から、稜司の苛立ちがにじみ出ている。

「ねぇ。なんで離してくれないの。変だよこんなの」

「だから、わかんねぇんだってば!」

「…………ッ」

 衝動のままに声を荒げ、掴んだ腕を引く。見上げた稜司の顔が、一瞬だけ泣きそうに歪んだ。


「……っ……ホント、お前、馬鹿。今の内に、逃げればよかったのに」

 ばか、と瞳を伏せて、もう一度言われる。

「真也は、馬鹿だ。……なんで、俺なの。ちょー笑える」

 稜司の声が震える。泣いているのかと思ったが……違う。

 彼は――静かに笑っていた。


(え……?)

 ぞわり、と例えようもない恐怖が真也の心を支配する。


「ああ……もう。可哀想だね、真也。でもねぇ、俺、優しくないから」

「…………っ!?」

「『それ』、自覚する前に、壊してあげる」

 以前、浅川に向けたものと同じ――あの病的な微笑みを浮かべ、稜司は真也に視線を落とした。


「真也――俺のこと、好きなんだろ? でも、駄目だよ」


「――ッ!?」


 何を言ってるんだ、と否定する間もなく、心臓を握り潰されたと思う程の痛みが胸に走る。

 あまりの衝撃に、目の前がぐらぐらと揺れた。

(好……き……? 俺、稜司を……?)

 どくん、どくん、と鼓動が身体を震わせ、やっと自分の心臓がちゃんと動いていることを自覚できる。


「……あ…………」

 フローリングの床にぼたぼたと水滴が落ちる。

 一滴、二滴。そこから続けて止めどなく。

(……な……なんだ、これ……)

 声が出ない。鼻が詰まって、喉がひりついて呼吸が苦しい。

「……っ、ぅ……ッ……う……」

 ――どうして。

 どうして、自分は今、泣いているのだろう。


 あははと声を上げて、稜司が笑う。

 楽しくも何ともないといった風に、ただ乾いた声色で。

「あれっ、ショック受けちゃった? ごっめんねぇ。でもホントのことだもんねー」

 しゃくり上げることしかできない真也を見て、稜司は肩を竦めてみせる。

「そんなに、俺のこと好きだったの? 失恋して泣いちゃうくらい?」

「……っ……ぅ……、ッ」


 ぼろぼろと涙が落ちる。

 ――最悪だ。

 自分でもよく解ってない気持ちを、芽生える前に粉々に砕かれるなんて。

 そんな最悪のことをしでかした野郎は、目の前でゲラゲラ笑っている。

(……ホント、最悪だ……くそっ!)


「どうして欲しかった? あいつと別れて、お前の物になればよかった? 抱かれたい? それとも抱きたい?」

 稜司は前髪を掻き上げ、唇を舐める。

 わざと見せつけるような色を帯びた仕草で、真也を煽った。

「キスでもする? あっ、でもこのままじゃ真也届かないかぁ。屈んであげようか? ほらほら」

「……く……っ……」

 首を傾けて瞳を覗き込まれ、吐息が掛かりそうに顔を近付けられる。

 その仕草はとても甘いのに、伝わってくるのは冷たさばかりだ。


(怖い……ううん、違う)


 湧き上がる感情は、恐怖に似ているが違うものだ。

 身体中が震える。

 ――これは、一体何だろう。


「ね……あいつみたいに、俺のことぐちゃぐちゃにしたい? 殴りたかったら、殴ってもいいよ?」

「……な、に……言って……」

「あのねえ、俺、殴られてる時の顔がイイんだってー。あはは、最低だよねえ。それからねぇ、シてる時に首絞めるとあっちもイイんだってー。あっははは! どーよそれ、使い古されたAVシチュみたいですっげぇ馬鹿っぽいと思わね?」

「――――っ!」

 延々と続く狂ったような笑い声を止めたくて、真也は思わず手を振り上げた。

 ぱん、と掌が頬を打つ乾いた音が響き、それがスイッチとなったかのように静寂が場を支配する。

「…………」

「……稜、司……っ」

 叩かれた頬を押さえもせず、稜司は静かに視線を床に落とした。


「なんで……なんでだよっ、どうしてお前は、そんな傷付いてまで……そいつに拘るんだよ!」

 稜司の頬を打った掌がじんじんと痛む。

 たったこれだけで、こんなに胸が軋んで心が引きちぎれそうに痛いのに――。

 なのに、あの男は何度も稜司に拳を振るったのだろうか。

(殴られて、蹴られて、本当にひどい怪我で入院までしたって……浅川さんが言ってた)

 顔の形が変わるほど、骨が折れるほど殴られ続けて。浮気されて、不実な振る舞いをされても。それでも、稜司はずっとその男の傍に居続けた。

 一度別れた今も、忘れられずに……また、こうして。

 何が稜司をそうまでさせるのか、真也には理解できない。


「…………うるさい」

「……稜司ッ!!」

「うるさいな……」

 稜司の声色が徐々に変化していく。

 彼は腹立たしげに歯噛みし、前髪をくしゃりと握った。


「もう、やめろよ! そんな奴のどこがいいんだよっ!!」

「――うるっさい! 好きだからに決まってんだろ!! ……好きなんだよ……どんな事をされたって、どうしようもなく好きなんだ!」

「…………!!」

 絶叫に近い声で、稜司が言葉を荒げる。

 見開いた瞳から涙の粒が溢れ、殴られた痣の残る頬を伝って落ちていく。

 稜司がこんな風に自分を乱す姿なんて、初めて見た。

「~~っ、俺だってわかってんだよ、こんなのおかしいって!! 解ってるのに……離れられない……っ」

「……稜司……っ……」

「好きだ……あいつのことが、好きなんだよ!」

 零れる涙の雫と、悲痛な叫びに胸が締め付けられる。


 『好き』って、いったい何なんだろう。

 こんなにも人を狂わせる、恋愛という強い感情は……どこから生まれてくるんだろう。

 稜司も……妹も。どうしてこんなにも、人は人を好きになって、一生懸命になれるんだろう。


「……りょ……じ…っ…」

 震える稜司の身体を抱き締めると、自分の身体も震えていることに気付いた。

「真也……」

 二人ともが、声を上げて泣いていた。

 何を言えばいいか、解らなかった。

 どこかから湧いてくる熱いものが、胸を震わせて、涙となって、身体と心を支配する。

「……ぅ……っ、あ、あぁ……っ」

 稜司の泣き声が耳のすぐ側で聞こえ、渦巻く感情が真也の中に満ちて、溢れていく。

(……稜司……、稜司……っ)

 名前を呼んで頭を撫でてやりたいのに、自分の口からもひどく情けない嗚咽しか出てこない。

 抱き合って、ただ一緒に――幼い子供のように泣くことしかできなかった。


「う……っう、っ、え…っ……」

「……真也…っ……」

 強く抱き締められ、瞼に稜司の唇が触れる。

 その優しい感触だけで、また熱い涙が止めどなく込み上げてきた。

「泣か、な……で……真也……」

「……っ…ぅ、…稜司……っ……」

 稜司は涙混じりでしゃくり上げながら、ぺろりと真也の涙を舐め取る。

 傷を負った獣が癒すように、何度も、何度も。


 隣に並んで眠った時と触れる体温は同じはずなのに、今はどうしてこれ程までに熱く感じるのか。

 あの時はあんなに穏やかな気持ちだったのに、どうして今はこんなに苦しいのか。

(――ああ、そうか。これが、そうなんだ)

 真也はこの感情の名前を唐突に理解した。


 三重苦の少女が、水に触れた時のように。電流が走ったかのように。

 この身体を震わすものこそが……『恋』という感情なのだと。


(俺の中にも……ホントにあったんだな……)

 誰かに恋をするということは、こんなにも熱いものなのか。

 頭の芯が痺れる。胸の奥が痛い。呼吸ができない。

 熱くて、苦しくて、怖くて――狂おしいまでに甘くて。頭がおかしくなりそうだ。




◆ ◆ ◆




 どんなに辛い夜でも、時は巡りやがて陽は昇る。

 窓の外の空が白み、鳥の声が聞こえてくる頃にようやく二人ともが呼吸を整えた。


「……ひっどい顔」

「稜司だって、ひでぇよ」

 泣き腫らした瞼に、真っ赤な目と鼻。ひぃひぃと引き攣れた呼吸しかできなかった喉も、すっかり嗄れている。

「朝だな……」

「うん」

「真也……学校、どうする」

「……サボる」

 さっきまでの激しい感情の反動か、脳の処理速度が通常の十分の一以下になってしまったかのようにぼうっとする。

 こんな、頭にぎっしり綿が詰まったような状態で行ったって、授業の半分も理解できないだろう。


「……俺も、大学サボろっと。今日は一日だらだらするー」

「つか、すっげぇ眠い」

「うん。眠いな。倒れそうに眠いー」

 稜司の言葉に同意する。目が回りそうな位に、眠くてたまらない。

「寝よっか。……一緒に」

「……ん」

 だるい身体をのろのろと動かし、二人でリビングに寝床を整える。

 倒れ込むようにして、布団の中に潜り込んだ。


 早春の朝らしく、清らかで儚い陽光が世界を包む。

 穏やかな光の中、夜明けを告げる鳥の声を聞きながら目を閉じる。

 身体の隅々までが、まるでオーバーヒートしてしまったかのように重かった。

 疲れ切っていて眠いのに、心のどこかが熱を放っているのか微睡むことしかできない。

 隣の稜司が深く嘆息する気配を感じ、真也も同じように息を吐いた。


「真也……まだ……起きてる?」

 吐息混じりの掠れた声。身動いで、こちらの方を向く気配。

 二人の間で温まった空気がふわりと動いて、何だかそれだけでまた泣きたくなってしまったから寝たふりをした。

「……寝ててもいいや、聞いて」

 言葉にまた別の吐息が混じる。稜司は、微かに笑みを浮かべたようだった。


「酷いこと言って……ごめん。いっぱい泣かせて、ごめんな」

(………………)

 今までたくさん、亮司の声を聞いてきた。

 おちゃらけたり、ふざけたり、底抜けに明るい声。

 頼りがいのある兄のような、優しくて真面目な声。

 狂気を覗かせるような冷たい声も、慟哭するような熱い声も。

(でも、この声は……初めて聞く……)

 甘く、優しく、蕩けそうな響き。

 溶けたチョコレートの海に放り込まれたみたいだ。


「ねぇ、真也。俺なんて、やめときな。面倒くさいよ?」

(…………っ!)

 くすっと小さく笑う気配がしたと思ったら、指先で髪を撫でられた。

「真也はいい子なんだから、俺みたいなのに引っ掛かっちゃダメだよ。……聞こえてる?」

 柔らかい響きに身体が勝手に反応しそうになって、必死で寝たふりを続ける。

 髪を撫でていた指が、するりと瞼に触れ、頬に滑る。

「ごめんな。真也は……もっと可愛くて優しくて、真也を大切にしてくれる子を好きになりな。俺なんかじゃ、ダメなんだよ」

 ごめん、と稜司は何度も繰り返す。

 こんなに優しい声なのに、胸がぎゅっと締め付けられて、嘲笑されていた時よりもずっと痛くてたまらない。


「俺に同情して、引きずられて……錯覚して、悲しいのは今だけ。もう、泣かなくてもよくなるから」

(――――……ッ、……)

「俺達はダブルブッキングのトラブルで、ほんの短い間同居するだけの間柄。ただそれだけ。……そんな相手のために、真也は泣かなくてもいいんだ」

 指先が目尻をなぞり、いつの間にか溢れていた涙を拭っていった。


「……りょ……じ……っ」

 目を開けると、すぐ傍で稜司が微笑んでいる。 ほんの数センチの距離なのに、朝の光に融けてしまいそうだ。

「稜司……っ、稜司……」

 この時間が消えてしまうのが怖くて、必死に手を伸ばす。

 抱き締める腕を振り解かず、稜司は優しく笑って受け止めてくれた。

「大丈夫。これは今だけ……」

「――っ!?」

 唇に吐息が触れ、ゆっくりと重なる。

「目、閉じて」

「……りょ……」

 そっと触れるだけだった唇が、角度を変えて強く合わさっていく。

「ん……ッ……」

 これは、おやすみのキスじゃない。恋人のキスだ。

(きっと、最初で最後の――)

「真也……」

 は、と稜司の口から熱い息が漏れ、それに煽られて真也の身体も熱を帯びる。


「眠って、目が覚めたら、忘れる。お互いに……ただの同居人に戻ろう」

「……うん」

 抱き合い、口付けを交わすのは眠りに落ちる前のこのひとときだけ。

 これは……夢の前の、夢。

 真也はきつく瞳を閉じて、与えられる感覚に身を委ねた。





◆ ◆ ◆





 夢も見ず、ぐっすりと眠って起きたら昼を大きく回っていた。

「……ん……あれ、稜司……?」

 隣で寝ていたはずの稜司の姿がない。

 体を起こして首を巡らせると、キッチンの奥から声を掛けられた。


「起きたか。おはよ」

「……おはよう。って、もうとっくに昼過ぎだけど」

「良き目覚めの時は全て『おはよう』でいいの。ほら、もうすぐ朝飯できるし顔洗ってこい」

「昼じゃん……」

「そーゆーツッコミはいいの! ほら、早く!」

 急かされて、のろのろと洗面所へ向かう。

 立ち上がった真也の背後で、稜司が手早く布団を片付けていた。



 冷たい水で顔を洗い、鏡の中の自分と目を合わせる。

「うわ……マジひっでぇ顔……」

 泣きまくったせいで目がしぱしぱするし、周りが熱を持ってひどく腫れている。

「これじゃ、今日は外に出られないな」

 学校を休んで正解だったと、水を含ませたタオルで瞼を冷やしながらそう思った。






 戻ってくると、リビングに食卓の用意が調っていた。

 稜司と自分の泣き腫らした顔以外は、もうすっかり普段通りの日常だ。

「……ホットケーキ?」

 皿の上には、きつね色に焼き上がった薄めの生地がこれでもかと積まれている。

 漂ってくるバターとバニラの甘い匂いに、甘い物が苦手な真也は思わず顔を顰めてしまった。

「パンケーキ。全粒粉であんま甘くないやつだから、スクランブルエッグとか載っけて食うとうまいよ」

 そう言いながら、稜司はたっぷりのバターを載せてメープルシロップをどぼどぼとかけている。

「うわ……起き抜けからよくそんな甘い物食えるな」

「もうすぐ3時だし、おやつの時間だもーん」

「おはようはどこ行った……」

 パンケーキを切り、塩胡椒のきいたスクランブルエッグと一緒に口に放り込んだ。

 なるほど。確かにこれは、ほんのりした甘みに塩気のある玉子がアクセントになって美味しい。


「まあ、俺が甘い物好きだってのもあるんだけど……心が疲れてる時って、あったかくて甘い物が効くんだよ」

「……ふぅん…………」

 シロップでびしょびしょになったパンケーキを頬張り、稜司はやんわりと微笑む。

 その笑顔は朝の穏やかな光を思い出させて、真也の胸をちくりと痛ませた。

「シロップ、取って」

「え?」

「俺も……疲れてるっぽいから。あったかくて甘いの、食べる」

「……うん」

 メープルシロップの小瓶が、窓から入る昼下がりの陽光を反射してきらきら輝く。

 光に透ける琥珀色の蜜をパンケーキに落とし、真也は甘いそれを口に入れた。

「……あまっ」

「でも、今はこれが……美味しいだろ?」

 くすりと楽しそうに笑われ、その言葉に頷いた。

 甘さと、温かさがじんわり身体に染み込んでいく。涙で浸されて塩辛くなった心が、ゆっくりと癒されていくような気がした。


「あのさ……。嘘吐いて、心配掛けて……ごめんな」

「……え」

「これは、謝ってなかった気がするから」

「ん、ああ……」

 稜司は何度も何度もごめんと繰り返していたが、そういえばそうかもしれない。

「もう、いいよ。……でも、俺、稜司が殴られんのはやだ。すげぇ嫌だ」

「うん……」

 困ったように眉を下げ、稜司が苦笑する。

「……別れる気、ないの? その……そんなに、そいつのこと好きなのか?」

「どうなんだろうなぁ……正直もう、自分でもわからないんだ」

「わからないって……自分のことだろ」

 うん、と頷き、稜司はシロップを自分の手元に引き寄せて、またくるりとパンケーキの上に垂らした。

「あいつに対するこの気持ちが愛情なのか、単なる意地や執着なのか……答えが出せない」

「稜司……」

「ね、俺よりも。真也の話、聞きたいなあ。……ダメ?」

「え……?」

 にっこりと笑いながら、まっすぐに顔を覗き込まれる。……これはいつもの話題を変える『逃げ』ではない。


「なんで一人暮らしを始めたのか……真也のこと、知りたい」

「……っ、でも…………」

「話したくない? ……でも、俺、聞きたいよ」

「う……」

 どきん、と胸が鳴った。

 いつもするりと何事も躱し続ける稜司が、こんな風に食い下がってくるなんて――初めてだ。


「ん、と……そう言われても、何から話せばいいんだ……?」

「そうだなあ、話しにくいなら俺がいくつか質問してもいいけど」

「えっと……うん……」

 本当は自分で話し始めるべきなんだろうが……何から話せばいいかわからないし、聞いてもらった方が切り出しやすいかもしれない。


「ん。じゃあ、何か質問してくれよ」

「そうだなあ……じゃ、この時季外れの一人暮らし開始は、恋愛に関係ある?」

 いきなり核心を突かれ、ぐっと言葉に詰まってしまう。……やっぱり、こいつは鋭い。

「……ある。つか、それが原因」

「ふむふむ。なに……振られたの?」

「違う!」

 深呼吸をして、気持ちを落ち着ける。……勢いもついたし、今なら話せそうな気がした。


「うち、俺が小さい頃に両親が離婚しててさ、ずっと母子家庭だったんだ」

 真也がぽつりぽつりと語るのを、稜司はじっと見守っている。

 くすぐったい感じがしたけれど、心強い気もした。

「……で、去年母親が再婚してさ。新しい父親ができたんだ」

「へぇ、よかったじゃん。……って、もしかしてその新しい父親とうまくいかなかったとか?」

「ううん、義父さんはすげぇいい人。俺のことも分け隔てなく接してくれるし」

「ふぅん……ってことは、新しいきょうだいが出来たってことか。生まれたの? それとも連れ子?」

「え、なんでわかんの!?」

 驚く真也に、稜司はふふんと得意げに笑いかける。

「分け隔てなくって、言ったじゃん。ってことは、そのおとーさんには実子がいるってわかる。だろ?」

「そっか……。うん……義父さんの連れ子。二つ下の、女の子。すげー可愛い」

「妹、かぁ」

 カップを傾け、コーヒーを一口飲んでから稜司は軽く溜め息を吐いた。

 もう、ここまでできっと話の顛末を理解したのだろう。


「新しい家族は本当に上手くいっててさ、四人ともすごく幸せだったんだ。もう、ドラマみたいな仲良し家族って感じでさ」

「うん、真也いい子だもん。お父さんとも妹とも仲良くなれるだろうな」

 手を伸ばし、くしゃりと頭を撫でられる。……この先を話す事に対し、勇気を分け与えるように。


「妹も、すぐに懐いてくれた。血の繋がった兄妹より、きっと仲良くなれたんだと思う」

 明るくて、素直な可愛い子だ。

 お兄ちゃんって、はにかみながら呼ばれるのがくすぐったくて嬉しかった。

「でも……俺は間違えたんだ」

 好かれていることが心地良くて、浮かれていた。

「俺は――彼女の心の奥底にある気持ちに、気付いてやれなかった」

 もっと好かれようと、優しくした。……結果として、彼女の恋心を知らず煽ってしまった。


「知らない内にってのは、言い訳でしかない。いや……もしかしたら、俺は薄々勘付いていたのかも」

 盲目的に向けられる感情を受け取り続けて、自惚れていた。

 どこかでブレーキを掛けなければいけなかったのに……決定的なあの言葉を言わせてしまった。


『私はお兄ちゃんが好きなの! 妹なんかじゃなく、一人の女の子として見て欲しいの……!!』


 泣いて、泣いて、泣いて。

 可哀想なくらいに憔悴して、心身に不調をきたすまでになっても、それでも彼女は諦めずに縋ってきた。

 家族の愛情を超えた、『恋愛』という力をまっすぐに真也へ向けて。


「俺達は、兄妹なのに……!」

「……でもさ、血は繋がってないんだろ。互いの気持ちさえちゃんとあれば、問題ないと思うけど」

 稜司の言葉には、首を横に振って否定する。真也の中で、それはあり得ないことだった。

「駄目なんだ。俺は、あの子のことは妹としか思えない」

「そっか……それなら、仕方ないよなぁ……」

「それに、何よりも……せっかくできた新しい家族を、恋愛なんかで壊されたくなかった。父と母と妹と、普通の家族でいたかったんだ!」


 だから、あの居心地のいい家から逃げた。

 こんな事になっても、両親は決して真也達を責めなかった。

 時間と距離が解決してくれるさ、とそう言って、真也の一人暮らしを了解して後押ししてくれた。

 妹も……傷付いた心で頑張って、精一杯の笑顔で見送ってくれた。





「そうか……。だから、真也は恋愛事から逃げてたんだな」

「……うん」

 怖かった。

 人との間にある関係をたやすく打ち壊してしまえる、恋愛という強い感情がただただ恐ろしいと思った。


「それでもさ。どんなに怖くても、人間は恋をするんだ。……だって、そういう風にできているから」

「……そうだな……」


『恋は素晴らしいものだよ。人は恋をしないと生きていけない。これから……いっぱいするといい』


『楽しい恋も、辛い恋も、全部が真也を満たすから』


 稜司の言っていた言葉の意味が、今なら理解できる。

 苦しいけれど、この感情を無駄だとは思わない。

 自分がそうであるように、彼女もそうであってくれたらいいと……身勝手だと思いつつもそう祈った。


「俺なんかはさー、恋愛体質っての? 常に誰かを好きでいたいよ。その方が、苦しくても楽しいから」

 へらりと、この上なく幸せそうに稜司が笑う。

 甘い声で恋の素晴らしさを説く。……あんなに泣いてたくせに。


「……バカだなあ、お前」

「何それっ、真也に言われたくなーい!」


 稜司は、馬鹿だ。

 そして……自分も。大馬鹿だ。

 ――恋をした人間はみんな、馬鹿になるんだから。それでいい。

(それで、いいんだ――)





◆ ◆ ◆





 それから数日、二人はこの部屋であっけなく元の暮らしに戻っていた。

 ただの同居人に戻ろうと言った言葉通り、相変わらず稜司は明るくて軽い調子だ。

 大学にも行っているようだし、元カレとはまだ切れていないようだったが殴られてきた痕はない。

 心地良い空気感で、同居生活が再び始まった。

 ……だけど、ほんの少し前とは違っている。


 自分の中に鍵をかけてしまい込んだ感情。

 二人ともが、それに触れないように、見ないように避けながら穏やかに暮らそうとしていた。




「……あ。不動産屋からメール来てる」

「どれどれ?」

 添付ファイルを開くと、いつものように稜司が画面を覗き込んできた。

「ん……結構……いや、かなりいいかも。どう思う?」

「予算、場所、間取り図、申し分なし。パーフェクトだな。後は内覧行って、実際見て気に入ったらオッケーだろ」

「……だよな」

 ここまでの好条件は、そうそうないだろう。資料を見る限りこの404号室に勝るとも劣らない、最高の物件だ。

「……とりあえず、今度の休みに見てくる」

「ああ。良い部屋だといいな」

 ぽん、と軽く頭を撫でられて、何とか無理矢理浮かべた笑顔を向けて頷いた。


 やっと希望通りの部屋が見つかったのに、心はちっとも浮き立たない。

(……痛い…………)

 どこかに棘が刺さったままになっているかのように、じくじくと疼痛が続いている。

(あの日から、ずっと……)

 胸を苛む痛みから目を逸らしながら、真也はパソコンの電源を切った。





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