第2話 温かな眠り
なんだか訳がわからないまま自分の部屋となった一室で、真也は黙々と荷解きを続けていた。
「ええと……ベッドは、これでいいか……」
自分の部屋から持ってきたパイプベッドを組み立て、布団を包んでいた袋を開ける。
今夜の寝床と、着替えと。それから、週明けの学校の用意と。
「あとは……急がなくていいか」
どうせ代替え物件が見つかるまでの間だ。
数日後にここから出ることになるかもしれないし、最低限の物だけを出しておけばいいだろう。
「ホントはベッドも組み立てない方が楽なんだろうけど……」
慣れない環境で、更に慣れない状況で満足に眠れるとは思えない。多少面倒でも、せめて寝る場所くらい使い慣れている物にしておきたい。
「はー……」
敷いた布団にぽふんと顔を埋めると、自分のテリトリーの匂いがしてやっと気分が落ち着く。
(本当に俺、今日からここで暮らすのか……)
ごろりと仰向けになると、見知らぬ天井が見えて違和感を覚えてしょうがない。
「一人暮らし、か」
口に出してみても、まだ実感できない。
つい昨日まで――『家族』と一緒に暮らしていたのに。
(家族……)
その言葉で思い浮かぶ像は、二つある。
母と、遠い昔に去った父と。新たにできた父と……妹と。
「…………っ」
胸に湧き上がる苦い思いを消したくて、固く唇を引き結ぶ。……そうでもしなければ、溜め息ばかりを吐いてしまいそうだ。
「おーい、晩飯できたぞー」
「……えっ、あ、ええっ!?」
コンコン、と軽いノックの音と共に声を掛けられ、驚いて起き上がる。
「あれ? ……寝てんのか?」
「……お、起きてる!」
「おー。んじゃ、早く来いよ」
扉の向こうの気配が遠ざかっていく。
「…………晩飯って……」
◆ ◆ ◆
リビングへ行くと、食卓の用意がすっかり調っていた。
「あ、あのさ……」
「おっ、来たかー。茶碗出してあるから、悪いけどご飯よそってくれ」
「え……うん」
ローテーブルの上には、当然のように二人分の食事が並んでいる。
言われるがまま、重ねられた二つの茶碗を手に取って炊飯器を開けた。
「よっしゃ、できあがりっと! 食おうぜ」
カウンターキッチンからメインの皿を運んできた稜司は、クッションを引き寄せて床に座った。
一汁三菜。湯気を立てる見事な夕飯メニューに、胃が勝手に昼食時を思い出して脳に指令を出す。
(やば……ホントにうまそう……)
自然と湧いてくる唾を飲み込み、稜司に茶碗を手渡した真也もその向かいに座った。
「あ……あの、小林さん、これさ……」
「ん、何? ……あっ、好き嫌いは受け付けないぞ」
「いや、違くて! その……俺の分まで作ってくれんのって……」
「あ、まだ腹減ってなかった? だったらラップして、後で温め直して――」
そう言って、稜司はラップを取りに立ち上がろうとする。真也は慌ててその行動を留めた。
「お、俺、適当に何かコンビニとかで買いに行こうと思ってたから……」
「迷惑だった?」
「――そっ、そうじゃない!」
迷惑どころか。目の前に並ぶ料理から漂う匂いは、凄まじく食欲を誘発してくる。
「だったら、遠慮すんなよ。一人分作るのも二人分作るのも、手間は同じなんだから」
「うん……」
目線で促されて、真也は野菜形の箸置きに置かれていた箸を手に取った。
(にんじん……かな、これ……)
ちらりと向かいを見ると、稜司の前にある箸置きはぽってりした茄子の形だ。
「い、いただきます……」
「はい、どうぞ。おかわりもあるからな」
手に取った箸も、箸置きも、茶碗も、皿も小鉢も。
(よく見たら、全部揃いじゃないか……?)
「おいしい?」
「う……うん。すごく」
よかった、と稜司はにっこりと微笑む。
「んじゃ、食べながらお互い改めて自己紹介な。俺は小林稜司。大学2年の二十歳」
「……月城真也、です。高校2年」
「ああ、やっぱ高校生か! ちっさいし、幾つかなーって思ってたんだよなあ。中学生だったらどうしようって、心配したぜ」
「ちっさ……っ!?」
確かに自分は小柄で童顔だが、悪気なくここまでストレートに言われるとは。
(な、何なんだ、コイツは……)
「ん~、でも高2で一人暮らしってのも珍しいな。しかもこんな季節外れに引っ越しなんて」
「……ぅ、……っ!」
「うわっ、大丈夫か!?」
口の中でつるりと滑った里芋の煮っ転がしを丸呑みしそうになって、息が止まりかける。
「……あっぶないな。ほら、慌てなくていいって」
「……っ、ん……ぷはっ!」
手渡された水を飲んで、ようやく落ち着いた。
「ああ、ごめんごめん。もう聞かないから」
「っ、けほっ、ん……え!?」
「話して愚痴って楽になるタイプならいくらでも聞くけど、お前はその逆っぽいし」
稜司は肩を竦め、表情を微妙に崩す。
「ワケあり、なんだよな。……ああ、その返事もいらない。顔見りゃわかるからさ」
「あ、あんた……」
軽い笑顔でするりするりと言葉の先を読んで先手を打つ。うさん臭いというよりも……全くつかみ所がない。
(ホント、何なんだ。コイツ……)
「ま、気分良く同居生活を送るために。互いの気質は尊重しようぜ」
唇を笑みの形に吊り上げ、稜司はパンと手を打った。
「んじゃ、同居のお約束いってみよーか!」
「お約束……?」
「そ。おはよう、おやすみ、いってきます、ただいま……などなど、基本的な挨拶はちゃんとする事。帰宅が遅くなる時や外泊をする時は、互いに心配しなくて済むよう、連絡を入れる事」
「うん」
なるほど、と真也は頷いた。
共同生活のマナーとして、そのくらいは当たり前だろう。例え短い間でも一つ屋根の下に住むのなら、お互い気持ち良く過ごせるよう努力すべきだ。
「それから、ここ重要」
「……?」
稜司の声のトーンが少し低くなり、真也も思わず居住まいを正す。
わざわざ重要と言うのだから、大切なことなのだろう。
「――女の子を連れ込むのは禁止。やるなら基本は外で。どーしても家に連れ込みたい場合は、鉢合わせしないよう連絡を入れること。おっけー?」
「な……っ!?」
「あ、真っ赤。純情だねえ」
「何が重要だよ! こんなの……っ」
言われるまでもなく、自分の顔が赤くなっている事くらい判る。
こういう恋愛事は元々苦手な上に……今は特に触れたくない。
「…………」
「浅漬け、もーちょっと出そうか。柚子きかせた白菜うまいだろ?」
急に何かのスイッチを切り替えたように、今までニヤニヤ笑いを浮かべていた男が身軽に立ち上がった。
「寒い時期の白菜は甘いし、サラダ感覚で食えるよなー」
「え、ああ、うん」
鼻歌を歌いながらキッチンに入り、稜司は冷蔵庫から浅漬けのタッパーを取り出している。
「とりあえず、冷蔵庫や洗濯機やらレンジやらは好きに使っていいぜー」
「え、でも……そんなの、悪いし」
「気にすんなって! 家電揃えるなら新居に引っ越してからの方がいいじゃん。ここにマジック置いとくから、食われたくない物には名前書いとけな」
「う、うん。ありがと……」
「さて、と。んじゃ後は家事分担だなー」
炊事に、共有スペースの掃除に、ゴミ出し。
テーブルに戻ってきた稜司は、真也の予定を聞きつつてきぱきと一週間の分担を決めていく。
それから食費や光熱費などなど、共同生活を送る上での経費分担。
(コイツ、やっぱり……慣れてる)
さっきから思っていた事が、真也の心の中で段々と明確に浮かび上がってきた。
二人分揃った食器といい、家事といい、人懐こいくせに深入りしすぎない絶妙な距離感とか。
引き際がいいというか……こっちが嫌だと思った感情を、顔や口に出さずともあっという間に読んでくる。
(……絶対、誰かと暮らしてたんだろうな)
これだけカッコイイ奴だし同棲するような彼女がいて当然だとも思うが、今こうして一人暮らしを始めた理由は……まあ、色々あるのだろう。きっと。
どんな人がこうしてコイツと揃いの食器で飯を食って、こんなにも居心地の良い空気を共有していたのか、ちょっとだけ気になった。
「それから、もう一つ。……っつーか、これは俺からのお願いに近いんだけど」
「……なに?」
「俺ねぇ、堅苦しいの苦手なんだ。性格や考え方については尊重する主義だけど、家の中でまで余計な気を回すのは嫌なんだよね」
同意してくれる?と顔を覗き込まれ、反射的に頷く。一瞬でさっきよりもずっと頬が熱くなった。
「――真也」
(え……!?)
不意に名前を呼ばれて、心臓が大きく跳ねる。
「はい、真也も言ってみて。稜司――リピートアフターミー」
「はぁ!?」
「一緒に暮らす間は、フランクに行くの。小林さんってのはなし!」
「……え、えっと…………」
「俺は真也って呼ぶから、お前は稜司って呼んでくれな」
笑顔は明るいが、とてつもなく押しが強い。ここで反論したら、間違いなくあの時の業者相手のように超理論を展開される事だろう。
一日に満たない短い期間でも思い知った。……この男に、口で勝てる訳がない。
「……わかった」
「よっし、素直な良い子にはご褒美~。ほいっ、エビフライを追加してしんぜよう!」
「うわっ、わ……ちょっと!!」
稜司の言葉に頷くと、皿の上におかずを載せられる。その表情は、無邪気に遊ぶ子どもみたいだ。
……変わった奴だけど、悪い奴じゃない。何となくそう思えた。
◆ ◆ ◆
いい代替え物件が出ないまま、同居を始めて一週間。
食卓に並んだ皿を見て、稜司がとうとう溜め息を吐いた。
「えーと、真也……」
「う……」
食事当番は一日交替であったが、稜司の料理は完璧だった。……対して、自分は。
「俺、好き嫌いは全くないし、文句言うつもりもないけど……カレー、シチュー、カレーの鉄壁ローテーションは流石に笑える」
「笑うのかよ!」
「いやいや、出来合いじゃなくちゃんと作ろうとする気概は認めるよ。頑張ってる」
しかし、と稜司はしみじみ感心したように言う。
「お前、よくこれで一人暮らし始めようと思ったな……」
「う、うるさいな! 別に料理なんてできなくても、外食やコンビニがあるし!」
「栄養偏るし、何より生活費が苦しくなるぞ。この部屋に越してこようとする位なんだから、そんなに仕送り多くないんだろうが」
「……っ」
図星を指されて言葉に詰まる。まったくもって、反論できない。
「ま、真也が一人暮らしになっても餓死しないよう、簡単な献立を教えてやるよ」
ふっと柔らかく微笑まれ、尖りそうになっていた気持ちが和らいでいく。
最初は料理下手を馬鹿にされたのかと思ったけど……違う。
(そうか……コイツはそんな奴じゃないんだ)
意地を張って、突っかかる方が馬鹿みたいだ。
真也も力を抜いて、素直に顔を上げた。
「……俺、不器用だし。稜司みたいに複雑な家庭料理とかって……できるのかな」
「違う違う。家庭料理ってのは、簡単お手軽にできるから家庭の定番になってんだよ。でなきゃ、毎日作ってられないだろ?」
「あ、そういえばそうか……」
言われてみて改めて気付く。自分でもやってみて思ったが、確かに炊事を含む家事は毎日の物だ。
一人暮らしをするという事は、全部自分でやらなければならない。日常の生活に無理なく組み込まれるように……できるのだろうか。
「最初から全部できなくていいよ。できる事から始めていけばいいんだって」
「うん……」
「それにさ、真也は掃除得意じゃん。偉いよ。俺が目の届かないとことか、ささっと綺麗にしててびっくりした」
え、と真也は目を円くする。……そんな事、自分でも気付いてなかったのに。
「さー、食おうぜ。今日のカレーもうまそうだ」
「……う……ごめん……」
「なんで謝んの。美味しそうにできてるじゃん」
いただきます、とスプーンを握る稜司の顔を見て、ふと違和感を覚えた。
「あれ……稜司、なんか……顔、おかしくない?」
「……ぶっ! 何だよ、それっ!!」
「あ、ごめん。変な意味じゃなくて……何だろ、なんか変」
「…………あのなぁ」
盛大に咳き込みながら、稜司は涙目でこちらをじろりと見た。
「あ、わかった! 顔色が悪い」
普段より元気がないというか、精彩が欠けているように見える。一度そう意識して見ると、目の下に隈が目立っていた。
「……っ、それは今、こんな事になってるからだよ。あー、苦しい……」
けほ、と咳を抑え、稜司はようやく呼吸を整えた。
「そ、そっか……」
「そうだよ。気のせい! それよりさ、関西人ってカレーにウスターソースかけるらしいな!」
「うわ、そんなのおいしいのかな……」
「うちはトマトケチャップかけるんだけどさー」
「ええっ!? それはないだろー!」
ちちち、と舌を鳴らしながら、稜司は人差し指を振る。
「ハヤシライスみたいになって、うまいんだぞ?」
「だったら、最初からハヤシにすればいいじゃん」
そこからカレーに何をかけるのが正解か、更には目玉焼きに何をかけるかに話題が発展していく。
……話を逸らされたと気付くのは、翌日。事が起こってからだった。
◇ ◇ ◇
ふわふわ、温かい部屋の中で笑い声が響く。
(ああ……みんながいる……)
母と、義父と――義妹と。
中三の春、母と二人暮らしだった自分に新しい家族ができた。
ずっと憧れていた、賑やかな家族。……幸せだった。
『私ね、お兄ちゃんって欲しかったんだぁ』
明るい笑顔の妹。懐いて、好いてくれて。純粋に嬉しかった。
『私……私ね……お兄ちゃんのこと――』
バチン、と電灯が切れたように、一瞬で世界が真っ暗になる。
(駄目だ……それを、言わせちゃ駄目なんだ!)
――壊したくない。
逃げないと。あの子の前から、俺はいなくならないと。
早く、早く、早く。……一刻も早く、あの温かい家から出なければ。
さっきまであんなに温かい場所にいたのに、この闇の中で身体が芯から冷えていく。
(凍り付きそうだ……)
全身が氷に包まれていく中で、ふと新たな温かいものを感じる。
(どうしてだろう……こんなに冷たい世界なのに、右手だけが温かい)
暗闇の恐怖も、この温もりがあれば耐えられる。
(何だろう……でも、すごく落ち着く……)
目を閉じ、ささやかに伝わってくる温かさに意識を委ねた。
◇ ◇ ◇
「ん……うるさい……」
枕元で携帯のアラームが鳴っている。早く止めなければ。
いつものように右手を上げよう……としたが――
(……あれ?)
動かない。……動かないだけでなく、何だかすごく温かい。
一体何がどうなっているのか。真也は未だ残る眠気を必死に振り切る。
「……ん……?」
重い瞼を引き上げて、そろそろとそっちを見た。
「…………え」
寝起きの視界に、信じられない光景が広がっている。
「…………え、え……?」
動かない右手は――ベッドサイドで突っ伏して眠る稜司にしっかりと握られていた。
ベッドの横に椅子を持ってきて、座ったまま上体を倒して眠っている。
(な、な……なんで!?)
固く握られた手は……どうやっても解けない。
「えええええええ――っ!?」
真也の叫びにも負けずぐーすか寝こけている稜司を叩き起こし、とりあえずリビングで向かい合って話をする。
一体何がどうしてこうなったのか。……納得いく説明を求めたい。
「……えーと、怒ってる?」
「というより、びっくりしてる」
だよねー、とへらへら笑う稜司を一睨みし、一旦黙らせる。
「なんで俺の部屋で……あんな風に寝てたんだよ」
「ん……説明しなきゃダメ?」
「当たり前だ!!」
人の部屋に入ってきて、あんな不自然な体勢で……おまけに手を握って眠っているなんて。
正直、心臓が止まるほどに驚いた。
「ん~……じゃ、告白します」
ハイ、と右手を挙げて、稜司は観念したように話し始める。
「俺ね、一人じゃ眠れないんだ。誰かの気配と呼吸を近くに感じてないと、ホント駄目でさ」
「は!? じゃあ、今までどうやって……」
そこでふと気が付いた。
(そうか……今までは『誰か』と一緒だったんだ……)
途中で言葉を止めた真也に、稜司は小さく首を傾げる。
「いや、いい。……じゃあ、この1週間どうしてたんだ?」
「まあ……うたた寝程度ならできるからさ、適当に」
「って、だから顔色悪かったんじゃねーかよ……!」
昨日の夕食時、話をはぐらかされたのだと今ようやく気が付いた。
(くっそ……何だよ、それ……!)
不可解な怒りの感情が心の中でざわりと騒ぐ。
自分が何に怒っているのか、どうして怒っているのか判らないけれど……とにかく腹が立った。
「…………っ……」
「真也……?」
稜司はまるで捨てられた子犬のような表情をして、おずおずと真也の名前を呼ぶ。
……そんな顔で見つめられると、どうしていいか判らなくなる。
(ああもう、訳がわかんねぇよ!)
あの繋がれた手の温もりを思い出して、かあっと頬が熱くなった。
「と、とにかく、あんな寝方はするな!」
「……わかった。その……ごめん……な」
稜司はしゅんと項垂れ、真也に向かって深く頭を下げる。
いつもあんなに飄々としているくせに、軽い笑顔の裏でこんな顔もするのかと驚いた。
はぁ、と溜め息を吐くと、真也が怒っていると思うのか稜司はますます肩を竦める。
(……ったく、そんな顔すんなよ……)
「馬鹿」
「あ、あのさ、真也……俺、もうしないから……」
「いくらお前が馬鹿でも、こんな真冬にあんな格好で寝てたら風邪引くだろ!」
「…………へっ?」
間の抜けた声が稜司の口から漏れる。それが何だか小さな子どものようで、うっかり吹き出しそうになって慌てて堪えた。
「ちゃんと布団持って来い。……一人で寝られないなら、一緒に寝てやるから」
「い、一緒に寝る!? え……俺、惚れられてる? 真也って意外と大胆だな……」
「そういう意味じゃない! 誤解するな馬鹿っ!!」
ぽっと顔を赤らめる稜司に、真也は遠慮なく拳骨を落とす。
暴力は基本的に反対だが、ここは殴ってもいい場面だろう。
「真也、顔あかーい。マジかわいー」
「てめぇ……もう一発ぶん殴られたいか」
「うわっ、ゴメン! 冗談ですっ!!」
大げさに頭を庇う稜司の顔には、元通りの笑みが戻っている。……それが何だかとても嬉しい。
「そんな恥ずかしがらなくてもいーのに。ホント、真也はこういう恋愛系の話が苦手なんだなぁ」
「……恋愛なんて興味ない」
思わず声が固くなってしまう。……とにかく今は、恋だの愛だの考えたくない。
『あの子』から向けられた恋愛感情から――目を逸らしたい。
「……恋なんて、いらない」
「そう? 素敵なのに」
くしゃりと頭を撫でられ、その掌の温かさにまた鼓動が速くなる。
「恋は素晴らしいものだよ。人は恋をしないと生きていけない。これから……いっぱいするといい」
稜司の柔らかい声が、ゆっくりと心に染み渡っていく。
「楽しい恋も、辛い恋も、全部が真也を満たすから」
うっとりと、甘い蜜のような囁きが耳に忍び込む。
なんて――幸せそうに恋について語るのだろう。
(……う……何なんだ、何だよ、これ!)
どきん、どきんと鳴る心臓の音が頭の奥にまで響いてきて、目が回るようだ。
「ところで、真也。時間いいの?」
瞳を合わせて、にっこりと微笑まれる。
「え……ああっ、遅刻……っ!」
「高校生は毎日朝早くて大変だねぇ~。俺は午後からだもーん」
「くっそ、お気楽大学生め……!」
もう朝食を摂っている暇はない。
真也は大慌てで洗顔と着替えを済ませ、鞄を抱えて飛びだそうとした。
「あっ、真也。ちょい待ち!」
「何だよ!」
玄関先で靴を履いていると、背後から声を掛けられる。
一分一秒を争う時に何だ、と振り向くと、ぽいっと小さな包みを放られた。
「途中で食いな」
「あ……ありがとう」
掌の中に落ちてきたのは、携帯固形食料のシリアルバー。
「行ってらっしゃい。……それから、ありがとな」
「え……?」
「ほら、急げ! 電車乗り遅れるぞー」
「あ、うん……」
鞄を持ち、行ってきますと声を掛けて扉を開ける。
駅までの道を駆ける間も、稜司の言葉が何度も頭の中で繰り返し聞こえてきた。
『恋は素晴らしいものだよ。人は恋をしないと生きていけない。これから……いっぱいするといい』
まるで――魔法の呪文みたいだ、と思った。
◆ ◆ ◆
その夜、真也はリビングの家具を動かして端に寄せ始めた。
「見てないで手伝えよ」
「え……何やってんの、真也」
「いいから手伝え。スペース作るんだよ」
きょとんとしながらも、稜司は真也の作業に加わる。
「……よし。ちょっと狭いけど、まあこれなら大丈夫かな」
「あのー、もしもし、真也さん?」
戸惑う稜司を無視して、真也は自分の部屋のベッドから布団を引っぺがして運んできた。
「何やってんだよ。さっさとお前のも持って来い」
「あのー……ごめん。俺、さっぱり状況が読めないんだけど……」
「ここ。――隣に敷くんだってば」
ぺしぺしと床を叩き、自分の隣を指し示す。
「……え?」
「俺もお前もベッドシングルだし……一緒に寝るなら、こうするしかないだろ!」
どうするのが一番いいか、学校に行ってる間に考えた。
部屋に入るのを許してもいいが、あんな無理な体勢で寝ていたらその内確実に身体を壊すだろう。
「毎日ってのは流石に無理かもだけど、お互い寝る時間が合う時はこうやって寝れば……いいんじゃないか」
「真也……」
「い、いいから、早く布団持って来い! ぐずぐずしてたら、俺は部屋に戻るぞ!」
そう言って、ぷいっと横を向く。
頬を朱に染めて、そんな嬉しそうに見つめられたら……こっちが恥ずかしくなってしまうじゃないか。
スキップでもしそうな足取りで布団を取りに行く稜司の背中を横目で見ながら、真也はがしがしと頭を掻いた。
「えへへー」
「あーもー、うるさいっ! さっさと寝ろよ」
「だって、嬉しいんだもーん」
電気を消してからも、稜司は浮かれたように笑っている。
ごろりと転がる気配がしたと思ったら、すぐ間近に稜司の顔があった。
「ちょっ……近……」
「だって狭いんだもーん」
大きな猫がごろごろと喉を鳴らしてすり寄るように、稜司は真也に身体を寄せてくる。
「お、お前なぁ……!」
「真也、あったかいなあ。子ども体温って感じ」
「だから近いって! 離れろ!!」
やっぱりやめときゃよかったか、と思った瞬間、するりと手を握られて鼓動が高鳴る。
(うわ……っ)
どきどきと心臓が暴れ出し、身体全体を震わせるようだ。
「り、稜司……?」
「……ありがと、真也。おやすみ」
ふう、と深い息を吐いて、稜司は目を閉じる。……その数秒後、もう寝息が聞こえてきた。
「……え? うそ……」
昼寝が趣味の3秒で寝られる特技を持つ国民的漫画キャラでもあるまいし、なんだこの寝付きの良さは。
「どれだけちゃんと寝てなかったんだよ、コイツは……」
よっぽど眠かったのだろう。稜司は安心しきった様子ですっかり熟睡している。
すうすうと深い寝息を立てる姿を見て、真也は小さく苦笑した。
「……俺は目が冴えたってのに、気持ちよさそうに寝やがって」
あーあ、と思いながらも、頬は緩む。
(ちょっと可愛い……かも)
手をぎゅっと握り、真也に全幅の信頼をおいて無防備に眠る姿は、普段の飄々とした様子と違って無性に庇護欲をかき立てられる。
(……やっぱり、不思議な奴だ)
狭いリビングで、大の男二人がぎゅうぎゅうに布団をくっつけて。
きっと絵面的にはかなり可笑しいことになっているような気がする。
(あー……何やってんだろ、俺……)
我に返ると、恥ずかしさに襲われる。
それぞれ自分の部屋があるのに、こんな事をしてるなんて馬鹿かもしれない。
「……ん…………」
きゅっと手に力が籠もり、稜司の口から微かな声が漏れる。
眠っているせいで体温が上がっているのか、繋いだ手がすごく温かい。
(まあ、いいか……)
「こうして……並んで寝るのも……悪くない、よな……」
ふぁ、とあくびが漏れた。
繋がった体温の温かさと、すぐ傍にいる優しい気配が真也をゆっくりと眠りへと誘う。
(おやすみ……)
目を閉じると、昨夜と同じ暗闇に包まれる。
だけど……昨日と同じ夢はもう見ない。
――あの冷たい世界には、もう迷い込まない。
(あったかい……)
真也は温もりに安堵しながら、ゆるゆると眠りについた。
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