プロローグ『変身』
最近の若いやつは分からん。
それが五十二歳、佐々木公作の口癖だった。
祖父が興した自動車部品メーカーの専務取締役。
社長は五歳上の兄が務めている。
公作は次男だ。
跡継ぎではないが、会社の実務の大半には関わっている。
兄が外で仕事を取り、公作が中を回す。
そんな役割分担だった。
妻と二人の子どもがいる。
大学生二年生の娘と、高校一年生の息子。
趣味は読書と古書店巡り。
特に歴史が好きで、自宅の本棚は歴史解説書やノンフィクション作品に侵食されている。
休日の朝は紙の新聞を広げ、気になった記事があればそのまま何時間も調べ始める。
娘はレポートで困るたびに公作のところへ来た。
「お父さん、〇〇って何?」
が始まりだった。
気付けば一時間講義になる。
そして最後は決まって、
「聞いた私が悪かった」
と言われる。
褒められているのかどうかは分からない。
若者が嫌いというわけではない。
興味はある。ただ分からないのだ。
高校生や大学生が何を考え、何に悩み、何を面白いと思っているのか。
ニュースを見ても分からない。
SNSを見ても分からない。
高校生の息子に聞いても、
「別に」
と、これで会話が終わってしまう。
最近の若いやつは本当に分からん。
そんな生活が、ある朝一変した。
身体がおかしい。
土曜日の朝五時。
前日は出張帰りで、シャワーだけ浴びてそのまま寝てしまった。
最初に異変を感じたのは、寝返りを打った時だった。
軽い。
体が妙に軽かった。
まるで、これまで生きてきた五十年分のコリが解れたような、そんな感覚だった。
肩に何かが触れる。
さらりとした感触。
長い髪だった。
自分の髪はここ十年はずっと刈り上げで髪を伸ばすこともなかった。
「……?」
公作は目を開いた。
まだ薄暗い寝室。
隣では妻の恵子が眠っている。
首を動かすたび、髪が頬にかかる。
布団から腕を出す。
細くて白い華奢な腕。
自分の知らない腕だった。
「なんだこれ」
出た声が高い。女の子の声だ。
まるでテレビに出ている若いアイドルのような声だった。
自分の声じゃない。
思わず飛び起きた。
着ているのは見慣れた寝巻きだった。
紺色の綿の上下。
何年も着続けているお気に入りだ。
自分にピッタリで着心地がよかった。
妻からは何度も買い替えを勧められている。
その寝巻きの袖が余っている。
肩幅が合わない。
ぶかぶかだ。
寝巻きだけが五十二歳のままで、中身だけが別人になったようだった。
どう考えてもおかしい。
慌てて立ち上がる。
ズボンがずり落ちそうになる。
慌てて持ち上げる。
部屋の隅にある姿見が目に入る。
夫婦で使っている鏡だ。
公作は吸い寄せられるように近づいた。
そして固まった。
そこには知らない少女がいた。
長い黒髪に小さな顔。
整った目鼻立ち。
十代半ばにしか見えない。
だが、その少女はよれよれのおっさんが着るような寝巻きを着ていた。
腕を組み、眉間に皺を寄せ、鏡の前で会社の決算資料でも眺めていそうな顔をしている。
「……は?」
公作が言った。
「……は?」
鏡の中の少女も同じように言った。
「…………」
鏡を見つめて、三分ほど考えた。
原因も理由も何も結論は出なかった。
五十二年生きてきた。
これまで、様々な苦境に遭ってきた。
一九九〇年代の不況も経験した。
会社の業績悪化で資金繰りに奔走したこともある。
育児はどうすればいいのかの連続だった。
家を買い、住宅ローンとも向き合った。
つい最近、ローンは完済したところだ。
しかし、これは今まで経験したことがなかった苦境だった。
「おい、恵子」
ベッドに戻り、妻・恵子の肩を揺する。
「起きろ」
「んー……」
恵子が薄く目を開く。
眠そうな目が公作を捉える。
お互いに見つめあって数秒。
「…………」
さらに数秒。
恵子は目を閉じた。
「おい、恵子!」
「夢ならもう少し寝かせてほしい……」
知らない少女が寝室にいる。
流石に現実と認識できなかったらしい。
恵子がしぶしぶ目を開けて言う。
「それで、あなた」
「どちら様?」
「俺だ」
「おやすみなさい」
即答だった。
「俺だって」
「知らない女の子が寝室にいるなら夢よね」
「俺は知らない女の子じゃない」
「じゃあ誰?」
「佐々木公作だ」
「……おやすみ」
会話にならなかった。
「よく見てくれ」
「見てるわよ」
「公作だ」
「全然違うじゃない」
「俺だ」
「でも女の子じゃない」
「そこは俺もそう思う」
恵子は額を押さえた。
公作もかなり混乱しているが、ここで泣きわめくわけにもいかない。
「じゃあ聞くけど」
妻は真顔になった。
「私の旧姓は?」
「高橋」
「結婚記念日」
「六月十二日、毎年お前のお気に入りのケーキを買っている」
「初デートは?」
「熱田神宮で俺がはぐれて、お前が怒って一週間は口を聞いてくれなかったな」
「娘の小さい頃の呼び名」
「みーちゃん、今言うと怒るよな」
「息子が小学生の時に飼ってた亀の名前は?」
「キング、決めきれないあいつの代わりに俺が名付けた」
「やっぱりネーミングセンスは最悪ね」
「翔太は喜んでただろ」
「私の誕生日」
「十一月二十七日」
「それは覚えてるわよね」
「忘れたら一週間口を聞いてくれないからな」
「よく分かってるじゃない」
質問は続いた。
夫婦にしか分からないこと。
家族しか知らないこと。
昔の失敗話。
恥ずかしい思い出。
そのたびに恵子の表情から疑いが少しずつ消えていった。
だが、間違いなく困惑の色も浮かんでいった。
そして十分後。
恵子は黙った。
目の前の少女を見る。
顔は知らない。
声も知らない。
だが話し方は知っている。
考え方も知っている。
記憶も共有している。
ため息のつき方も知っている。
面倒そうに眉をひそめる癖まで同じだった。
「……本当にあなた、公作さん?」
「だからそう言っとるじゃないか……」
恵子はしばらく少女を見つめて、言った。
「……かわいいわね」
「そこなのか?」
恵子は吹き出した。
「だって、女子中学生の顔で、そんなおじさんみたいな寝巻き着てるのは反則でしょ」
公作は人生で初めて、自分の見た目で笑われた。
この時の佐々木公作はまだ知らない。
会社を辞めることになるのも。
兄と口論になるのも。
戸籍の上では中学三年生になるのも。
そして来年の春、高校へ入学することになるのも。
ただ一つ確かなのは、人生が取り返しのつかない方向へ動き始めたということだった。




