第1話:初めての友達
教室の隅。そこが、百舌子にとっての世界の果てだった。
窓際を流れる雲も、廊下の喧騒も、すべては透明な壁の向こうの出来事だった。
「あの……っ……」
時折、ふいにかけた声は、誰の耳にも届かずに消える。
もし声が届いても、無理に話そうとすれば言葉を噛み、視線が泳いでしまう。いざとなると喉の奥がぎゅっと縮こまり、言葉が喉に引っかかってしまうのだ。そんな不格好な自分を晒すくらいなら、黙って机に伏せている方がずっと楽だった。
誰の視線にも触れず、誰にも名前を呼ばれない。誰の記憶にも残らない。
それが彼女の行き着いた、あるいは押し付けられた終着点だった。
「——友達、欲しいな」
ふと、そんな言葉がこぼれそうになる。
口には出さない。願うだけなら誰にも迷惑はかからない、何より、拒絶される痛みを味わわずに済むから。
その夜、百舌子はいつもの安心できる布団に潜り込んだ。
天井の染みを眺め、ゆっくりと意識を沈めていく。
もし明日、目が覚めたとき。誰かが隣で笑ってくれたなら。そんな淡い、けれど彼女にとっては切実すぎる祈りを抱いて眠る。
……次に目を開けたとき、視界を埋め尽くしたのは、限りなく広い空だった。
「……え?」
見たこともないほど澄んだ、吸い込まれそうな青空。陽の光は傾き、木々の影を妖しく伸ばしている。
呆然とその色を眺めていた意識に、少し遅れて、じわじわと身体の感触が戻ってくる。
背中に伝わる、チクチクと刺すような草の感触。
頬を撫でる冷たい風は、嗅いだこともないような、ひどく濃密で甘ったるい匂いがした。
これは夢、そう思おうとした。けれど、耳を打つざわめきが、あまりにも現実的に鼓膜を震わせる。
立ち上がろうとしたその時、草むらが大きく波打った。
現れたのは、赤黒い影のような怪物だった。
思考が追いつくより先に、剥き出しの殺意が肌を刺す。
「っ、……がはっ!」
衝撃になす術もなく弾き飛ばされ、地面に叩きつけられる。
肺から空気が搾り出され、脳を真っ白に染めるほどの激痛が走った。
夢じゃない。恐怖が指先まで支配する。
逃げなければ。死にたくない。
震える膝を叱咤して立ち上がり、百舌子はがむしゃらに駆け出した。
草を踏み潰す不気味な音が、背後から迫ってくる。
心臓の鼓動が耳元で鐘のように鳴り響く。それと同時に、妙な苦しさが百舌子を襲った。
呼吸をするたび、空気に混じった「得体の知れない何か」が、肺から血管の隅々へと土足で踏み荒らしていく。吸い込むほどに内臓がざわつき、身体が「これを受け入れるな」と本能で悲鳴を上げていた。
外側からは逃げ場のない厚い圧力に包まれ、内側からは未知の成分に細胞を侵食されるような、おぞましい異物感。
「はっ、……ひゅう、っ……!」
必死に腕を振るが、もつれる足は思うように進まない。一息吸うごとに異物は体内へ蓄積され、胸の奥が焼けるように熱い。
視界が明滅し、意識が遠のきかける。
——ついに、限界が訪れた。
むき出しの木の根に躓き、百舌子は為す術もなく前のめりに倒れ込んだ。
地面に強く打ち付けられた衝撃で、世界がぐらりと歪む。もはや、立ち上がる力は残っていない。
「あ……痛っ……」
そこで初めて、百舌子は気づいた。自分は靴を履いていない。薄い寝巻きで、裸足のまま走っていた。
鋭い石が肉を裂き、枯れ枝が皮膚を抉り、足裏は無残に赤く染まっていた。
気づいた瞬間、焼き火箸を押し当てられたような声にならない痛みが、足首から脳天までを駆け抜けた。
ここはどこ? どうしてこんな目に遭うの?
教室の隅にいた、名前も呼ばれない自分。
誰にも言葉を届けられなかった、透明な自分。
こんな、世界のすべてに拒絶されるような場所で消えていくのが、お似合いなのかもしれない。
(せめて、友達と呼べる人に……名前を、呼んで欲しかったな……)
涙が溢れ、日が傾き夕焼けに染まり始めた空が滲んだ。
百舌子は諦めて、ぎゅっと目を閉じる。
終わり待つ時間は、ひどく永く感じられた。
……けれど。
覚悟していた絶望的な終わりは、いつまで経っても訪れなかった。
代わりに聞こえたのは、パキパキという、空気が凍りつくような音。
恐る恐る顔を上げると、そこには凍結し、彫像と化した怪物の姿があった。
「……はぁ。まったく、大丈夫ですか?」
声の主に、百舌子は目を奪われた。
神々しい夕焼けのような赤髪。背中には大きな白い翼。
陽の光に照らされたその少女の翼が、一際輝いているかのように見えた。
「……天、使?」
呆然と紡がれたその音を、少女はきょとんとした顔で受け止めた。聞いたこともない言葉を投げつけられたような、不思議そうな顔をして。
凍りついた怪物が砕け、蒸発するかのように消えると、少女はすぐに視線を上空へと逸らした。まるで、口うるさい「誰か」に言い訳をするように。
「……つい助けちゃいましたけど、魔物相手であれば、問題ありませんよね?」
その声は明るく、けれどどこか、窮屈な不自由さを感じさせた。
「ひどい怪我ですね」
その声に、はっとして顔を上げる。
視界の端でゆらりと揺れるのは、神々しい赤髪と、先ほどまで魔物を屠っていた凍てつく気配。
少女は、百舌子の足元に静かな視線を落としていた。
泥を噛み、血で真っ赤に染まり、小刻みに震え続けている裸足。
そして、少しだけ困ったように、彼女は言った。
「……先が、思いやられますね」
その、何気ない一言。
突き放すようでいて、どこかこれからの行く末を案じるような響きが、百舌子の中に張り詰めていた細い糸を一気に断ち切った。
「あ……」
喉が、酷く震えた。
安心したのか、怖かったのか、それとも耐え難いほど痛かったのか。自分でももう、判別がつかない。ただ、せき止めていた感情が一度に押し寄せてきた。
「い……っ、いた……い……っ」
それまで、生きるために脳が必死に無視し続けていた痛覚が、ここぞとばかりに牙を剥く。
石に切り裂かれた足裏が、熱を帯びて拍動する。擦りむいた膝と肘が、外気に触れるだけで焼けるように痛む。全身の関節が、過度な緊張の反動で悲鳴を上げていた。
「う、うぅ……あ、……ぁぁ……」
涙が止まらない。
恥ずかしいとか、みっともないとか、考える余裕なんてこれっぽっちもなかった。ただ、異世界に放り出され、死の淵を駆け抜けた百舌子の心は、目の前の「天使」に、その弱さをすべて預けることしかできなかった。
少女は慌てた様子も見せず、崩れ落ちそうになる百舌子のそばへ寄った。
そして、躊躇うように細い指先を伸ばし、百舌子の肩をそっと抱き寄せるように支えた。
「……歩けますか。街まで連れて行ってあげますから。ほら、しっかりしてください」
肩に添えられた手のひらから伝わってくる、確かな熱。その温もりに縋るようにして、百舌子は必死に呼吸を整える。
「あ、……ぁ……あ、りが……と……。て、天使、さま……」
絞り出した感謝の言葉に、隣の少女は首を傾げる。
「……テンシ? それ、私のことですか?」
意外そうに、けれどどこか楽しげに、彼女は百舌子の顔を覗き込んだ。
「私はエリス。テンシという呼ばれ方は初めてですが、悪くないですね。でも、……そうですね、エリスちゃん、とでも呼んでください」
冗談っぽく言う彼女に不思議と笑みが零れそうになる。
エリスちゃん。
その響きがあまりに場にそぐわなくて、百舌子は泣き濡れた顔のまま、呆然と彼女を見上げた。大きな白い翼を持つ、この世のものとは思えないほど美しい存在が、自分に対して目を向けていた。
「それで、あなたの名前は?」
「も、百舌子……です。もず、こ……」
「モズコ?」
エリスは眉をひそめ、その奇妙な響きを咀嚼するように繰り返した。
「それでは行きましょうか、モズコさん」
百舌子はエリスに体を預け、痛みに耐えながら歩きだした。
エリスの肩に体重を預け、引きずるようにして足を動かす。
視界に入る景色は、驚くほど不自然だった。舗装された道路はなく道端に生える雑草も、時折混じる松や樫のような樹木も、百舌子の住む場所ではないことを語っている。
見上げた空を遮るものはなく、毒々しいほどに青く、肺に吸い込む空気は鉛のように重い。
「……あの、エ、エリス……ちゃん?」
「なんですか?もうすぐ目的の場所に着くので、頑張ってください。」
支える手つきは丁寧だが、口調はどこまでも軽やかだった。
百舌子は「ここはどこ?」と聞こうとして、言葉を飲み込んだ。足裏を抉る砂利の痛みと、体内に蓄積されていく正体不明の「重み」に意識を削られながら、ただ彼女の放つ冷たい気配にだけ縋り付いていた。
やがて、夕闇の向こうに石造りの尖塔が見えてきた。街の外れに建つ、古びた教会だ。
「ここなら、傷の手当てを受けられるでしょう」
エリスが重い木扉を無造作に叩く。現れたのは、フードの付いた黒い法衣に身を包んだ若い修道女だった。彼女は、扉の前に立つ赤髪の少女とその背にある巨大な翼を一目見るなり、あっと息を呑んで膝をつこうとした。
「め、女神様……! このような場所に、一体何を――」
エリスは修道女を片手で制し、百舌子を預けるように背中を押した。修道女は百舌子の凄惨な怪我に気付くと、すぐに動揺を隠せない様子で百舌子を奥の部屋へと連れて行ってくれた。
清潔なベッドが二つ並んでいるだけの部屋だった。百舌子がベッドに腰を下ろすと、修道女は震える手で百舌子の足を洗い、その傷跡に痛ましげな表情を浮かべた。
修道女は手際よく腕と足の傷を包帯で覆っていく。触れるたびに鋭い痛みが走り、百舌子は息を詰めた。
「痛むかもしれませんが少し我慢してくださいね」
修道女が祈るように手をかざすと、彼女の手の甲に青白く淡い模様が浮かび上がる。そこから溢れた柔らかな光が百舌子の傷に触れた瞬間、脳を支配していた激痛が、心地よい痺れとともに遠のいていった。
「なに、ま、魔法……?」
呆然と呟いた百舌子に、入り口の柱に背を預けていたエリスが、くすりと短く笑って答えた。
「魔法? そんな大がかりなものじゃありませんよ。それは『刻印』と呼ばれているものです。生きる者が、その身に宿すことのある力です。知らないのですか?」
エリスはそれ以上説明する気はないのか、ふいと視線を外に向けた。
「私の『刻印』では痛みを遠ざけることしかできませんが……ふぅ、少しは楽になるでしょう」
そう言って、修道女は安堵したように微笑むと、着替えを用意して部屋を出て行った。一人になった部屋で、用意された簡素な布靴を、まだ痺れの残る足に丁寧に履かせた。ひどく心許ない作りだったが、それでも、床の冷たさを遮ってくれるだけで十分だった。
百舌子はボロボロに破れ汚れた寝巻を脱ぎ、用意された服に袖を通そうとして――息を呑んだ。
胸元、鎖骨のすぐ下中央。
そこに、鈍く青白い光を放つアザのようなものが浮かんでいた。
「……なに、これ」
指で擦っても落ちることはない。アザというよりも深い刺青のような模様がじわりと熱を帯びていた。
(『刻印』……修道女さんの手にあったものと同じ。私にも何か特別な、自分を変えてくれるような力があるのかな……)
コンコン、と控えめなノックの音が響いた。
「着替え終わりましたか?であれば食事にしましょう」
修道女の声で考えるのをやめ、着替えを済ませる。
部屋を出て、小さな食堂で丸いテーブルを囲うように座ると、修道女は暖かな粥を出してくれた。
空腹に染みるとろりとした甘い、安心する味。けれど、飲み込むたびに胃の腑にずしりとした「重み」が溜まっていく感覚。舌では美味しいと感じているのに、それを異物だと拒んでいるような、不気味な充足感。
「……あ、あの、ありが、とう、ございます。え、えと……」
「セラフィオーレです。セラと呼んでくださって構いませんよ。女神様が連れてこられたのですもの。なにか事情があるのですよね。」
そう言ってにこっと微笑み、深くは聞かないセラに感謝する。正直のところ、百舌子にも自分に何が起こっているのかわかっていない。
「あの、エリス……ちゃ……」
不安を打ち消したくて入り口を振り返った。
けれどそこにはもう、赤髪の暖かな気配も白い翼の羽音もなかった。
「……女神様なら、たぶんもうお帰りになりましたよ。あの方は唐突に現れたりいなくなったり驚かされるんですよね。さあ、食べ終えたら休んでくださいね。しばらくここにいてもらっても構いませんから」
その夜、消灯された暗い部屋で、百舌子は一人、粗末な毛布を被った。
足の痛みは刻印の力で静まっている。けれど、身体にこびりついた重苦しさと、突然突き放されたような寂しさで、心臓の鼓動が耳障りなほど大きく聞こえる。
今日一日で経験したことを思い出す。唐突に知らない場所に投げ出され、傷だらけになるまで追い回され、不思議な力を見た。
何もできなかった自分が、こんな場所で一人で生きていけるのか。
エリスの呼んでくれた「モズコさん」という声を頭の中で繰り返しながら、百舌子は泥のような眠りへと沈んでいった。
深い闇の中、百舌子は目を覚ました。
心臓の音が異常に大きく響いている。ドク、ドクと、早鐘を打つような激しい動悸。身体に溜まった「重み」が、横たわっている百舌子の胸を内側から圧迫していた。
(……夢じゃ、ない)
あまりの苦しさに、百舌子はふらふらとベッドを抜け出した。少しでもいい、外の空気に触れたかった。
教会の裏手から外へ出ると、そこには見知らぬ街並みが月光に照らされていた。牧歌的で街灯はなく、自分の知っている文明ではないと感じた。
絶望的な静寂を切り裂いたのは、か細い「音」だった。
『……すけて……』
空耳ではない。その声は二度、三度と、震える百舌子の鼓膜を直接叩いた。
『助けて』
気づけば、百舌子は声の方へと走り出していた。借り物の靴で石畳を蹴り、無人の街の門を抜ける。
街道を少し進んだ先の道端に、小さな影がうずくまっていた。暗がりの中、青白い光が鈍く揺らいでいる。
「……猫?」
光に照らされ浮かび上がったのは、一匹の黒い猫のような小動物の影だった。体中から酷く出血し、地面を赤く染めている。片耳から放つ光は、今にも消えそうだった。
百舌子が駆け寄ろうとすると、その生き物は一瞬だけ彼女を鋭く一瞥した。そして、引きずるような足取りで、街道脇の林へと歩き出した。
「待って、怪我っ、してるのに……っ!」
時折、まるで「ついてこい」と促しているかのように後ろを振り返る。
百舌子は必死にその後を追った。借りた靴の底を通して、土の感触や木の根の凹凸が伝わってくる。
林を抜け、視界が開けた小高い丘の上。一本の大きな木の下で、百舌子は息を呑んだ。
月明かりの下、一人の傷だらけの少女が座り込んでいた。
その周りには、先ほどの猫、そして――喉を裂かれ、無残な亡骸となった大型の鷲のような白い鳥。
少女の紫色の髪が、月の光を浴びて宝石のように煌めく。
血の匂いが漂う惨劇の場であるはずなのに、百舌子はその光景を、血に濡れたその少女を、残酷なまでに「美しい」と思ってしまった。
少女はかろうじて息をしているが、側で彼女を見守っていた猫は、もう動かない。役目を終えたかのように、静かに息絶えていた。
「助けないと……っ」
百舌子が少女に駆け寄ろうとした、その時。
「何をするつもりですか?無理ですよ。もう長くはないでしょう」
背後から響いたのは、突き放すような冷徹な声だった。いつの間に現れたのか、エリスが暗い顔で俯きながら、そこに佇んでいた。
自分なんかに何ができるのだろう。
自分の無力さが、激しい頭痛と眩暈となって襲ってきた。
「女神なら、どうにかできないの……!?」
それはエリスに向けた言葉ではなく、行き場のない絶望を叩きつける、八つ当たりのような独り言だった。
けれど、その呟きは夜の静寂を切り裂き、隣に立つエリスの胸を正確に貫くようだった。
エリスは何も答えられなかった。
ただ、死にゆく少女を見下ろすその瞳は、冷徹さとは程遠い、己の無力さを嘆くような、痛ましい色に染まっていた。
(嫌だ。……変わりたい。こんな、何もできない自分のままじゃ嫌だ!)
身体中の「重み」が熱を持って胸に流れ込んでくる。
その時、死の淵にいた少女が、ゆっくりと目を開けた。
震える手が、救いを求めるように空を泳ぐ。力なく落ちそうになったその手を、百舌子は咄嗟に、両手で強く包み込んだ。
――その瞬間。
百舌子の胸から放たれた『青白い光』に二人は包まれた。
◆
(……苦しい)
肺に吸い込む空気はすでに熱を失い、指先の感覚も遠のいている。
魔獣に切り裂かれ、失血してこのまま死ぬ。
紫髪の少女は、冷たくなっていく自身の体温を他人事のように感じていた。
最後に縋る思いで振り絞った、誰にも聞こえないはずの助けを求める『声』。それさえ、誰かに届くなんて思っていなかった。
(せっかく、守ってくれたのに……ごめんね)
動かなくなった黒い影――自分のために盾となった友へ、心の中で謝罪を口にする。
瞼が、重い。すべてを諦めて闇に沈もうとした、その時だった。
「女神なら、どうにかできないの……!?」
叫びが聞こえた。
それは八つ当たりのように激しく、けれど何よりも、自身の無力さを嘆く切実な声。
少女は、最後の力を振り絞って目を開いた。
視界が明滅する。
月明かりに照らされて輝く黒髪の少女。そして、その傍らに立つ、翼を持った神々しい存在。
どこかで見た光景だった。
(そうだ。たしか、幼い頃に読み耽った絵本に出てきた……)
――救世主は、翼と共に訪れる。
「……あ」
少女は弱弱しい声を上げ、震える手を伸ばした。
絶望の底で、最後に見た希望。
黒髪の少女が、その手を両手でしっかりと受け止めてくれる。その掌の熱さが、死にゆく少女の魂をこの世界に繋ぎ止める鎖のように感じられた。
(……この人が、私の……)
瞬間、二人を飲み込むように青白い光が爆発した。
◆
静寂が、惨劇の丘を包み込んでいた。
百舌子は、光の中で今にも消え入りそうな少女の手を、逃がさぬように強く握った。
死なせたくない、
何もできない自分はもう嫌だ。
いつか教室の隅で、透明な壁の向こう側を眺めることしかできなかった日々の記憶。誰の手も握れず、誰の名前も呼べなかった、あの痛いほどの孤独。
そのすべてを乗せた「重み」が、いま、百舌子の胸元にある『青白い痣』へと収束していく。
溢れ出した光は、残酷な傷跡を白一色の世界へと塗り替えていった。
光が触れた場所から、変化が始まる。少女の傍らに横たわっていた黒猫と大鷲の亡骸が、音もなくさらさらと、柔らかな粒子に解けていく。
解けた命の欠片は、幾千もの細い光の糸となって夜空を舞い、百舌子と少女を包み込む渦となる。
その光の糸を編むようにして、少女の肉体を再構成していく。
紫色の髪の間から、闇を吸い込んだような漆黒の獣の耳が芽吹き、しなやかな尻尾が生える。
細い両腕を光の糸が幾重にも旋回し、真っ白な羽毛を蓄えた力強い翼へと編み上げていく。
さらに光の奔流は、彼女の太腿から下を、地を蹴り空を掴むための大鷲の肢体へと作り替えていった。
それは、失われかけた命の器に、解け出した別の命を丁寧に、慈しみを込めて織り込んでいくような、神聖な光景だった。
やがて全ての糸が収まり、眩い輝きがふっと霧散する。
そこには、複数の命をその身に宿し、再び静かな鼓動を刻み始めた「新しい命」が横たわっていた。
百舌子は、その姿を呆然と見つめた。猫の耳、尻尾、大鷲の脚、そしてひときわ目立つ白く大きな翼。
理屈ではなかった。名前も知らない、言葉も交わしていない。けれど、自分の祈りが編み上げたその異形な美しさに、百舌子は魂を奪われたように目を離せなくなった。
孤独だった世界に、たった一つだけ、触れても消えない「自分だけの答え」を見つけたような――それは、自分でも理解できないほどに激しく、深い感情だった。百舌子はその美しい姿に、目が離せなくなっていた。
「……なん、ですか、それ……」
氷のように冷ややかな声が、二人の沈黙を突き刺した。
百舌子が顔を上げると、そこには不機嫌を隠そうともしないエリスが立っていた。
神々しかったはずの美貌は、いまや見る影もなく歪んでいる。眉根をこれ以上ないほど不格好に寄せ、悔しそうに唇を噛み、顔を背けた。
その瞳に宿っているのは、激しい拒絶と、それ以上に深い嫉妬のように見えた。
引きつった頬の痙攣を隠すように無理やり冷淡な表情を張り付かせ、彼女は吐き捨てるように言った。
「理解、できません……」
行き場のない苛立ちや、自分自身の弱さへの悔しさからか、エリスは逃げるように視線を逸らした。
彼女は乱暴に翼を広げると、一度も振り返ることなく、月光の彼方へと鋭く飛び去っていった。
丘の上には、再び二人きりの静寂が戻る。
その時、少女の長い睫毛が震え、ゆっくりと瞼が開いた。
死の淵から引き戻された少女の視界を最初に埋めたのは、こちらを見つめる深い夜の色をした瞳だった。じわじわと現実に重なっていく、頬を撫でる夜風の冷たさ。そして、自分を繋ぎ止めている手の、震えるような温もり。
少女は、その温もりの主を強く抱きしめようと、両腕に力を込めて――そして、止まった。
自分の腕があるはずの場所に、今まで知らなかった質量と感覚がある。視界の端で、真っ白な羽毛がふわりと舞った。
「……え?」
自身の異形に気づき、少女の喉が驚愕に凍りついた。
けれど、それ以上に少女の心を打ったのは、少女を支える百舌子の、痛々しいほどの震えだった。
か細い腕を覆った包帯を血に滲ませ、震えながらも、決して少女の手を離そうとしない。
今にも倒れそうな脚は、新たな切り傷で血が滲んでいる。それでも百舌子は顔を伏せながら、瞳の端から少女の翼や脚を、優しく心配そうに覗き見ていた。
現実感が戻り、自分の起こした「奇跡」を自覚した。百舌子は取り返しのつかない「罪」の重さに、心が今にも砕けそうだった。自分が彼女を、こんな姿に変えてしまった。救いたいという願いの果てに、彼女の人間としての尊厳を奪い去ってしまった。
「……ごめん、なさい……私、が……」
消え入りそうな謝罪が唇からこぼれた、その瞬間だった。
ふわりとした温かな質量が百舌子の背を包み込んだ。少女が大きな翼を精一杯に広げ、震える百舌子を抱き寄せたのだ。
「……っ」
百舌子は息を呑む。
翼の内側の、驚くほど柔らかで熱を帯びた羽毛が、百舌子の全身を温めるように覆った。
翼を通して彼女の震えが伝わってきる。自分の不安を押し殺してまで、百舌子を案じ落ち着かせようとしている。
「……どうして謝るの?あなたが、私を繋ぎ止めてくれたんでしょう?」
その言葉に百舌子は心から救われた。
しばらくそうして体温を分け合ったあと、百舌子はおどおどと顔を上げた。
翼がそっと離れ、彼女が立ち上がろうとして、危うい足取りを見せた。
「あ……あの、だい、じょうぶ……? うご、けそう……?」
百舌子は消え入りそうな声を出しながらも、彼女の体を支えた。
そんな姿にしてしまった自分が、そんなことを聞くのは無神経ではないか。あらぬ心配が浮かんでは消える。
「……大丈夫。少し、慣れないだけだから」
少女の細い声に、罪悪感を拭えないまま、百舌子は小さく頷いた。
ふと、遠い夜闇の先に、木々の向こう側で小さく揺れる光の粒が灯っている。
「……ここから……離れたほうが、いい……かも」
そう言って、百舌子は遠くに見える光を指さした。
少女は、厚い羽毛に包まれた大鷲の脚を恐る恐る動かし、一歩ずつ大地を確かめるように歩き出す。百舌子は彼女が倒れないよう、片時もその身体を離さず、翼の付け根を支えながら寄り添った。
「……あの。あなたの名前は?」
教会の尖塔が月光の下で見えてきた頃、隣を歩く少女が、ふと百舌子の顔を覗き込んできた。
「……私は、百舌子。もず、こ、っていいます」
教室の隅では、一度も誰かに届くことのなかった名前。
少女は足を止め、その鉤爪で地面をぎゅっと掴みながら、百舌子を見つめ返した。
「モズコ……。私はユリーフィア、いえ……ユリナ、ユリナと呼んでください。……モズコ、私を救ってくれてありがとう」
ユリナの心からの感謝を聞いて初めて、百舌子は誰かを助けられたのだと実感する。自分のこの力が本当に誰かの救いになるかどうかまだよくわからないけれど。
百舌子の、今まで身体にこびりついていた、あの鉛のような「重み」が、跡形もなく消え去っていた。




