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『あの庭は妻の趣味だから潰せ』と仰ったそうですね。  作者: 秋月 もみじ
第1章

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第5話 荒野の土は、生きていた


何もない、と人は言うだろう。


地平線まで続く褐色の大地。枯れた草が風に倒れ、灰色の岩が点在する。空だけが広い。圧倒的に広い。ヴァイスフェルトの整った平原とは何もかもが違った。


でも私の目には、この荒野は可能性で満ちていた。


と言えるほど、私は前向きではなかった。正確には、馬車を降りた瞬間、膝が震えた。七日間の旅路で身体が軋んでいるせいだけではない。ここに来て、本当にやっていけるのか。この土地で、一人で。


いや、一人ではない。アルヴィンがいる。でもアルヴィンは魔力を持たない。最終的に土に触れるのは私の手だ。この手が、またゼロから庭を作る。十三年かけて作り上げたものを置いてきた手で、もう一度。


風が砂を運んできて、目を細めた。唇が乾く。水が足りない土地の空気だ。ヴァイスフェルトとは別の乾き方。あちらは水はあるが人の心が乾いていた。ここは心の前に、土が乾いている。


◇◇◇


エーリヒ・フォン・グリューネヴァルト伯爵は、領主の館の前で待っていた。


石造りの二階建て。ヴァイスフェルトの壮麗な屋敷と比べれば質素だが、手入れは行き届いている。壁の漆喰がところどころ欠けているのは、直す予算がないのだろう。


「フローラ殿ですか」


短い。主語も敬称も省略された問いかけ。


目が合う。茶色の髪に灰色の目。日に焼けた顔。爪の先が欠けている。手が荒れている。貴族というより、自分で土を掘り石を運んできた人の手だった。背筋は真っ直ぐで、声は低く落ち着いていた。


「長旅だったでしょう。荷を下ろしたら、土壌の分析結果をお渡しします」


普通、初対面の挨拶にいきなり土壌の話はしない。でも、ありがたかった。社交辞令よりずっとありがたかった。この人は私を「公爵夫人」ではなく「植物魔法の専門家」として迎えている。


「拝見します。よろしくお願いいたします」


「……ああ」


それだけ言って、エーリヒは踵を返した。案内も半ばに、もう歩き出している。ぶっきらぼうだ。でも敵意は感じない。ただ、人との会話に慣れていないだけだと思った。


◇◇◇


用意された部屋は小さいが清潔だった。窓から荒野が見える。ベッドの上に、分厚い冊子が置かれていた。表紙に「グリューネヴァルト伯領 土壌分析書」と書かれている。手書き。丁寧な字だ。


開くと、土壌のpH、含水率、ミネラル組成が区画ごとに記されていた。三年分。三年間、植物魔法師を探しながら、この人は一人でデータを集め続けていたのだ。


ページの端に、小さなメモがあった。


「亡き妻の遺言:この土地を緑にしてほしい」


一行。それだけ。インクの色が他の部分と異なる。最初に書かれた一行だ。三年分の土壌データ、数百の数値、何十枚もの地図。すべてがこの一行から始まっている。


胸の奥で何かが動いた。同情でも共感でもない。もっと静かな、根が水に触れた瞬間のような感覚。この人も、誰かのために土を見つめ続けてきたのだ。


冊子を閉じて、窓の外の荒野を見た。広い。何もない。でも、ここには「これを変えたい」と願った人がいる。それだけで、十分な理由になる。


◇◇◇


翌朝、荒野に出た。


素足で土を踏む。砂質。乾燥している。でも五センチ掘ると、僅かに湿り気がある。地下水脈は存在する。深い。おそらく地下五十メートル以上。ヴァイスフェルトより遥かに深い位置を流れている。


土を一摘み取り、指で潰す。匂いを嗅ぐ。舌先で味を確かめる。


「……生きている」


鉄分が多い。酸性に寄っている。でも有機物がゼロではない。微生物も残っている。この土は死んでいない。長い間放置されて、眠っているだけだ。


口元が緩んだ。自分でも意外なほど、笑っていた。


「土を、食べたのですか」


振り向くと、エーリヒが数歩後ろに立っていた。いつからいたのだろう。荒野に人がいないから足音が響かない。


「味を確かめました。土壌の状態を知る最も早い方法です」


「……そうですか」


エーリヒの表情は変わらなかった。でも目が僅かに見開かれていた。驚いているのだと思う。ただし「変な人だ」という種類の驚きではない。自分が集めたデータの意味を初めて理解できる人間に出会った。そういう表情に見えた。


いや、それは私の願望かもしれない。人の顔を読むのは得意ではない。植物の顔なら読めるのだけれど。


「土壌は改良可能です」


気がつくと、口が勝手に動いていた。


「地下水脈は深い位置にありますが、水脈までの距離はヴァイスフェルトより近い。深根樹を植えれば、早ければ一年以内に届くかもしれません。浄化蘭の自生条件を整えるのに二年。生態系が安定するまでにさらに三年。ですが、この土地は変えられます」


言い切った。具体的な数字まで並べて、言い切った。十三年間、自分の仕事を「できます」と誰かに伝えたことがなかった。ヴァイスフェルトでは、誰もそれを聞いてくれなかったから。


◇◇◇


作業場に戻ると、小さな女の子が入り口に立っていた。


亜麻色の髪。大きな灰色の目。エーリヒの面影がある。六歳くらいだろうか。汚れた人形を抱きしめて、こちらを見上げている。


「あなたが、おはなのひと?」


「お花の人。そうですね、そうかもしれません」


しゃがんで目線を合わせる。女の子、リーゼは、私の手をじっと見た。爪の間に土が入り込んでいる。


「きれい」


汚い、ではなく、きれい。


この子の目には、土のついた手がきれいに見えるのだ。それだけのことが、不思議なくらい胸に沁みた。


エーリヒが慌てた様子で角を曲がってきた。


「リーゼ、邪魔をするな」


「じゃましてないもん。おはなのひとのて、きれいだもん」


エーリヒが私を見た。私はリーゼを見た。リーゼは私の手を見ていた。


三人の視線がぐるりと回って、最後にリーゼが笑った。欠けた前歯が見える、六歳の笑顔。この子は母親を三年前に亡くしたとデータ冊子の端に書いてあった。「お花の人」の手をきれいだと言うこの子がいて、亡き妻の遺言のために三年間土を調べ続けた男がいて、そしてここに、十三年間庭を守り続けた私がいる。


不思議な縁だ。いや、縁なんて綺麗な言葉じゃない。みんなただ、土に縋りついているだけだ。


「ここを、変えます」


誰に言ったのかわからない。荒野に風が吹いた。乾いた風。でも、冷たくはなかった。

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