第10話 秘密を手放す
論文を書いている。
王都の宿の机は小さい。羊皮紙を広げると端がはみ出る。インク壺を窓辺に置き、蝋燭を二本立てた。夜が深い。エーリヒは隣の部屋で眠っているはずだ。
ペンを取る。書き出しに迷う。
技術論文の書き方など、学んだことがない。祖母は口伝で教えた。母もそうだった。ブルーメンタール家の女たちは、技術を紙に残さなかった。残す必要がなかった。いつも隣に、教わる娘がいたから。
私には娘がいない。いるのは、血の繋がらない義理の息子だ。
ペン先をインクに浸す。書く。
「ブルーメンタール式水脈浄化術 原理、工程、および応用に関する報告」
硬い。論文とはこういうものかもしれないが、何か違う。私が書くべきなのは、学者向けの報告ではない。次にこの技術を学ぶ人のための、手引きだ。
書き直す。
「この技術には、まだ正しい名前がない」
祖母は名前をつけなかった。「うちのやり方」と呼んでいた。母は「お庭の仕事」と呼んだ。ヴィクトルは「趣味」と呼び、ゲルトルートは「呪い」と呼んだ。
正しい名前をつけたい。でも、今は書けない。名前は最後に決まるものだ。先に中身を書く。
◇◇◇
三日目。論文の骨格ができた。
第一章:深根樹の根の誘導法。魔力の注入量と方向制御。
第二章:浄化蘭の植え付けと活性化。土壌条件の整備。
第三章:月光草の配置と蒸散制御。夜間の水循環。
第四章:三種連携の構築と維持管理。
第五章:ヴァイスフェルト領の実績(13年分の日誌データ要約)。
第六章:グリューネヴァルト領の実績(1年2ヶ月分のデータ)。
附録:属人性の克服に関する提案。
附録が一番重要だ。ゲルトルートの指摘に正面から答える部分。
「属人性を克服するには、技術の公開と教育体制の構築が必要である。本論文はその第一歩として」
ペンが止まった。
ごめんなさい、おばあさま。
口の中で呟いた。祖母の声が聞こえる気がする。「誰にも教えるな」。でも、おばあさま。秘密のままでは死んでしまう。技術も、この土地も。
秘密を守ることが正しかった時代があった。ブルーメンタール家が小さな子爵家で、技術だけが家の価値だった時代。秘密こそが、家を守る盾だった。
でも、盾は錆びる。振り回せなくなった盾は、ただの重荷だ。
ペンを走らせた。
◇◇◇
四日目の夕方、ルートヴィヒからの手紙が届いた。早馬で中継されたらしい。封が歪んでいる。相変わらず蝋が下手だ。
「母上。浄化蘭が発芽しました」
便箋を持つ指の力が抜けた。
「馬場跡の土を三ヶ月かけて入れ替え、深根樹の主根の周辺に浄化蘭の種を蒔きました。発芽率は低く、百粒のうち七粒しか芽を出しませんでした。でも七粒、出ました。トビアスが毎日水をやっています。僕は魔力がないので、できることは限られますが、土壌のデータを取り続けています。母上の日誌を手本にして」
七粒。私がヴァイスフェルトで最初に蒔いたときは、十粒だった。条件が悪い中での七粒は、充分な数だ。
「母上が教えてくださった基礎理論は、僕にも理解できます。魔力の注入はできませんが、土壌条件の整備と水脈の監視は、魔力なしでもできることがわかりました。母上の技術は、血筋に依存するものではありません。学べば、できるのです」
学べば、できる。
この一行を、論文の附録に引用したい。十八歳の義理の息子の言葉を。
「追伸。母上が学術委員会に出席されると聞きました。論文に、ヴァイスフェルトの復元データを添えます。使えるものがあれば使ってください。僕も王都へ行きます。間に合うかわかりませんが」
来るのか。あの子が。
便箋を膝の上に置いた。視界が滲んでいる。文字が読めない。
属人的ではない。教われば、できる。
その証拠が、ルートヴィヒだ。私の血を引いていない。ブルーメンタール家の魔力特性を持っていない。でも学び、実践し、結果を出している。祖母の「血筋に依存する」は間違いだった。技術は、人から人へ渡せる。
◇◇◇
五日目の夜。エーリヒがデータ整理を手伝いに来た。
グリューネヴァルト領の土壌データを時系列で並べる作業。エーリヒの字は角張っていて読みやすい。数字を几帳面に転記していく。この人は元軍人で、報告書の書き方を身体で覚えている。
「エーリヒ」
「何だ」
「婚約の話を、してもいいですか」
ペンが止まった。インクの滴が紙に落ちて、小さな染みを作った。
「……ああ」
「法的な意味があるのは、わかっています。伯爵夫人になれば、徴用は無効になる」
「それだけじゃない」
「わかっています。わかっていますが、聞きたいのです。あなたの口から」
エーリヒがペンを置いた。椅子に深く座り直す。蝋燭の光が横顔を照らしている。頬骨のあたりに血が上っている。
「政略かどうかは」
言葉が途切れた。この人の言い淀みだ。名前を繰り返して時間を稼ぐ。
「政略かどうかは、俺が決めることじゃない。あなたが決めることだ」
決めるのは私。
ヴァイスフェルトでは、何も決められなかった。嫁ぐことも、庭を守ることも、去ることさえも。いや、去ることだけは決めた。あれが初めて、自分で決めたことだった。
「エーリヒ。鉄根木の芽を、見せてくれましたね。あのとき」
「……覚えているのか」
「覚えています。指輪の代わりだと」
「金がなかった」
「金はいりません。あの芽は、この土地でしか育たないと言いましたね」
「ああ」
「この土地でしか育たない。それは、ここにいなければ意味がない、ということです」
エーリヒが目を上げた。蝋燭の光が瞳に映っている。
「はい」
声が小さかった。喉の奥で絞り出したような「はい」。でも確かに言った。私が、決めて、言った。
エーリヒが何も言わなかった。何も言わずに、手を伸ばした。テーブルの上の、インクの染みの横。私の手に、そっと。
大きな手。荒れていて、硬くて、温かい手。
握り返した。初めて。三十四年間で初めて、自分から誰かの手を握った。
指先がじわりと温かくなった。手のひらが熱い。
エーリヒの頬が、蝋燭の光でなくても紅いとわかるほど、染まっていた。




