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『あの庭は妻の趣味だから潰せ』と仰ったそうですね。  作者: 秋月 もみじ
第2章

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第1話 使者は早馬で来た


穏やかだった。


いや、穏やかすぎた。こういう朝の後には決まって何かが起きる。植物魔法師として十四年、天気と土と水を読み続けてきた経験が、根拠のない不安を囁く。


でも今朝の荒野は、本当に穏やかだった。


試験区画の深根樹は、もう私の背丈を追い越している。幹に手を当てると、地下水脈の脈動が指先に伝わってくる。安定した流れ。七ヶ月前にこの根が水脈に到達してから、流量は少しずつ増えている。根が太くなっているのだ。地上では見えない変化が、地下で確実に進んでいる。


浄化蘭の白い花が朝露に濡れている。指で露を弾くと、蘭の葉先がかすかに震えた。浄化は順調。水質のデータを取るために、根元の土を摘む。舌先で味を確かめる。鉄分が減っている。いい傾向だ。


本格区画の着手は、来月から。試験区画の三倍の面積を、五年計画で。アルヴィンが土壌図を広げながら「奥様、ここの粘土層が予想より薄い。深根樹の根が通りやすいかもしれません」と言ったのは昨日のこと。六十一年分の経験則が、私のデータと一致していた。


この土地は変わりつつある。私の手で。


◇◇◇


朝食は三人で摂る。正確には三人と一匹。リーゼが拾ってきた野良猫が、食卓の下で丸くなっている。


「お姉さま、ねこがパンほしそう」


「猫にパンはあげません。猫は肉が好きなの」


「おにくもないよ」


「だから今朝は我慢してもらいましょう」


リーゼは七歳になった。去年より頬が少し引き締まって、顎の線がエーリヒに似てきている。人形を抱く代わりに、最近は庭の土を弄ぶことが増えた。理由は聞いていない。


エーリヒが黙って私の茶碗に蜂蜜を足した。匙で一掬い。多すぎず、少なすぎず。この人はいつからか私の好みの甘さを覚えていて、毎朝こうする。


「……甘いほうが」


「ありがとうございます」


それ以上の会話はない。ないのだが、蜂蜜を入れる手つきと、それを受け取る私の間に、言葉以上のものが流れている。


告白から二ヶ月が過ぎた。「この土地にいてほしい」と言われて、「ここにいたい」と答えて。それからどうしたかと言えば、何も変わっていない。いや、変わったこともある。エーリヒが食卓で目を合わせてくれるようになった。一瞬。すぐ逸らす。でも以前は逸らす前に合わせること自体がなかった。


恋人、という言葉が正確なのかわからない。私は三十四歳で、十三年間の白い結婚を経た後に、初めて誰かに「いてほしい」と言われた人間だ。恋人の作法など知らない。手を繋いだこともない。エーリヒもたぶん、亡き妻を失ってから三年間、誰ともそういう関係を持っていない。


二人とも不器用で、それが少し可笑しくて、でもその不器用さが嫌ではなかった。


◇◇◇


昼過ぎに、馬蹄の音が聞こえた。


荒野で馬の音は遠くまで響く。遮るものがないからだ。音の方角を確かめると、東。王都の方面だ。商人の定期便にしては速すぎる。


作業場の窓から見ると、早馬だった。一頭。騎手は軍装ではないが、外套に紋章が縫い取られている。水滴を象った紋章。


王宮水利局。


アルヴィンが視線を上げた。「奥様」


「見えています」


胸のどこかで、今朝の予感が頷いた。やはり穏やかすぎた。


◇◇◇


使者は若い男だった。二十代半ば。姿勢が良く、目が鋭い。エーリヒの館の応接間に通され、茶を出されても口をつけなかった。


「フローラ・ブルーメンタール殿ですね」


旧姓で呼ばれた。ヴァイスフェルトの名は使わない。当然だ。離縁している。


「はい」


「王宮水利局長官マティアス・フォン・ラインハルト閣下の名代として参りました」


使者が革袋から封書を取り出す。蝋印。王宮水利局の公印。封を切ると、羊皮紙の手触りが硬い。公文書だ。


読む。一行目で、指先が冷えた。


「王宮直属植物魔法師への任命通知。ならびに、王都への出頭命令」


声に出して読んだ。自分の声が妙に遠く聞こえる。


任命。出頭。王命。


十三年間、誰にも認められなかった技術を、王宮が「必要だ」と言っている。皮肉な話だ。認められたかった頃には見向きもされず、自分の居場所を見つけた今になって「来い」と言われる。


使者が言葉を続けた。「ヴァイスフェルト領の水脈崩壊に関する調査の結果、フローラ殿の植物魔法が国益に資する技術であると判断されました。王宮としては……」


「断ります」


使者の言葉を遮った。自分でも驚くほど、静かな声が出た。


使者の目が僅かに見開かれた。断られることを想定していなかったらしい。王命を断る人間は、普通いない。


エーリヒが応接間の入り口に立っていた。いつから来ていたのだろう。腕を組んで、壁に背を預けている。表情は読めない。でも顎がわずかに引かれている。何かを考えている顔だ。


「……そう簡単にはいかない」


エーリヒの声は低く、使者にではなく私に向けられていた。


知っている。王命を断れば罰則がある。平民の魔法師は徴用の対象だ。「断ります」の一言で済む話ではない。


でも、ここを離れるつもりはない。この荒野の根が、まだ伸びている最中だ。


使者に向き直った。


「お茶、冷めてしまいましたね。淹れ直しましょうか。荒野の薄荷茶ですが」


使者は一瞬、困惑した顔をした。エーリヒの口元が、ほんの少し、動いた。

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