第13話 庭園管理日誌、全十三巻
ルートヴィヒは日誌を最初から読み直すことにした。母に教わった知識を持って読めば、初めて読んだときとは違うものが見えるはずだった。
ヴァイスフェルトに戻って二日目の朝。母の書斎の引き出しから十三冊を全部出して、机の上に並べた。第一巻から第十三巻。革装丁の背表紙が日焼けで色褪せている。第一巻が最も古く、角が丸くなっている。第十三巻は比較的新しいが、それでも手の脂で表紙が光っている。何百回も開かれた本の光り方だ。
一巻目を開く。嫁入りの年。二十歳の母の字は、今より少し角ばっていた。
「庭園管理日誌 第一巻 ブルーメンタール・フローラ記」
最初のページ。日付と、天候と、土壌の状態。それだけ。飾り気のない記録。翌日も同じ形式。翌々日も。だが三日目から、欄外にメモが増え始めた。
「地下水脈を探る。地泉苔が北東に自生。水脈は生きている」
「浄化蘭の苗を十株植え付け。活着率は七割を見込む」
「深根樹の種を五粒播種。発芽まで三ヶ月」
一年目で百二十ページ。毎日欠かさず。雨の日も風の日も。体調を崩した日は字が乱れているが、記録は途切れていない。
◇◇◇
同じ頃、王宮査察団がヴァイスフェルト領に到着していた。
水利魔術師のクラウスは、かつて馬場だった場所、元の庭園跡を調査した。土を掘り、水脈の断面を観察し、残存する根の痕跡を分析した。
「公爵閣下。結論から申し上げます」
ヴィクトルの執務室。査察団長のクラウスが報告書を広げた。
「この領地の水不足の原因は干ばつではありません。庭園に植えられていた植物群、特に深根樹と浄化蘭が地下水脈の浄化・循環システムを構成していました。そのシステムが庭園の撤去により破壊されたことが、水質悪化と井戸枯渇の直接的原因です」
ヴィクトルの顔色が変わった。唇が一直線に引き結ばれている。
「馬鹿な。庭と水に何の関係がある」
「植物魔法による水脈浄化は、学術的にはまだ体系化されていない技術ですが、実在します。この庭園は十年以上かけて構築された高度な浄化装置でした。再構築には同等の植物魔法師が必要ですが、王国にはあと四人しかおらず、全員が王宮直属の任務に就いています」
沈黙が落ちた。
「つまり」
クラウスが静かに続けた。
「この庭園を設計・維持していた元公爵夫人が戻らない限り、短期的な修復は困難です」
「あなた方が直せないのか」
「水利魔術は浄化蘭の魔力体系と異なります。植物魔法師でなければ不可能です」
ヴィクトルの拳が机を叩いた。インク壺が跳ねて、書類に黒い染みが広がった。
◇◇◇
ルートヴィヒは日誌を読み続けた。
三巻目。嫁入りから三年目。庭園の基礎構造が完成し始めた年。記録の精度が上がっている。水脈の流量データが月ごとにグラフ化され、浄化蘭の株数と水質の相関が数値で示されている。科学論文のような記録を、母は誰に見せるでもなく書き続けていた。
五巻目。ヴィクトルが王宮に「領地緑化の成果」を報告した年。日誌には何も書かれていない。ただ、その日の欄外に小さく一言だけ。
「今日は疲れた」
八巻目。浄化システムの完成年。「八年かかった。母の設計より二年遅い。祖母なら笑うだろう」と書いてある。八年。地道な作業を八年間、一人で。
十一巻目。予算削減の通知が貼り込まれていた。ヴィクトルの署名入りの書類。その横に母の字で「浄化蘭の苗は自家栽培に切り替え。深根樹の剪定は延期。月光草の肥料は死守」と対策が書かれている。限られた予算の中で、何を優先し何を犠牲にするか。その判断の跡が、数字となって並んでいる。
ルートヴィヒの手が震えた。
十二巻目。ベアトリーチェの名前が初めて出た年。日誌には一言だけ。「庭園の予算が更に削減された。三割。理由は不明」。理由が不明なはずがない。母にはわかっていたはずだ。誰が吹き込んだのか。でも日誌には書かなかった。書く気力すら残っていなかったのだろう。
ルートヴィヒは自分の呼吸が荒くなっていることに気づいた。怒りだ。父への怒りではない。自分への怒り。十三年間、この日誌が引き出しにあることを知りながら、開かなかった自分への。
十三巻目。最後の巻。最後のページ。
「本日、庭が潰される。ヴィクトル様の命令。止める権限を持たない。アルヴィンに引き継ぎを託した。ハンスに日誌の存在を伝えるよう頼んだ。銀木犀の種だけは持って出る。母がくれたものだから」
それが最後の記録だった。
ルートヴィヒは日誌を閉じた。閉じて、両手で顔を覆った。
十三年。十三年間、母はここで一人で戦っていた。誰にも認められず、功績を奪われ、予算を削られ、それでも水を守り続けた。「趣味」と呼ばれながら。「何もしていない」と言われながら。
自分がその言葉を言ったのだ。客人の前で。使用人の前で。
日誌の革装丁を指でなぞった。磨り減った角。何百回も手に取られた表紙。この日誌を書いていたとき、母は何を考えていただろう。毎晩、書斎の灯りの下で、万年筆を走らせながら。
◇◇◇
ルートヴィヒは馬場に出た。
かつて庭だった場所。今は砂利と砂が敷き詰められ、馬の蹄鉄の跡が付いている。膝をついて、砂利をどけた。その下の土を掘る。素手で。指が痛む。爪の間に砂が入る。
三十センチほど掘ると、黒い根の残骸が出てきた。深根樹の根だ。断ち切られて、枯れて、それでもまだ土の中に残っている。
さらに掘る。手が血で汚れた。構わない。
根の残骸の横に、小さな種があった。浄化蘭の種。土の中で眠っている。まだ生きているかもしれない。
掘り返した種を手のひらに載せた。小さい。乾いている。でも、条件が揃えば芽を出す可能性はある。アルヴィンが言っていた。「種は土の中に残ります。何十年後かに芽を出すこともある」と。
ルートヴィヒは種をポケットに入れた。手が泥と血で汚れている。爪が割れている。痛い。でも、母は十三年間、毎朝こうやって土を掘っていたのだ。この痛みの何千倍もの時間を、一人で。
トビアスが駆けつけてきた。アルヴィンの弟子。二十代の若い庭師は、膝をついたルートヴィヒを見て目を見開いた。
「若様、お手が」
「大丈夫だ。これを見てくれ。浄化蘭の種だ」
トビアスが種を受け取り、指先で転がして確かめた。
「……生きています。植え替えれば、芽が出るかもしれません」
「やってくれ」
「はい」
立ち上がって、空を見た。ヴァイスフェルトの空は、屋敷の壁に切り取られた四角い空だ。でも今日は、その四角い空が、前より少しだけ広く見えた。




